表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
形而上の書庫  作者: 明星
4/9

日常 NE

「はぁ……」

今日、これで何度目のため息だろうか。

山本雅人は、液晶ディスプレイの薄い光をぼんやりと見つめながら、大きなため息をついた。

目の前には、十数万字にわたる異世界転生ファンタジー小説の原稿が広がっている。

タイトルは『スキル【絶対服従の愛玩動物ペット】を授かった俺が、なぜか魔王軍の幹部に成り上がって世界を救う件』。

(またこれかよ)

雅人は心の中で毒づく。

チート、ハーレム、無条件での主人公上げ、そして「ざまぁ」やスローライフ。

ここのところ目に通す小説はどれも同じような内容で、読まなくても展開が読めるほどの出来栄えばかりだった。

そう、彼は巷で「なろう系小説」と呼ばれるジャンルを専門に扱うWeb小説レーベルの編集者、正確には校正・校閲担当だ。

入社して7年。

この7年間、彼は歴史の変遷を目の当たりにしてきた。

(あの頃は良かった)

ラノベ、と呼ばれた小説ともたくさん触れ合ってきたのだが、あの頃は作品ごとに特徴があった。

似たような話は確かにあったが、それでもちゃんと、個性があった。

(それに比べて)

今は自分の目を通らなかったテンプレはない、と言い切れるほど、同じような話ばかりだ。

特徴のない主人公。受け身の主人公。そしてたった今生まれたばかりのような人格をしたモブ達。

(5年前、10年前、この世界はどうなっていたのか)

そんな当たり前のことすら設定せずに、ただ有る物を、ただ勢いだけで、ただ思いつきだけで書きあげられた小説達。

毎日毎日、毎日毎日、そんなつまらない、例えフィクションの世界だとしても破綻しているサクセスストーリーを読んで、誤字脱字、文法の間違い、設定の矛盾を洗い出していく。

この仕事に、もはや楽しさややりがいは欠片もない。


小説を読むのは元々好きだった。

純文学もSFも、ミステリーも、ファンタジーだって好んで読んだ。

編集者になったのも、漠然と「面白い物語を世に出す手伝いがしたい」という淡い憧れがあったからだ。

しかし、彼が今扱っているのは、世間的には「量産型」と揶揄される代物ばかり。

「どうして俺は、こんな仕事をしているんだろうな」

雅人はキーボードから手を離し、椅子に深く凭れかかった。

窓の外は、もう薄暗い。

この仕事は、やりたくない。

本当に心底、うんざりしている。


「じゃあ別の出版社に行けばいいんじゃないですか?」


あれはいつだったか、酒を飲んだ勢いで普段あまり話さない後輩に愚痴をこぼした時のことだった。

「嫌なら辞めて、別のところに行けばいいんですよ。俺は楽なんで、しばらくはこのまま働くつもりですけどね。

あっけらかんと、彼は言う。

しかし、雅人はその言葉にわずかな反論もできなかった。

そう、いつも、辞めたいと思った時には新しい問題が発生するのだ。

(じゃあ俺に、他に何ができる?)

という自問自答。

何も、できなかった。

彼は大学時代、文学部を出た。

特別なスキルや資格は持っていない。

編集という専門職に就いたものの、なろう系というニッチな分野での経験しか積んでこなかったために、他の出版社が求めるような、企画立案や作家との綿密な交渉といった能力は、正直言って自信がない。

かと言って、畑違いの一般企業に転職しようにも、無駄にしてしまった7年間と、「異世界ファンタジーの誤字を直していました」という職務経歴では、面接官を納得させる未来が想像できない。

「スキル【社会不適合者の才能アビリティ】を授かった俺が、なぜか異世界で編集者として成り上がった件……って、俺が主人公じゃ、全然面白くねぇな」

自嘲気味に呟く。

彼はジレンマという名の重力に囚われ、今いる場所から一歩も動けずにいた。

この仕事を辞めたい。投稿してきた奴らに本心をぶちまけて、何もかもを放り出して辞めてしまいたい。

だが、辞めたところで「次」が想像できない。

なまじ、この会社はそこそこの給料を払ってくれる。

クソ真面目に校正だけしていれば、クビになることもない。

最低限の生活は保障されているのだ。

この「最低限の安定」が、重い重い重力となって雅人を地面に深く沈み込ませていた。

ふと、画面の隅に表示されている、まだ未読の原稿リストが目に入る。

最新の企画タイトル

『実は聖女を極めた私、地味すぎるからと追放されたけど気にせずにスローライフを送っていたらいつの間にか世界を救っていました』

「……ははっ」

乾いた笑いが漏れた。

(それは物語じゃなくて、ただの設定なんだよ)

読むまでもない。

読みたくもない。

どうせ理不尽に追放され、周りが問題を持ってくる中、あれよあれよという間にチート能力で解決するのだろう。

(ああ、そうか)

雅人は少し、合点がいった。

自分は、異世界で追放されても「気にしない」主人公たちとは真逆なのだ。

この職場には居たくない。

でも、ここから追放されるのは、死ぬほど怖い。

雅人は再びため息をつき、冷めたコーヒーを一口飲んだ。

そして、覚悟を決めたようにキーボードに指を置く。

『絶対服従の愛玩動物ペット』の原稿の、三万七千四百五十二文字目。主人公の魔王軍幹部が、愛玩動物として主人公に首輪をつけられるシーンの直前。

<誤>「……もう、この力によりたい」

<正>「……もう、この力に頼りたい」

雅人は淡々と修正を加えた。

この単語一つを直したところで、彼の人生が好転するわけがない。

今日も、明日も、明後日も、彼はこの椅子に座り、「やりたくない」仕事と「他に何もできない自分」の間で、永遠にため息をつき続けるのだろう。

これが、山本雅人の人生の現実なのだ。

目の前のパソコンの中には、あり得ないがとても眩しい世界が広がっている。

しかしこの人生にはスキルアップやチート能力による逆転要素は、一切ない。

雅人は、再びキーボードから手を離し、今度は少しだけ、窓の外の星を眺めた。

「もし俺が転生するにしても異世界転生者のスキルを査定する編集者にだけは、なりたくないな……」

雅人はそう自嘲し、パソコンに向かうのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ