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形而上の書庫  作者: 明星
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異世界転移 BE

田中海斗、今年で37歳になる。

いい歳をして俺はいったい何をしているのだ、と自問自答する日もある。

だが彼の精神は、社会という濁流に流され続けただけで、学生時代の頃から何一つ成長していなかった。

責任からは逃げ、面倒なことは後回し。口先ばかりで行動が伴わず、自分より要領の良い同僚や楽しそうな若者を妬む。

彼の人生はそんな諦めと自己嫌悪の薄い膜で覆われていた。

そんな海斗にとって唯一の救いが、ファンタジーの世界だった。

寝る前にスマートフォンで読む異世界転生もののWeb小説。

休日に没頭するテレビゲーム。

そこでは、何の取り柄もなかったはずの主人公達が、理不尽なほどの強力なスキルを手にし、世界を救い、美しいヒロインたちに無条件で愛されている。

彼はそんな世界を、しかし単なる物語として楽しむことができなかった。

彼にとってファンタジーの世界はあり得たかもしれない「もしも」の人生だったからだ。

彼は本気で願っていたのだ。ある日突然、圧倒的な力が与えられ、人間関係のいざこざも、仕事のノルマも、将来への不安も、全てが吹き飛ぶような世界へ行きたい、と。

それは37歳の大人の男が抱くには、あまりに幼く、未熟で、身勝手な願望だった。

だから、彼が物理的に異世界「エルガリア」へと召喚されたことは、まさに奇跡そのものであった。


石造りの神殿、夜空に浮かぶ二つの月、リーリエと名乗る巫女姫の神々しいまでの美貌。

それら全てを現実として認識した海斗はリーリエから伝えられた「世界を救う救世主」としての役目を進んで受け入れ、秘められた力を解放するための『神託の儀』に臨んだ。

祭壇の上で、リーリエの清らかな祈りの声を聞きながら、彼の意識は温かい光の中へと沈んでいく。

これから全てが変わるのだ、と彼は喜んだ。

全てが良い方向へ向かっていくのだと、無責任にほくそ笑んだ。

そして次の瞬間、世界が眩い光に包まれた直後、海斗は素晴らしい力を授かったのだった。

彼が授かった力は【権能:森羅万象の創造主】。イメージ一つで、望むがままに世界を改変できる、絶対の力。

なぜこの力なのか? 。

それは、単調で無気力な会社員だった彼が、心の奥底で最も渇望していた力だったからだ。

これから先の彼の物語は彼自身が望んでいた、まさに「異世界転移もの」だった。

王に謁見した後準備の為にと多額の金を渡された。

その後女騎士団長と一悶着あったが冷静に対応し、それでも尚突っかかってくる女騎士を権能の力で軽くあしらってやった。

それからというもの妙に絡んでくるのその女騎士団長、エクセラには手を焼いたものだ。

それから魔王軍の軍勢が国境に迫っていると知れば空を飛んで駆けつけ、一瞬にして天を突くほどの巨大な城壁を創造しその進軍を阻んだ。

その後も実に簡単だった。

天から降り注ぐ無数の光の剣を召喚して敵を殲滅したのだ。

王国の騎士たちは彼を「生ける伝説」と崇め、民衆は彼を「救国の神」と讃えた。

忠誠を誓う誇り高き女騎士団長エクセラ、彼の叡智に目を輝かせるエルフの宮廷魔術師セレスティア、そしていつも傍らで彼を慈愛の目で見守る巫女姫リーリエ。

気がつけば彼の周りには、彼が夢見た通りの、美しく、強く、そして彼に心酔する女性たちが常に寄り添っていた。

彼は王から与えられた壮麗な城で、仲間たちと毎夜のように宴を開き、英雄としての栄光を欲しいままにした。

脳が蕩けるような幸福感に、彼は何の疑いも抱かなかった。

しかし、その完璧な世界に、時折「異物」が混入し始めた。

ついに魔王を倒し、世界を救った祝賀会の最中、歓声に混じって、全く知らないはずの冷たい声が聞こえてきたのだ。

『魂のネクタルの純度が僅かに低下している。精神干渉の強度を上げるべきかしら…』

その意味の分からない声は一瞬で消えてしまった。

その後も愛する女性たちと過ごす甘い夜の最中、ふと自分の体が石の祭壇に縛り付けられているような、冷たい感触を覚えることがあった。

これらの軽微な「ノイズ」は、完璧な彼の物語の綻びだった。

その完璧な幸福の裏側で、彼の魂が「何かがおかしい」と悲鳴を上げていたのだ。


そしてついに、その瞬間が訪れた。

彼は「この完璧すぎる世界」そのものにいつしか違和感を覚え、彼は自身の権能である「森羅万象の創造主」の力を外の世界ではなく、自分自身の内側へと向けた。

向けてしまった。

「この世界の真実を識りたい」と。

その瞬間、彼が創り上げた全てのものが、砂の城のように崩れ去った。

瞬間、目の前が真っ暗になり、その直後に訪れる激しい覚醒感。

ゆっくりと目を開けた彼が見たのは、理想の仲間たちではない。きらびやかな城の部屋でもなく、豪華な食事でもない。

俯いた目に飛び込んできたのは薄暗い神殿の地下、祭壇に拘束された自分自身の痩せ衰えた姿だった。

何が起きたのか分からず、海斗はゆっくりと視線を持ち上げた。

その視線の先に、自分の正面には姿見が置かれていた。

「あら、お目覚めですか?」

声のする方へ視線を送ると海斗の傍らには、感情のない瞳で彼を見下ろす巫女姫リーリエがいた。

リーリエを見ようと頭を動かそうとして、彼は異常に気づいた。

首から上が、まるで万力で固定されたかのように微動だにしないのだ。

そして、頭部に走る、経験したことのない冷たい感覚。痛みすらない、奇妙な開放感。

恐る恐る海斗は改めて姿見を、見た。

鏡に映る海斗の頭はしっかりと器具に固定され、頭蓋は切り開かれ、脳がむき出しのまま、リーリエの前に晒されているのだ。

そしてリーリエの指先から伸びる繊細な光の糸が、海斗の脳の特定の部分――快楽を司る中枢に、直接触れているのが見えた。

「何を、している?」

掠れた声で聞く海斗を見て、リーリエはわずかに視線を動かす。

「どうでしたか?とても、幸せだったでしょう?」

私がこうしてあなたに夢を見せていたのです、とリーリエは表情一つ変えずに指を動かすのだ。

そう、彼が今まで見ていた壮大な夢は、リーリエが脳に直接流し込む信号によって生み出されていたのだ。

そして彼女の手には、彼の脳から伸びる光の魔力線に繋がれた水晶の小瓶が握られている。

中には、彼の魂が絞り出した黄金色の液体――『魂のネクタル』が満たされていた。

「…どういう、ことだ…?お前は…何をしている… 」

混乱する海斗に、リーリエは心底つまらなそうに答えた。

「私がしたのは、とても単純なことです。あなたの魂をこの祭壇に繋ぎ、『幸福であれ』という暗示をかけただけ。あとはあなたが勝手な夢を見ていたに過ぎません」

彼女の言葉に、海斗は絶句した。

「では、あの力も、仲間も、戦いも…全部…」

「ええ、全てあなた自身の魂が創り出した、あなただけの願望の絵姿。私はただ、あなたの脳が見たい夢を見る手助けをし、その幸福感から生まれる蜜をいただいていただけ」

リーリエは嘲るように続けた。

「無力な人生を送ってきた者ほど、実に都合の良い、陳腐な英雄譚を夢想する。あなたのその単純な欲望のおかげで、今回も極上の蜜が手に入りました。感謝は、していますよ」

全ては、彼自身の願望が生み出した幻。

彼を閉じ込めていた牢獄は、彼の心の内にあったのだ。

これ以上の絶望はない。

「さて、一度目覚めてしまった夢はもう蜜を生まない。記憶を白紙に戻して、もう一度、あなたの魂を解放してさしあげましょう」

リーリエが再び、むき出しの脳へと手をかざす。抗う術はない。

「恐ろしいでしょう?辛いでしょう?」

鏡に映る海斗と視線を合わせ、リーリエは続ける。

「現実ではあなたはもう助かりません。絶望しているでしょう?だから、ね?さあ、心ゆくまで、次の幸福を夢想なさい。あなたの空っぽな魂は、もう夢の中にしか居場所がないのです」

その冷たい言葉を最後に、海斗の意識は再び混濁していく。

むき出しの脳が感じる冷たい現実が遠のき、再び、彼の魂が紡ぎ出す温かい幻想が世界を覆い尽くしていく。

ふと、視界の隅に、あの慈愛に満ちた女神のようなリーリエが映る。

彼女は、今までの絶望など全て嘘だったかのように、優しく微笑み、こう囁いた。

「おかえりなさい、カイト様。…もう、何も考えなくていいんですよ。辛い現実は忘れて、私に全てを委ねてくださいね」

それは、彼自身が望んだ、永遠に終わらない、幸福という名の地獄だった。

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