いざ、水菱屋敷へ
ひた走る車、夏の陽射しに樹林のトンネルはのびのびと生い茂り、こぼれる日光とセミの合唱が、ここは人の触れざる地だと主張している。
もちろん比喩表現だが。
実際のところ、ここいら一帯は私有地で、所有者が最低限のインフラを整えただけで一切開発を打ち切ってしまい、現在も辺り一面に過剰なまでのマイナスイオン発生兼二酸化炭素吸収装置である木々が乱立しているわけだ。言うまでもないがこの土地の所有者とゆうのは、水菱一族。そして、この緑の王国のほぼ中心に水菱屋敷と呼ばれる別荘が王宮の如くそびえ建っている。
「空気ウマー!」
「緑スゲー!」
俺が運転するハリアー・ハイブリッドの後部座席ではしゃぐ拓也と弘矩。二人ともはしゃぎ過ぎだ。だいたい、弘矩、お前の地元にもこれくらいの山はあるだろうに。
「マサ、この二人がアンタの友達?」
助手席に座る茉莉が怪訝そうな顔で聞いてきた。
「ああ、正真正銘、俺の友達だ。右側が羽佐間 拓也、左が神栖 弘矩。二人とも俺達より一歳年上」
「「よろしく~」」
二人して呑気に返事を返している。まあ、初対面なら茉莉のよそよそしさも許してくれるだろう。
それにしてもこの辺り一面の緑。はしゃいでいる二人は何も感じていないようだが、ここまでいくと外界から隔絶された、独立した一つの閉じた世界に思えてくる。
そう、俺達の住む世界とは別の常識によって動く異世界とでも言うように。
「どうしたのよ?ボーッとしちゃって。ちゃんと運転してよね、事故ったらどうすんの?」
「分かってる。ま、そう心配すんなよ。それよりゲストの家族構成をもう一度教えてくれ」
「いいけど、そんなに緊張する事ないよ。皆それなりにいい人だから」
「名前間違えないようにだよ。俺、名前と顔を一致させるの苦手なんだよ。知ってるだろ」
「知ってる。初めて会った次の日に“花子”って呼ばれた時はマジでぶん殴ったしね」
そんな昔の事を言いながら茉莉はクリアファイルからクリップで止めた資料を取り出した。
「えっと、まず御当主様だけど名前は知ってるでしょ。水菱 宗継様。かなりの頑固者で、おばあちゃんと亡くなった奥様の言うことしか聞かない人らしいけど戦後の高度成長期にバブル経済を見通して航空事業、リゾート開発、それに伴う法改正を当時の政府に打診して莫大な富を築き上げた経済界の王様らしいわ」
「しかしながら上海市場暴落を予期する事はできず、大赤字を弾き出し大量の社員をリストラし脅迫文が月イチで届く人気者、でいいんだっけ?」
上海市場暴落。
好景気に沸く中国株式市場の中核である上海で起こった株価暴落は、世界中の大小様々な企業に深刻なダメージを与えた最も記憶に新しいエコノミッククライシス。
だが、そんな中で一度は大赤字を出した水菱グループは、いち早く独力で業績を回復させ、次の決算では黒字転向で他企業に差をつけた、とニュースで騒がれたものだ。
業績改善のための大量リストラという強引な手段というタイトルの記事と共に。
「次は、御当主様のお子様方。長男の水菱 宗明様。現水菱グループの社長。政界と法曹界にかなり太いパイプを持っているみたい。失礼なことすると訴えられて社会的に殺されるわよ」
「そして奥さんの華織さんは花道の名門一族出身。ただその実家が廃業しちまい同時に旦那が責任者だった海外リゾートホテルが営業不振でとり潰し、と。たしか、子供の名前が……」
「美乃里様。御当主の子供達を除けば一番当主と成りうる人だけど、噂じゃ美乃里様の旦那様が当主になるみたい」
この男女平等の時代に時代錯誤もはなはだしい。
「次は長女夫婦。夫の秋雪は入り婿で、元は水菱宗継のボディーガード。今は警備部部長。長女の彩登美は、表向き専業主婦だが、当主直属の情報収集部門で他企業の秘密を暴いてマスコミにリークしたり企業秘密を手に入れ強請もやってる疑いあり、と」
「あくまで噂程度のこと。証拠も無いのにそんなこと言わない。ご息女の彩葉様は海外留学中の大学生でアタシ達と同い年。覚えた?」
たしかに娘の彩葉は、俺達と同い年らしいが海外留学、かつイギリスの超名門大学校に通う才女という時点で距離感を感じるのは俺だけだろうか。
「次女夫婦が金融部門と建設事業部門を総括している。でいいんだっけか?」
「うん。金融部門部長、万彩様。株式市場の魔女、って呼ばれてるほどのやり手。建設事業部門部長、理一郎様。高卒からの現場叩き上げでご家族の中ではノンキャリアだけど御当主に認められるほど仕事が早くて労働者側からの信頼が高いからパイプ役として重宝されてるわね。ご息女の彩那様は今年で小学4年生。一族の中では一番年少ね」
「で、唯一の養子、水菱 雄司。医薬品関係の新薬開発部門主任研究員か。噂じゃアメリカ陸軍の兵器開発に関わっていたとか」
「ゴシッブの読みすぎ。本人は虫も殺せない程の善人だから」
これで水菱一族の家族構成はだいたい覚えられたと思う。
「それと一家族ごとに専属の使用人を連れてくるみたいだからアタシ達の仕事は、布団干しや風呂を沸かすこと。まあ、御一族と直接関わることは少ないはずだから気楽にいきましょ。後ろの二人も分かりました?」
「ウィース」
「オッケー、とりあえず言われたことしておけば問題無い、ってことでしょ」
各々の返事の後、突然道が開け、西洋中世の城門かと思うほど巨大なレンガと樫の木製の門が見えた。
あれが水菱屋敷の正門。古めかしい外観とは違い、電子ロックと駐在ガードマンの二重構えの堅牢な守備体制により今まで幾多の窃盗犯をブタ箱に輸出したらしい。
よくこんなアホらしいまでの金を掛けた別荘に侵入しようと思ったな。
「で、別口のハウスキーパー、碓氷某ってのは先に来てるんだっけ」
警備員に今朝ばあちゃんからもらった電子パスを見せ、ロックを解除しゆっくりと車を前進させる。
「某じゃなくて朔馬君。碓氷 朔馬君。覚えなよ」
「あ、俺、羽佐間だから名前似ててややこしいかもだね」
後部座席からテンションの高い拓也の声。
「じゃあ、拓也さんって呼ぶことにしていいですか?」
「もちろん。タメ語でいいし」
「あ、俺もタメ語でいいよ」
「はい、分かりました。それじゃこれからは拓也さんと弘矩さんって呼ばせてもらうね」
ニコッと笑う茉莉と会話を始めた野郎二人の声を聞きながらハリアー・ハイブリッドは高層ビルの地下駐車場みたいにだだっ広いガレージに停車した。