プロローグ(晴好雨奇、どんな景色も素晴らしい)
(好きで金魚に生まれたわけじゃない)
縁日でポイという道具ですくわれたあの日。
(苦しい…苦しい…)
声が出ない。
体をバタつかせていると透明の袋に入れられた。
やっとエラ呼吸ができるようになり、声が聞こえた。
「うちでは飼えません、誰が面倒みるの?」
じゃあ、どうする?て子どもたちが話し合って川に捨てることになっていた。
(金魚は何もわからないし、知らないと思っている。
話せないからわからないなんて、大間違いだ。
金魚だって傷つくし、悲しむんだ)
手も足も出ずにいたら、子どもたちの話しを聞いたおばあさんがうちで飼おうか?とかけあい、おじいさんが家で暇にしているからと面倒をみることになった。
(ピチャっ)
尾びれで水を叩くと飼い主が反応してくれた。
「どうした?」
(ピチャっ)
「お腹が減った?食べる?」
(ピチャっ)
「あんたはピチャピチャ水をかけてくるから、そうだな、名前はピチャ子なんてどうだ?」
(ピチャっ)
「ピチャ子に決まりだ、よろしくね」
15年後。
おばあさんが亡くなった。
その4年後、おじいさんが亡くなった。
水槽の水が数カ月で瞬く間に変色する。黄色から緑、茶色、黒。
餌は空から降ってこない。
(もうダメか)
と思ったときだった。
「おーい、ぴちゃこ、生きてるか?」
おじいさん、おばあさんの息子というのがやってきて餌をくれた。
新しい水槽で新しい生活が急にはじまった。
息子の嫁という人が教えてくれた。
おじいさんが亡くなった後大変だったこと。
自分は魚のなかでも金魚という種類で和金魚ということ。
体調が20cmを超えている金魚だということ。
名前はピチャ子と呼ばれているが性別はオスであること。
今の時代はジェンダーだから性別を気にする必要はないということ。
金魚だろうがなんだろうが周りが冷笑しても学び続けなさいということ。本も読んでくれた。
嫁は独り言をブツブツ言うように、しつけと称して芸を教えてくれた。
「ぺったん!」
ぺったんと言われたら腹を地面につける。
「くるりん!」
くるりんと言われたら水槽を半周する。
「くーるりん!」
くーるりんと言われたら水槽をおおきく一周まわる。
できると餌をくれた。
嫁は気分によって金魚の呼び名をかえた。
「ぴちゃ子は私たちの大切な家族よ」
「今日もぴーちゃん、おにぎり顔でかわいい」
「ぴー坊は賢い子」
「ぴーさま、大好きよ」
「ぴーすけ、ねんね」
「ぴちゃ、私より長生きしてね」
あれから30年以上が経つ。
息子も嫁も亡くなった。
息子と嫁の子が代わりに面倒をみてくれたおかげで、気づけば50歳を優に超え、体調も40cmを過ぎ、世界ギネス記録を更新した。
天寿を全うするとはこのことだろうかと思いながらぼんやりと沈んだ。
人生なにが起きるかわからないものだった。
大事にされることもない幼少期。
弄ばれたこの命、川に捨てられそうになり、惨めに生かされ、まさか最後は愛され、大切にしてもらえるとは思いもしなかった。
「ありがとう」
声がもしも出るならそう伝えたい。
「うまれてよかった」
「出会えてよかった」
「生きててよかった」
もしも、もう一度会えるなら飼い主たちに会いたい。
人間になって、伝えたい。
チリーン。
シャンシャンシャンシャンシャンシャン。
シャンシャンシャンシャンシャンシャン。
鈴の音が幾重にも鳴り響く。
チリーン。
シャンシャンシャンシャンシャンシャン。
シャンシャンシャンシャンシャンシャン。
若草に恵みの雨が、柔らかく降り注いだ寅の年。
金魚のぴちゃ子は過去の記憶を持って人間に生まれかわっていた。
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(第一発見者の回想)
「信じてもらわなくて構いません。」
あれは穀雨の頃。
農家のわたしにとって季節の変わり目は深い意味があります。
農作業前にお参りしようと、薬師堂を訪れた時に赤子のような声が御堂内に小さく響いていました。
よく見ると、薬師堂の如来様の膝の上で何かが動いているんです。
周囲には誰もおらず、まさかと思いながらも失礼を承知で少しだけ覗きに上がり込みました。
少しだけ、少しだけと念じながら如来様の前で手を合わせ、膝をつくと、一糸纏わぬ赤子が全身を濡らしたまま機嫌よくわたしに微笑み、両手足を左右上下に動かしている。
見たこともないオレンジ色の髪。
左目は大きく愛らしい黒い瞳。
薄暗中でも赤子はキラキラとした眼差しをわたしにまっすぐ向けているのがわかりました。
現代にまさか捨子だなんて、警察に電話か、いや、まだ親が近くにいるかもしれない、どうする、どうしたらいいと悩んでいる間に
「…くっしっ」
濡れている赤子がくしゃみをしました。
思わず着ていた服を赤子にかけて抱き上げると赤子の右目がない。
眼球の膨らみもない。
うっすらくぼんで、つるっとしている。
雨がいつの間にかやみ、窓から日が差し込むと、よく見えました。
赤子の頭から甘い香りがしたのをわたしは鮮明に覚えています。