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婚活スコアの天秤 <理想の夫か 子供の未来か>

作者: 宇佐美ナナ

挿絵(By みてみん)


 大阪駅前の広場は、ビル風をはらんだ春の光が水面のようにきらめき、上空ではホログラム広告が幾重にも重なって流れていた。虹色の帯になったバーコードが空を横切り、通りすぎる人の頭上に遺伝子スコアを投影する。数字は赤や青に脈打ち、まるで値札のようにその人の可能性を値踏みしていた。


 ――みんな、見えない値段を背負って生きてるんだ。


 白河綾芽・二十七歳、遺伝子スコア七十二。数字だけなら「まあ平均より少し上」といったところだが、婚活歴は六年目になる。就活と同時に市場へエントリーし、何度もお見合いアプリを乗り換え、何本ものハイブランド口紅を減らした。そのたびに「次こそは」と期待を上げ、「やっぱり違った」と数字に裏切られ、気づけば今日も婚活フェア〈GENESIS BIDDER EXPO〉へ足を運んでいる。


 ガラス張りの受付ホールに入ると、壁一面の巨大スクリーンがPR動画を映していた。


 ――〈理想の家族モデル〉


 夫・遺伝子スコア九十五。妻・遺伝子スコア七十五。子ども・次世代スコア九十。


 数字がそろうたび、パステル色の花火エフェクトが弾け、「GOOD MATCH!」の文字が踊る。見物客はあこがれとため息を混ぜたような声を漏らし、スマホをかざして自分の将来を重ねていた。


「数字は愛と安心の保証書――」

 綾芽(あやめ)はいつもの呪文で胸を押し上げる。高いスコアの夫、ぜいたくすぎないけれど不自由しない暮らし。大学時代から描き続けた未来図は、たった一行の計算式で成り立っている。けれどスクリーンの隅に小さく走る赤文字が目に刺さった。


 『次世代スコアは、親の数字と生活しだいで変わります』


 遺伝子スコアだけじゃ、子どもの未来は決まらない? 胸に冷たい痛みが走る。六年間、安心を買う通貨だと信じてきた数字が、急に頼りなく見えた。


 そのときスクリーンがふたたび切り替わり、きらめくロゴが現れた。


 〈ツインスコア・オークション〉

 ――本人の遺伝子スコアと子どもの次世代スコアを同時に競り合わせる、最新AIマッチング。


 制度の背後には国家の思惑もある。これは政府公認の少子化対策プロジェクトで、運営を担うのは民間最大手「ジェネシス社」。出資比率トップは――ほかならぬ二宮家だ。



 周囲がざわめき、光の粒が舞い上がる。綾芽の鼓動は早鐘のように跳ねた。これなら「いまの安心」と「未来の可能性」を同時に手に入れられるかもしれない。きっと今日こそ答えが出る。


 春風が薄いコートのすそを揺らす。綾芽は深く息を吸い、入場ゲートのタッチパネルへ指を伸ばした。

 ピッ、と指紋認証の音。頭上のバーが淡い光を放ち、ゲートが開く。紫陽花のようなホログラムの花びらが舞い、足元のガラス床には〈WELCOME〉の文字列が流れた。


 ――今日こそ、数字が未来を変えてくれる。

 小さくつぶやき、綾芽はまばゆい通路の中へ歩み出した。


 待ち時間にスマホを開くと、タイムラインの“おすすめ”欄が騒がしい。


 #路上の星ソラ


 タグの再生数は前日まで数千だったはずが、二万回に跳ねている。ギターを抱えた青年がリール動画で笑い、コメント欄には「今夜どこで歌う?」の書き込みがずらり。


 綾芽は通知を閉じた。今日は婚活の数字で頭がいっぱい。ひと晩のバズりなんて泡みたいなもの――そう思いながらも、タグの字面がしぶとく脳裏に残った。




 登録カウンターで証明写真を撮り、番号札〈No.12〉を胸につけた途端、天井のドローンマイクがホール全体に響き渡るクリアな合成音声を流した。


 〈ご来場ありがとうございます。本日、応募総数1200名の中から “ツインスコア・オークション特別枠” に選ばれるのは わずか十名。ただいま最終抽選を開始します〉


 ホログラムスクリーンが一面の深い藍色に染まり、星座のように名前と番号が散らばった。中央のカウントダウン――00:30 が点滅し、低い電子鼓動がフロアを揺らす。


 〈当選者一人目――エントリー No.005、鹿島ユウリ〉


「おおっ」というどよめきと同時に、ユウリの頭上へ金の光柱。スクリーン左隅には “残り 9 / 10” のアイコンが表示される。

 綾芽は唇を噛み、胸元のHUDウォッチをちらと見た。BPM 92 が紫に脈打つ。


 〈二人目――No.259、星野アカネ〉

 〈三人目――No.741、グエン・マイ〉


 名前が読み上げられるたび光柱が増え、残り枠の数字がカチカチと減っていく。

 “残り 1 / 10” になった瞬間、カウントダウンが00:05でぴたりと凍結した。ホールの照明が一拍暗転し、深い静寂が落ちる。


 ――私じゃ、ないよね。

 綾芽は思わず視線を床へ落とす。そのとき耳を打ったのは、凍結していたカウントが**00:04 → 00:03…**と再始動する音。そして AI 音声がクリアに跳ね上がった。


 〈最後の当選者――エントリー No.12、白河綾芽!〉


 0.5 秒の虚無。次の瞬間、頭上に虹色の紙吹雪ホログラムが炸裂し、スポットライトが綾芽ひとりを射抜いた。HUDウォッチはBPM 138を真紅で点滅、耳の鼓動と同期して暴れる。足先がじわりと痺れ、パンプスのヒールが床をそっと探った。


 周囲から上がる拍手とシャッター音の渦。スマホレンズが一斉に向けられるなか、綾芽は息を呑んだまま立ち尽くしていた――バーコード状の光が彼女の遺伝子スコア「72」を空中に映し出し、金色の文字列 “特別枠確定” がその横で踊っている。



 無音で滑るように近づいてきた係員ロボが、薄いタブレットを差し出す。アロマ消毒の甘い匂いがほのかに漂い、光沢の画面に二つの名前が浮かんだ。


 ――二宮レン 遺伝子スコア95/次世代スコア68

 ――空〈ソラ〉 遺伝子スコア41/次世代スコア92


 レンは医療テックの御曹司、数字だけで胸が熱くなる。だが子の数値は平凡以下。

 ソラは街でフードデリバリーをしていた青年。自分より低い遺伝子スコアなのに、子の次世代スコアがはね上がっている。


「お二人とも、あなたを第一希望としています」


 ロボの穏やかな声が告げた瞬間、タブレット右上で赤いタイマーが点滅を始めた。

 二九分五九秒。電子音とともに秒数が減っていく。三十分以内に辞退か確定かを選ばなければ、という冷たい指示が下に流れ、すぐ消えた。


 高い安心と地位をくれるレン。予想外の未来と鼓動をくれるソラ。どちらを選ぶことは、どちらかを捨てること。


 人いきれと音楽が混ざるロビーが遠くへ引いていき、自分の鼓動だけが早送りのBGMになる。六年間、数字に守られてきたはずの世界が、春の光の中でぱきぱきと音を立ててひび割れていく――綾芽は、それを確かに感じた。



 綾芽はロビーの喧騒(けんそう)を抜け、関係者用と書かれた白いドアを押し開けた。中は真新しい絨毯(じゅうたん)の香りが(ただよ)う控え室。冷房の風が首筋を()で、額の汗がようやく引いていく。壁際の長イスに腰を落とすと、タブレットが手のひらでじんわり熱を帯びた。表示された赤い数字は残り二十四分三十六秒。


 ――レンなら、いまの安心。ソラなら、未来の伸びしろ。


 母の声が脳裏で再生される。

「若いうちに遺伝子スコアの高い人をつかまえなさい。それがいちばん安全よ」


 安全、という二文字は甘い鎮静剤だった。けれど大学の卒論で読んだ論文はこう結んでいた。



 ――環境は次世代スコアを最大三〇ポイント揺らす。数字は北を示す針のように方向を教えるだけの羅針盤で、航海そのもの=運命ではない。


 分かっているのに、古い呪文はまだ胸の奥で脈を打つ。


 ノックの音。自動ドアが左右に割れ、濃紺のスマートスーツを着こなした男が姿を現した。二宮レン。長身、端整な横顔。歩きながら係員に短く指示を出す声は、無駄な抑揚のない金属音のようだ。


白河(しらかわ)綾芽さん、ご不安なら当家の遺伝カウンセリングチームをご紹介します」

 レンは柔らかく微笑み、綾芽の隣に腰かけた。体温の低そうな香水の匂いが、薄い氷膜のように空気を変える。


「結婚はパートナーシップであると同時に、家族資産の形成です。遺伝子のリスクヘッジさえ済ませれば、僕たちの次世代スコアもきっと上がる」

 膝上の書類にびっしり並ぶ棒グラフとパイチャート。そこには幸福さえ数値化できるとでも言わんばかりの自信があった。


 視線を落とした瞬間、控え室の窓越しにギターのストロークが響いた。綾芽は思わず立ち上がり、カーテンを指で押し分ける。建物に併設された野外デッキで、配達用ジャケットを腰に巻いたソラが即興演奏を始めていた。


 〈風、気持ちいいだろ?〉

 マイクもなしに笑いながら放つ声は、午後の空気を揺らし、通りがかった人々の足を止める。音に合わせて子どもが跳ね、スーツ姿のビジネスマンでさえリズムを刻んでいる。投げ銭アプリの通知音が次々と鳴り、ソラのスマホ画面にはハートアイコンが滝のように流れていく。


 ――予定外の未来。数字じゃ測れない何か。

 胸がきゅっと縮む。振り返ると、レンはタブレットに視線を落としたまま静かに立ち上がった。

「今夜、ファウンダーズスイートで試食会がある。君も来てみるといい。最高級のシャンパンは、未来への前払いみたいだと思いたまえ」


 レンが去ると同時に、控え室のスピーカーから機械音声が流れた。

「残り二十分です。選択を確定してください」


 タブレットの脇では《お試しデートを設定しますか?》のボタンが二つ点滅していた。ひとつはレン、もうひとつはソラ。


 六年間、理想の数字を追いかけて、結果はゼロ。ここでまた数字だけ選んで、私は本当に前へ進めるのかな?


 震える指を重ね、綾芽は深呼吸した。


 ――数字の外側に賭けてみよう。

 まずレンのボタンをタップし、続けてソラのボタンにも触れる。ガラス面の冷たさが指腹に残り、鼓動が一拍だけ遅れた。


 〈お試しデート設定完了〉


 赤い警告が一瞬走る――本来「お試しデート」は同時に一件しか成立しないはずだ。制度上は例外的な二股プロセス。直後、タブレットの隅に〈※特別枠ユーザーは重複テスト期間が認可されています〉と淡いポップアップが現れ、すぐにフェードアウトした。


 綾芽は唾をのみ込みつつ、画面のOKをタップした。OKの文字が跳ね、同時にカウントダウンが凍りついた。オークション会場への扉が青光りし、ほどなく開く。


 鼓動はまだ早い。それでも足取りは、春一番より軽かった。



 レンに案内されたのは、梅田でも指折りの超高層ホテル――最上階にある雲の上のようなスイートルームだった。足を踏み入れた瞬間、フローリングに埋め込まれたライトがゆるく波打ち、全面ガラスの向こう側では大阪の夜景が金の粉になって宙へ舞っている。


「まずは乾杯を」


 薄いグラスに注がれるシャンパンは炭酸が静かに弾けるだけで、室内はやけに静かだった。壁一面が大型スクリーンに切り替わり、〈子づくり設計図〉と題した3DCGが起動する。両親の遺伝子スコアが青いバーで表示され、その隣で染色体の模型がくるくる回っていた。


「遺伝カウンセラーの向井先生だ」

 レンは、隣に立つ白衣の女性を軽く示した。


 向井は一礼し、落ち着いた声で説明を始める。

「本日は顔合わせのみとなります。遺伝子編集に着手する前に、まず数週間の事前カウンセリングを行い、ご夫婦の生活設計と倫理面での同意を整えます。その上で正式な編集プランをご提示いたします」


 向井は白衣の袖口を整え、タブレットをくるりと綾芽の前へ向けた。画面には棒グラフが2本──左に 〈今〉72、右に 〈編集後〉85。差分 +13 が金色で跳ねている。


「やることはシンプルです」


 指先が DNA モデルをひと撫ですると、らせんがレゴブロックのように分解され、赤いピースが3つだけ浮かび上がった。


「この3ピースを“青”に置き換えるだけで+13点。処置は一晩、痛みはゼロ」



 レンがグラスを傾け、数字をなぞるように微笑む。

「十三点上がれば、うちの家系平均は九十。十分“安心圏内”だね」


 グラスの縁をそっと指で一周させたあと、レンはわずかに目を伏せた。


「……僕が子どもの頃のスコアは七十八だった。母は『八十未満は家の恥』と言って、毎週、遺伝子ブースターの臨床試験に連れて行ったんだ」


 シャンパン越しに浮かぶ笑みは、薄いガラス細工のように危うい。

「だからこそ確率を制御したい。数字に怯える子どもを、もう出したくないんだ」


 青いバーが穏やかに脈打つ。綾芽は泡の揺れるシャンパングラス越しにそれを見つめながら思った。


 ――未来が、セルで区切られた表みたいに整列していく……。




 ◆ ◆ ◆


 午前0時過ぎ。ワンルームの蛍光灯が白く瞬き、温め直した冷凍パスタの湯気だけが部屋を満たしていた。テーブルには〈受精卵採取/凍結プラン〉のパンフレットと、就活時代から使い続けている安い電卓が並ぶ。


「編集費用:650 万円」「奨学金残高:200 万円」――数字を打ち込むたび、液晶は赤字で点滅し、胃の奥が鈍く締めつけられた。



  胸ポケットのスマホが震える。通知は〈#路上の星ソラ〉。

  「数字もいいけど、今夜は風がうまい!」


  動画の中でソラが笑い、河川敷の夜風がマイクに当たってざらりとノイズを立てた。


  ――同じ数字でも、こっちは呼吸ができる……。


 綾芽は電卓をそっと閉じ、冷めかけたパスタをひと口運んだ。




 数日後の昼下がり。街の太陽はすっかり夏めき、ソラは自転車の前かごから傷だらけのギターを手に取り、河川敷ステージに跳び上がった。


 チューニングペグを回すソラの前に、街ブラ番組のロゴ入りジャンパーを着た撮影クルーが現れた。


「突然すみません、視聴者投票コーナーに『路上の星』枠があって……」


 名刺を差し出しながら、若いADが早口で説明する。ソラは目を丸くしつつも「え、マジっすか」と受け取り、綾芽の方をちらりと見た。


 ――いまはお試しデート中だけど、出てみれば?


 綾芽が小声で促すと、ソラは「よし、じゃあ一本全力で」と気合を入れる。



 〈風、気持ちいいだろ?〉

 そう叫び、コードをかき鳴らす。綾芽はコンクリートの座席に座り、川風に頬を打たれながら笑った。ペダルの油の匂い、草のにおい、遠くの踏切のベル。――ぜんぶ音楽の中へ飲み込まれていく。


 スマホ越しの観客は一気に膨れ上がり、配信アプリのハートが虹色の滝になって流れた。「フォロワー 千人突破!」という通知が鳴り、投げ銭のコイン音がひっきりなしに響く。


 曲が終わると、ソラは額の汗を手の甲でぬぐい、「数字も悪くないけど、びっくりするほど当てになんねえんだ」と照れ笑いをした。夕日に照らされた横顔は、計算も保証も軽やかに飛びこえて、ただ未来へ滑りこむ熱を放っていた。


 川べりの草むらに腰を下ろし、コンビニおにぎりと麦茶で簡単な打ち上げをする。芝の匂いが微かに立ち、麦茶の冷えが喉をすっと通り抜けた。


 視界いっぱいに広がるオレンジの空、遠くで跳ねるボール、ゆっくり行き交う散歩船。華やかさはないのに、胸の奥がほんのり膨らんでいく。


 ◆ ◆ ◆


 それから 三日後。配達アプリの到着音に混じって、ソラのスマホが別種のアラートを鳴らし続けた。


 タイムラインのフォロワー数が 3,200 → 5,800 → 10,047 と階段を駆け上がり、そのたびに花火エフェクトが画面いっぱいに弾ける。




 夕方には例の街ブラ番組が〈路上の星 緊急特集〉をオンエア。「あのギター青年は誰?」がトレンド2位に躍り出た。


 番組収録を終えたソラのスマホに〈残り2件配達〉のリマインダーが鳴る。


「この勢いで配っちゃうか」とソラが笑い、配達用ヘルメットを綾芽に差し出した。


「走る風、ちょっと分けて」と綾芽も笑い返し、荷台にまたがる。丈夫なゴムバンドでギターケースを固定すると、自転車は夕映えの土手を滑り出した。


 ペダルを踏み始めた途端、ソラのDM受信音が鳴り、大手レーベル〈スターリングミュージック〉から 「正式にお話ししたい」 とメッセージが飛び込む。綾芽のスマホにも通知が連鎖し、ハート形のポップアップが雨あられと降り注いだ。


 驚きと高揚で胸を押さえながら、綾芽は後ろ座席のヘルメットを直し、前を走るソラの背中に親指を立てた。


 ◆ ◆ ◆


 夜遅く、部屋へ帰るとスマホが震えた。レンから届いたのは、〈受精卵採取→編集→凍結保存〉と題されたスケジュール表。見開きカレンダーのすべてのマスがびっしり色分けされ、タスクと時刻が入力されている。


 同じ通知欄に、ソラの最新配信へのコメントが流れ込む。

「次世代スコア九二でも、育て方しだいで一〇〇行ける!」

「才能よりハートだよ、ハート!」


 レンのメールを開くたび、フォントの直線が目を刺す。しかし画面を切り替えれば、ソラの配信サムネが笑顔で揺れている。


 ――予定どおりの安心か、予定外の可能性か。


 シャンパンの泡が置き忘れた冷気と、河川敷の温い風。その温度差が胸の真ん中で渦を巻き、眠りかけた心を左右から引っ張った。



 黒塗りのセダンが電動ゲートをくぐると、コンクリートの私道が月光を反射して川のように伸び、その奥に白亜の館が静かに機械じみた輪郭を浮かび上がらせていた。玄関ホールの床は黒大理石。磨き込まれた光沢が綾芽のシルエットをゆがめ、ひんやりした空気を足首から吸い上げる。


 階段の踊り場に立っていたのは、レンの母——社交界で“女帝”と呼ばれる二宮伶子。その眼差しは冷房の風より冷たく、真珠のネックレスを指でゆっくり転がしながら微笑んだ。


「白河さんのゲノムデータ、拝見いたしました」


 執事が差し出した長机の上には、分厚いレポート。ページのあちこちに赤い蛍光ペンが重ねられ、丸印が血痕(けっこん)のようににじんでいる。


 ――情動制御SNV、うつ傾向リスク6%上昇。

 ――脂質代謝SNV、肥満リスク8%。


「このSNVは、わたくしどもの家系には不要ですわね」

 無機質な声が胸元で氷に変わり、綾芽の呼吸を詰まらせた。


 女帝は手袋を外し、隣の小卓から一枚の契約書を持ち上げる。

 〈着床前編集への同意書〉

 日付欄の横には、すでに流麗な筆致で二宮レンのサインが入っていた。


「ご心配なく。不要なSNV配列は編集し、最高水準の次世代スコアを保証いたします。あなたが母になる頃には、数字の不安はゼロ——それが二宮家の約束です」


 保証。ゼロ。甘美な単語が脳の隅をくすぐり、六年間求め続けた“安全”が私に手を差し伸べる。これに署名すれば、豪奢(ごうしゃ)な生活も社会的地位も、確定済みの栄光もすべて手に入る。サインペンを握る指がわなないた。


 だがその刹那(せつな)、バッグのスマホが震えた。画面を覗くと、ライブ配信アプリの通知が花火のように弾ける。


 〈路上ライブで奇跡! 無名シンガー空〈ソラ〉、大手レーベル即日オファー〉


 タップすると、スポットライトで白く浮かぶソラが映った。借り物らしいスーツを着て、観客の歓声に少し照れ、額の髪をかきあげて笑っている。


 『数字なんかより、歌で食ってくさ!』


 不意に、河川敷で受け取ったあのぬくい風が頬を打ち返す。フォロワーが十万に跳ね上がり、チャット欄にはハートと未来への期待が(あふ)れていた。遺伝子スコア四十一の青年が、誰より自由に可能性を掴みとろうとしている。


 ――数字じゃ測れないものが、たしかにある。


 ホテルの冷えた泡と、夕暮れの温かい風が心の中で激しくぶつかり合う。耳の奥で“女帝”の爪が机をとんとん叩き、無言の圧が時限爆弾のように迫った。


 綾芽は深く息を吸い、サインペンをそっとテーブルに置いた。胸の鼓動は乱れ、けれど指先の震えは止まっていた。白紙の署名欄がシャンデリアの灯を弾き返し、真っさらな未来のように(まぶ)しかった。


 その夜、レンから届いたメッセージには〈翌日18時、ホテル・ルミナリア最上階にて公開署名式〉とだけ記されていた。


 ◆  ◆  ◆


 シャンデリアが星雲のように輝くボールルーム。天井まで届くバラのアーチをくぐったゲストたちは、口をそろえて「さすが二宮家」とため息をもらしていた。取材ドローンのレンズが宙を舞い、パパラッチのフラッシュが絶え間なく弾ける。


 公開署名は、二宮家が来月上場予定の医療テック社〈GENE-AID〉発表会を兼ねた投資家向けライブ配信イベント。綾芽の一挙手一投足が世界へ中継されている。署名シーンは「最高遺伝子パートナー実証デモ」という見出しでプログラムのハイライトに据えられていた。


 中央に設えられた純白のテーブルクロス。その上に並ぶのはシャンパングラスではなく、〈遺伝子最適化契約書〉。淡い金インクで綾芽とレンの名前が印刷され、最後の署名欄だけがぽっかり空いていた。


 綾芽はウエディングドレスの裾を握りしめ、胸の鼓動で硬いコルセットがきしむのを感じた。真珠のティアラには、女帝から贈られた家紋のエンブレムが光る。


「さあ、サインを」


 レンは笑顔のままペンを差し出した。黒檀(こくたん)軸の重みが掌に乗り、コルセットが胸を小さく締めつける。


 その瞬間、会場側壁のスクリーンに〈婚約破棄違約金:3億円〉の赤文字が点滅し、続いて〈SNSオートバッシング bot 起動準備完了〉という無慈悲なステータスバーが走る。ざわりと空調が揺れ、人々の囁きが波紋のように拡がった。


「万が一ためらっても、家は守りますよ。数字で安心を買う――それが二宮家の流儀です」

 女帝・伶子が真珠の指で契約書の端を軽く叩く。


 テーブル隅に積まれた厚手の封筒には〈違約金即日振込用〉のゴールドスタンプ。甘い香水と金融機関のインクの匂いが混じり、綾芽の喉を締め付けた。


 視界の片隅、スクリーン右上には〈#ツインスコア革命〉がジリジリと急上昇し、トレンド5位に点灯。そこにソラのライブ配信サムネが小窓で挿入され、フォロワー数字が 10,047 → 18,500 → 24,013 と跳ねるグラフが映し出される。


 まるで両腕に錘を吊るされたように、綾芽はペンを握る手を上げかけ、止めた。脳裏をよぎる――奨学金残高 200万円、貯金残 78,412円、違約金3億。呼吸が浅くなる。


 〈3…2…1〉


 カウントダウンBGMが最終拍を刻む。ペン先が紙に触れかけた刹那、ソラの声がスピーカー越しに被さった。


「数字で未来を縛るな――耳をすませ、鼓動で選べ!」


 会場がざわめき、ドローンカメラが一斉に綾芽へズームする。


 綾芽は深く息を吸い、震えるペンを紙面に叩きつけ――横一文字に太い線を引いた。


 インクが盛大ににじみ、契約欄の名前が黒く塗りつぶされる。カウントダウン表示は ERROR と赤く瞬き、ホール全体が凍りついた。


「数字は羅針盤。でも航路を決めるのは、私たち自身です」


  静寂を切り裂くように綾芽が告げ、ペンをそっと女帝に返す。その指先から黒インクが滴り、ドレスの白い裾に小さな星を咲かせた。


  フラッシュが連続し、報道ドローンのレンズが追いかける中、綾芽はテーブルの前で深々と一礼した。背後のスクリーンでは〈契約無効〉と〈#ツインスコア革命 1位〉が交互に点滅し、会場の空気が嵐の前の静けさのように震えていた。



 ◆  ◆  ◆


 深夜、川沿いの特設ステージ。照明車のライトが水面を照らし、ソラはアンコール曲を奏でていた。スーツを脱ぎ捨て、Tシャツ一枚でギターをかき鳴らす姿は、まるで炎。


 綾芽はハイヒールを脱ぎ捨て素足で駆け寄り、ステージ脇の階段を一段飛ばしで駆け上がった。

「綾芽?」

 驚くソラの横でマイクを握り、ドレスの胸元を押さえて息を吸う。


「私は――」

 観客のスマホライトが無数の星になり、川風がドレスの裾を揺らした。

「私は数字より、今ここで脈打つ未来を選ぶ!」


 言葉がスピーカーから広がり、一瞬の静寂のあと、喝采が夜空を揺さぶった。配信コメント欄にはハートと「#ツインスコア革命」のタグが溢れ、投げ銭エフェクトが花火のように弾けた。


 ソラは笑い、ギターのリフを高らかに奏でた。それは数字の列にはないキーで、しかし綾芽の鼓動とぴたり重なっていた。


 ――予定外の未来が、今、走り始める。



 ーーーーーーーーーー


 それから五年。


 川沿いの土手に抱かれる平屋の庭で、四歳のあかりが泥だらけの長靴を跳ねさせた。「ママ、カエルの遺伝子スコア測っていい?」


 綾芽は洗濯ロープにタオルを掛ける手を止め、耳元のスマートレンズを軽く外す。

「今日は肉眼で観察しようか。数字は、捕まえた後のお楽しみだよ」


 あかりは首をかしげ、しゃがんでカエルを両手で包んだ。瞳の中に空の色が映り、口もとが満点の笑みに弾ける。


 そこへソラがウクレレを抱え、裏庭から姿を見せた。「じゃあスコアの代わりに“カエルのテーマ”コード!」と冗談を飛ばし、軽やかな三連符を刻む。


 ♪ぽろん、ぽろろん。


 あかりはリズムに合わせてカエルをそっと草むらへ返し、両手を広げて土手を駆け上がった。「見ててね!」


 親子の背後で、街から流れてきたホログラム広告が空に薄く漂う。かつて〈理想の家族モデル〉を示した “95-75-90” の数字列は、薄い残像としてわずかに揺れ――土手の風に吹かれて消えた。


 代わりに淡い虹色の文字が浮かぶ。


 〈ちがいはチャンスだ〉


 ナレーションもなく、ただ風とともに空へと溶けていった。


 ソラはウクレレの最後のコードを伸ばし、

「あかり、好きな音を足してみ?」

 と楽器を差し出す。


 小さな指がぎこちなく弦を押さえ、少し濁った和音が――しかし確かな音量で夕映えの空へ飛んだ。


 綾芽は娘と父を見守りながら、胸の奥でひとことだけつぶやく。


 ――羅針盤はある。でも航路は、私たちが描く。


 その瞬間、川面を渡る風が家の白い壁に金色の波紋を走らせ、三つの影を大きく揺らした。


挿絵(By みてみん)


 ▼※着床前編集:受精卵段階で SNV(一塩基変異)をCRISPR系で修正する臨床手技。法的には「条件付き承認」。


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