無花果
黒い悪魔が爪先を滑らせる。触れた先からインクが流れ、白い台地をひたひたと満らし、満月まで触手を伸ばしては、無数の糸を一息に引いて己の胸に取り込む。取り込まれたもの達は悲鳴を上げる間もなく悪魔に吸収され、安らかな眠りを挟み多大なる細胞と変化する。
深い夜。浅い眠り。不可侵の秩序が枯れ木にぶら下がる。恋文を破られた少女の足首のような哀しさで、悪魔の目を惹こうとリボンを揺らす。悪魔は無視して彼女を横切る。彼女はロ笛を吹く。悪魔には耳がない。
悪魔の羽に人の指は引き寄せられる。近くに寄れば食べられてしまうことを承知で、少年少女は白黒になって、彼の前に傳き血を分けてもらう。血を呑んだ彼等は自目を剥いて踊り始める。酒と性を浴び欲望に狂う。アハハ。アハハ。乱痴気騒ぎ。目が覚める頃にはすべてを失っている。
歌姫が死んだ。彼女は自分が死んだことにも気付かず歌い続けている。観菜は既に興味を失っていて、搾取するカメラマンたちも被写体のぼろに飽きている。亡霊が操る肉人形は定の狂人を和ませるばかりで、今を生きるもの共に祈りを抱かせはしない。彼女はあくまでも死体なのだ。
疲れ始めた彼女に悪魔が囁く。貴方なら大丈夫。貴方ならやれる。夫の姿を象った悪魔は慈愛に満ちた微笑みを浮かべる。彼女はまた歌姫になる。悪魔は夫の身体を離れ、彼女から吸い取った精気を元に旅に出る。彼女は歌い続ける。その肌が萎んでも。
煙を吐いて徘徊していた悪魔は立ち止まる。娘がいるのだ。白魚の肌と無垢な眼を持つ湖のような少女が。悪魔は手を伸ばす。もう少しというところで止まる。見えない壁が彼女と悪魔を遮っている。悪魔は爪で破ろうとする。殴ってみる。蹴ってみる。しかし彼女には一向に届かず、シルクの寝巻で白い夢を見る準備をしていた。悪魔の頭の中はどうやって少女を食おうかで満たされ、それ以外を考えることはできなくなっていた。
悪魔の肩を叩く。悪魔が振り向く。『わたし』の黒い手が彼を丸めていく。赤黒いダイヤモンドになった彼は表皮を破ろうと膨れていくが、怒り狂えば怒り狂う程肉体は苦しみを得る。諦めた悪魔はわたしの手の中で眠る。わたしのポケットの中にはこういった悪魔がたくさん詰まっている。破裂する日をいまかいまかと待ち望んでいる。悪魔は血に飢えている。人の肉に飢えている。
母の溜息が聞こえた。
「たかが無花果じゃないの」