月夜
「ねぇ、お母さん。お父さんは、まだ帰ってこないの?」
少女が呟いた。その日は三日月の登った綺麗な青い夜だった。
「えぇ、帰ってこないわ。はやく、眠りなさいな。」
そう娘をなだめた母の心は悲しみに満ちていた。
星たちは、ぜひ私を見てくれ、いや私を見てくれ、とギラギラ光り輝いている。何光年も遠くから光を届けている。母はキラキラな笑顔を浮かべて、でも心は沼の底のような、そんな不思議な気分だった。
汚れた畳、カビだらけの壁。下を見ても、横を見ても、いけないものばかり。母は布団を胸まで寄せて、ただ空だけを見ていなければならなかった。
もう、父は帰って来ない。
私は長年、娘に嘘をついてきた。
あなたの父はもう、死んだのだ。誰ともわからない女と一緒に自殺したのだ。奥さんでもない、私でもない。じゃあ、そしたら、新しい女の人……。そうだと思う。きっとそうなのだ。
なんて女にだらしがないのだろう。
あぁ、寂しい。あぁ、悲しい。この思いを私は誰に伝えれば良いのだろう。
浮気相手と、その子供。ここにはそれだけが残された。
何も無い。
何も無いのに。
私はまだ、何かを求めてる。
愛情?安心?お金?いいえ、それでもない。
何も無いから、求めてる。
あなたに、逢いたい。
何故、貴方は私を残して逝ってしまわれたのだろう。
星はキラキラ。私はツラツラ。
私は、バレちゃいけない恋をした。
だったら、この恋の死もバレちゃいけないの?
三日月は、ピカピカと光っている。
母は、今日も涙を流す。寝たフリをしていた娘は、泣いている母を横目で見て思う。
あぁ、父は死んだんだ。
娘はもう8歳である。そのくらいわかってしまうお年頃なのだ。わかっていても、わからないふりができてしまう女の子なのだ。
誰かが死んだってことくらい、ラジオで流れてきてしまう時代なのだ。
なぜ、母は父が死んだと言わないのだろう。私に、言ってくれればいいのに。相談してくれればいいのに。私が全力で母を支えると誓うのに。
聞かなきゃいけない。知らなきゃいけない。ううん。知ってるって伝えなきゃいけない。けど、そうだけど。やっぱりまだ、早い気がする。はぁ、また明日が来てしまう。
明日になったら私はまた、何も知らない純粋無垢な娘を演じなければならない。
そしてまた、あれを買ってだのこれを買ってだの、パパはどこだの、アホなことをアホな心配をして言ってしまう。
あぁ、辛い。
なんで私だけ、ほかの子達と違う服なの?
なんで私の教科書は新しくないの?
なんで私だけこんなに辛いの?
そんなことは聞かないから。そんなことは言わないから。お願いだから。私に頼ってよ。ねぇ、ママ。
そんな2人を横目に見ながら、三日月は光っている。
どの家族にも平等な光を、平等に照らしていた。
満月の訪れた夜。
母は、今日も泣いていた。この前よりも激しく泣いていた。
隣のうちの奥さんに、馬鹿にされてしまったのである。しかも、娘の目の前で。
なにも、娘の前で、捨てられた尻軽女だなんて、言わなくっても、いいじゃない。なによ、なによ、なんで私をそんなに虐めるの。それに私は、捨てられてなんかない。
彼は、私を愛してくれてた。私も彼を、愛してた。それでいいじゃない。自分勝手に決めつけないで。
けれど、それが事実なような気もしてきて、だからこそ、もっと、もっと悔しいの。
それでも、きっと、彼はいい人でした。
もう、私を虐めないでください。
「ゔぅ……。」
母の咽び泣く声が聞こえて、寝ようにも寝れない娘は、今日の出来事を思い出す。
「この尻軽女!近寄らないで頂けますか?浮気性が移ってしまいます。」
そう言ってニヤニヤ笑っていた隣のオバサンの顔が頭から離れない。
「あぁ〜、そうでした。もう、捨てられたんでしたっけね。」
この時の顔はもっと離れない。この人は悪魔なんだと思った。
私はこれを聞いた時、どんな顔をしてしまっていただろう。きっと、母に見られてしまった。私は、オバサンの言ったことを真に受けていないようなアホな顔をできていただろうか。
『オバサン、何言ってんの〜?』
そんな顔ができていただろうか。
精一杯、やったつもりだ。
けれど、母はすごく泣いてる。私は悲しい。
父と母は浮気の関係だった。この真実より、今泣いてる母を見る方が何万倍も辛いんだ。
なぜ、あんなことを言ったのだろう。
ここに、満月を眺めながら後悔する者が1人いた。
親子2人からすれば、彼女は「隣のオバサン」であり、満月からすれば、それはただ自分を眺めている1人の人間だった。
オバサンは母に捨てられた。10歳の時のことだ。
「私、〇〇くんの所いくから。」
そう言って母は、二度と帰ってこなかった。
母は、ほとんど毎日、ある男の所にいた。帰ってこない日がほとんどで、私はお隣のお婆さんのお世話になっていた。
「さぁ、いっぱい食べていいからね」
お婆さんは、優しかった。餓死しそうになっていた私を見つけてくれたのだった。
「いっぱい食べると、お母さんにご飯分けてもらってるのバレておこられちゃうから、少しだけ食べるよ」
そういって、いつもお婆さんを困らせていたっけ。
『家事をしていないお母さん』
『子供を育てていないお母さん』
それで怒られるのが嫌だったんだと思う。
私が他所でご馳走になるのを嫌がった。誰かが掃除をしに部屋に来るのを嫌がった。あの母にとって大事だったのは世間だけ。私のことは全然大事にしてくれなかった。
私は、あのお隣の少女と自分を重ね合わせていたのかもしれない。酷いことを言った。わかっている。けれど、あの母を見て、どうしても虐めたくなってしまった。
自分より弱いクズ人間。
はぁ、と優しいため息をついて、満月を眺めた。大きくて、まぁるくて、自分の意地みたいにみえた。
夜の静けさは、3人を包み込み、煩いのはただ一つ。満月の満面の笑みだけであった。
新月の夜が来た。
誰も、何も、感じなかった。ただ、スースーと寝息を立てていた。
月の無き夜に、影は見えぬものである。