王妃様という人
朝が来た。
ガウンを羽織ってバルコニーに出て、伸びをして深呼吸。
広い前庭と並木道の向こうに見える三年通った校舎ともこれでお別れだ。
王都外れのこの学園から国境まで馬車で七日間。
読書の気分でもなし(乗り物酔いには昔から強い)、考え事をする時間だけはたっぷりある。
王宮には夜の内に伝令が走ったらしいが、あちらは今頃阿鼻叫喚で方針すら決めかねてるんじゃなかろうか。
シャルルは明らかに誰にも何の根回しもしていなかったから。
元々の予定では卒業後に数日挨拶回りをしてから出発、タイミングを合わせて一時帰国してくるリリー姫と国境の街で入れ替わるはずだった。
ルフラン側では私をなだめすかしてる間にシャルルの処遇やら帝国への対応やらを協議したいだろうけど、付き合ってたら絶対面倒くさいことになる。
国境の街まで行って待つ方が事態がどう転んでも色々とやり易いからね。
出立済みの皇女一行を無理矢理連れ戻す程強硬な真似にはまず出ないし、こちらとしても夜逃げまですると体裁が悪い。
朝一でさっさと出発すると同時に王宮には旅程変更を通達し、追っかけてくるだろう使者を適当にあしらう、ということで。
軽い食事をすませ、シンプルなドレスに着替えて外套を重ねる。
年度末が三月な辺りこれまた乙女ゲー臭いんだよなあ…。
玄関ポーチに出ると護衛の騎士や馬車の群れが、あとは私が乗るだけの状態で待ち構えている。
そこにちょうど別の馬車が近づいてくるところだった。
予想よりちょっと早いお出ましじゃないか、めんどくさい。
馬車が停まって扉が開き、使者が従者の腕にすがるようにして降りてくる。
私の前に来てフードを下ろしたその使者は、真っ青な顔の王妃様だった。
「ああ、ローゼリア―――、何と、何と言ったら良いのか…!」
「王妃様!?
まだお体が!」
数日前から寝込んでいた王妃様は、本来は昨日の卒業式典に出席されるおつもりだった。
パーティーは学生ばかりだからおばさんは行けないけれど、式典ではあなた達の晴れ姿が見れるわね、って楽しみにしてくださっていたのだ。
「シャルルが…あの子がこんなことをするなんて、私は、今まであの子の何を見て…!」
「王妃様…。
近くに居て何も見えていなかったのは私も同じです。
むしろこの三年は、王宮にいらっしゃる王妃様より私の方が殿下の傍に居て、それでも何も気づかなかったのです。
どうかご自身ばかりをお責めになるのはお止めください」
「でも…私がずっとあの子に正妃を尊重しろと、愛する相手は良く考えて選べと、そんなことを言い続けてきたから…。
学園での様子を聞いて、すっかり安心しきって!
間違えてきたのよ、何もかも!」
こんなに取り乱した王妃様なんて初めてだ。
いつ見てもかっちりした装いで、確かにシャルル母だなって感じの儚げな見た目とは裏腹にてきぱき近侍に指示を出してて、笑ってても綺麗や可愛いよりも強そう、みたいな人。
国王陛下が夜遊び飲んだくれ寝過ごしコンボを決めた日は、王妃様が静かにぶちギレながら報告や陳情を代わりに聞いてて、王より王らしい王妃と密かに呼ばれてるらしい人が。
肩を震わせて泣いている。
「王妃様が、私のことを思って言ってくださったことなのはわかっています。
シャルル殿下のことも。
真っ当な信頼と敬意に拠った夫婦関係を築いて、良識と慎みのある恋人を得よと、殿下にも伝わっていたと思うのです」
王妃様は言葉を惜しまなかっただろうし、殿下も意図を正しく理解はしたはずだ。
理解してはいても、どうしようもないのが心ってやつなんじゃないのか。
する気のなかった恋に落ちちゃったり、うわべの言葉を信じたかったり。
王族の結婚は仕事だって割りきれなくなったり。
「ただ、あの方の心が私に向かなかった。
ただそれだけのことなんですよ」
「ローゼリア……ローゼリア。
ああ、私の弱音を吐きに来たつもりじゃなかったのに。
今日は貴女の見送りに、別れを言いにここまで来たのよ」
ぎゅうと手を握られ、握り返す。
この国に来てからの私は、シャルルの次くらいに長い時間を王妃様と過ごした。
ルフランについて帝国で調べられる範囲の全ての情報を留学前に詰め込みきってから来た私に、王宮の教育係がこれ以上教えられることは無いと言ったからだ。
会ったこともない貴族達の名前と顔を人相書きだけで覚えるのは本っ当にきつかった…。
後は公務について王妃様から直接話を聞いてね、という扱いになったのだ。
「此度のこと、帝国は耐えがたい侮辱として受け取るでしょう。
仮に戦争を回避できても、二国間関係はこれまでになく冷え込む…。
私と貴女が顔を合わせるのは、きっと今日が最後になるわ」
毎週土曜に王宮に行って、庭でお茶を飲みながら視察や慰問のスケジュールの話、男性女性それぞれの派閥間調整の話、王都で流行りのケーキの話や猟犬が生んだ真っ白な子犬の話なんかをした。
雨の日は温室で刺繍をしたり、裁縫室で生地やデザイン帳を広げてあーだこーだと言い合ったり。
本宮の季節の模様替えは王妃様と侍女長と侍従長の所管で、そんな細かいところまで決めるのかとちょっと引いたこともあった。
「貴女がお嫁に来てくれる日を、指折り数えていたわ。
一緒に選んだドレスとベールがきっととても似合ったでしょう。
貴女をもう義娘と呼べないことが―――、本当に、寂しい」
「私も、私も同じ気持ちです、お義母様…」
「私の立場で謝罪を口にすることはできないけれど、貴女の一生の幸せと、道中の無事を祈ります」
「さようなら、どうかお元気で、いつか、また―――」
実母の大公妃はローゼリアが物心つくころに亡くなったし、養母となった皇后様とゆっくり過ごす時間なんてものは正直無かった。
王妃様は、お義母様は。
この世で一番私の「お母さん」なひとだった。