2 そして彼は小さな足で走る。
疾走開始二歩で、転んだ。
一歩目で足がもつれ、二歩めで体が浮き、そのまま地面にヘッドスライディングしてしまった。
真っ裸で、だ。
幼女の柔肌が、大根おろしのようにおろされ、擦過傷が痛々しく刻まれる。
痛い。血が出た。
血は、赤色だった。
その事実に、僕は少しだけ胸を撫で下ろす。
そして、すぐに立ち上がり転んだ原因を探った。今すぐにでも走り出したいのだが、それでは先程の二の舞だ。
試しに一歩、普通に歩いてみる。
すぐに分かった。体が、うまく動かないのだ。足がうまく回らない。
当たり前だった。
僕は、今10歳くらいの幼女なのだ。
体のサイズが全然違う。手足が短いし、筋肉や骨や神経も、別の生物と言って過言ではないくらいには、異なる。
大人の、ましてや男なんかとは存在としての次元が違うのだ。
実際に、こうして幼女になってみてより強くそう感じる。
頭の中で無意識に思い描く体を動かすイメージと、実際の駆動に齟齬が生じてしまっていた。
……なんだ、そんな事か。
原因が分かってしまえば、至極簡単な事だった。
僕が、今までの人生、何をして過ごしてきたと思っているのか。一体、何人の幼女を観察してきたとでも?
イメージにずれがあるなら、軌道を修正してやればいい。
難しい事なんか一つも無い。単純明快だ。
見本はいくらでも頭の中にある。僕が今まで培ってきた全てが、僕の体を動かす。
僕は、再び走り出した。
それは、スムーズな疾走だった。歩幅が圧倒的に小さいはずなのに、まるで魔法のように速く体が進む。
声の聞こえた方角は分かる。幸運な事に、道の先だ。森を突っ切らなくて済む。急がなければ。
『よいのか?』
頭の中で、グランギニョルが言った。
「何が?」
『うぬがどうして死んだのか、忘れたわけではあるまい』
もちろん、忘れるはずがない。
あの夜、僕は見知らぬ幼女を助けようとして、暴漢にナイフで刺された。
あの感覚——肉体が、ゆるやかに死に向かっていくあのおぞましい感覚、思い返せば恐怖に体が震える。
『同じ過ちを繰り返すかもしれんとは、考えんのか? 確かに、幼い女子の悲鳴じゃったが、だからと言って助けに行く義理はないじゃろう。道理ではあっても、無理があるとは思わんか?』
グランギニョルが言いたい事は、分かっていた。言い分も十分理解できる。
けれど。
「その問いに対する答えは、産まれた時から決まってるよ、グランギニョル。もちろん、助けに行く。意義とか意味とか、そんな物はなんの障害にはならない。何故なら、相手が幼女だからだ。それ以外に、理由なんていらない」
僕は、強い意志を持って、そう言った。
それが全てだ。僕という人間の。
『そうか——』
必死だったのだ。今この瞬間にも、幼女が危険な目に遭っているかもしれないと思うと、あまり余裕が無いのも事実。他の事を気にかける容量が不足している。
だから——
相変わらずじゃのう、とグランギニョルが笑った気がしたのは、やっぱり気のせいなのだろう。
やがて。
常識外の速さで走って僕は、当初予想していたよりも早く、悲鳴の発信源へと辿り着く。
それは驚愕の光景だった。
目を恐怖に見開き、道端に尻餅をつく幼女——今の僕よりも幾分か幼く見える幼女。
そして——そんな彼女を襲うようにして立ちはだかる『ソレ』の姿を僕は目撃する。
視力も、元の体よりも良くなっているのか、まだ少し距離があるにも関わらず、はっきりと視認できた。
巨大な、鉄の塊だった。
人の形をしている。
陽の光を受けて、鈍く光る金属質の胴体。関節が歯車で構成される長い手足。ヘルメットのような形状をしている頭部。周りの木と同じくらい大きい。
まるでロボットのような、無機質な巨人——それが、今にも幼女を、襲おうとしているように見えた。
僕は、全力で疾走する。
足に力を込め、歯を食い縛り、地面を蹴る。そうすると、驚くようなスピードが出た。幼女の体なのに、人の体で出せるとは思えない規格外の速度である。
しかし、今はそんな事気にはしていられない。
鉄の巨人が、重々しい音を立てながら、腕を振り上げ始めたのだ。
飛び道具も何も無い僕は、ただ走るしかない。間に合うかどうかは微妙だった。そして、間に合ったところで選択肢が限られている。
鉄の巨人に攻撃したとしても、びくともしないだろう。庇ったとしても、幼女と一緒にぺちゃんこにされるのがオチだ。よって、選択肢は二つ。突き飛ばすか、抱えて避けるか。
どちらが幼女が助かる可能性が高いだろうか。
考えている暇は無かった。迷っている時間が無い。
幼女との距離が目と鼻の先まで縮まる。
巨人の腕が振り下ろされ——僕は、何も考えずただただ全力で、幼女へ向かって飛びつき、そして突き飛ばした。
「あぁぁあああ!」
「きゃああああ!」
彼女の小さな体が、びっくりするくらい勢いよく飛んでいく。そのまま僕の体もスピードを落とすことなく、振り下ろされた巨人の腕を足裏に掠めるようにして、地面に倒れ込んだ。
口の中に砂が舞い散る。体が火傷したように熱かった。先程転んだ際の傷口が更に広がり、頭の芯に響くような痛みが全身を駆け巡る。しかし寝ている場合ではない。ありったけの気力を引き絞り、僕は跳ねるように体を起こし、幼女の元へと走った。
幼女と巨人の間に入るように立ち塞がり、息を整えながら、彼女の様子を見る。
「大丈夫か? 早く逃げ——」
るんだ。そう言おうとして、僕は眉間にしわを寄せた。
言葉が通じるかどうか分からなかったから、ではない。幼女が、足を怪我していたからだ。ふくらはぎから、血がどくどくと流れている。足首が、紫色色に変色していて——これでは走ることは愚か、歩くことさえ困難であろう。
ど、どうすれば——。
抱えて逃げる? 人一人を? そんな事、できるのか?
焦燥が、足元から這い寄る。心臓が底冷えしてきた。思考が空回りする。頭が働かない。どうすればいい。考えろ。脳味噌を使え。どうすれば幼女を助けられる。
「あ……あぁ……」
と。幼女の栗色の瞳が、恐怖に潤んだ目が、この世の終わりを目撃したかのように見開かれた。空気を求めるように口を開くが、言葉は続かない。
反射的に視線を前に戻すと、鉄の巨人が再び腕を振り上げていたのだ。
「え——」
気付いた時にはもう遅い。歯車が絡まる駆動音。蒸気が吹き出されるような音が聞こえたかと思うと、巨大な鉄の塊が容赦なく振り下ろされた。
「ちょ——」
そして、視界が暗転した。