ライトサイト/1
ライトサイト(明の居場所+風景描写)
* * *
何が悪なのか、何が正義なのか。
決めるのは自分自身だ。
* * *
四月。
始業式と桜の開花時期がずれるなんて事は近日では恒例ともなりつつあり、ボクは風に散って地面に落ちてしまった、お世辞にも奇麗とは思えない桜の花びらを踏み越えて校門をくぐった。
春特有の乾いた強風が髪をなでる。
腰まで届く黒髪だ。
前髪は眉を隠す程度に整えられ、ワインレッドのフレームの眼鏡がかけられ、そのレンズ越しに前方を見やる瞳は暗い血のような赤褐色をしている。
身を包むシャツは卸したばかりで真新しく光を弾き、首には赤いリボン・タイが締められている。
ブレザーは藍色で統一され、スカートは灰色。
この学園の制服だ。
まさしくその模範たる着こなしでボクは、もはや青みがかってきた桜並木のアーチを通る。
規則正しい歩幅で、左手で取っ手を掴む鞄は一年という歳月を経たとは思えないくらい奇麗に保たれていた。
といっても鞄の底には擦れて色落ちした所もある。あくまでも他と比較した場合の話だ。
電子辞書の登場で学生の登校鞄というものはかなり軽量化した。
そのため一番の重りである辞書を持ち運ぶ必要がなくなり、鞄はあまり劣化しなくなった。
それでも机やロッカーが教材で溢れているのは惰性か、虚弱か、反骨か。
……そういえば、逢子の机の中はあまりに教材を詰めすぎて鉄が変形を始めていた。
ロッカーには体操服やら生理用品やらが雑多にぶち込まれ、果てにパンティーが引っ掛けられていたりする。
女学校か何かと勘違いされかねないが、ここははっきり共学で、逢子にしてみれば「むしろ半分ほどセーブしている」との事で、一年の付き合いを経て尚、逢子の底は見えない。
桜並木のアーチをくぐり抜けると拓けた場所に出る。
その真ん中には石垣で囲まれた樹齢ウン十年という大樹が植えられており、その先には下駄箱がある。
登校の時間帯としては早くもなく遅くもなくだが、いつもならちらほらと見える生徒の影が、今はあまり見えない。
早く来て溜め込んだ休みの課題を済ませるか、生活リズムの急激な変化に身体が付いて行けずに寝坊したか。理由としてはそんな所だろう。
軒先に入った所でボクは聞き覚えのある声を聞いた。
「めーい!」
めい。漢字で書くと明と書く。
振り返って見ると、桜並木の入り口に差し掛かった辺りで手を振る姿があった。
しかし手を振っているのは見えるが、顔の詳細までは見えない。
無論、あちらも条件は同じはずなのだが、彼女ははっきりとボクと見分けて声を掛けた。背中しか見えなかったはずだが……、もしかすると彼女の眼はマサイ族(統計的に視力5.0)並に良いのかもしれない。ちなみに彼女の視力は両目とも持ち込まれた計測器の限界である2.0だ。いつか専門機関で正確に測ってもらいたい気もする。
彼女が桜並木のアーチを走り抜けて近づいてくる。
段々と彼女の顔が鮮明に映ってくる。
ネクタイは乱暴にブレザーのポケットに突っ込まれ、シャツのボタンは上から二つ目まで外されていた。大きな胸のふくらみで苦しいのか(採寸したのだからそんなわけはないはずだが)、ブレザーもボタンを付けずに開けられている。
彼女はボクの手前3m程で急ブレーキを掛け、ザザーッ! と格好良く滑り込んできた。
そして停止しようとはせず、少しの勢いを余らせて、両手をいっぱいに開いてボクに抱きついて来た。
身長差で、彼女の胸の高さはボクの頭の高さにあたる位置だ。
ボクは顔を彼女の豊満な胸に押しつけられて、しばし息を止められた。それには構わずに彼女は愛玩動物のようにボクを抱きしめ続ける。
「…………むぅ」
ボクが苦しげに喘ぐと、ようやく気付いたのか彼女はパッ、とボクを解放した。
「お。すまねぇ」
チロリと舌を出す彼女。反省はしていないが悪いとは思っている、といった表情だ。
ボクはそのひょうひょうとした態度の彼女を恨めしげに睨みつける。
「……逢子。これは立派な殺人未遂事件だよ」
「死因はずばり溢れすぎた『愛』だな」
「ただの窒息死だよ!」
「窒息したら人工呼吸して助けてやるから大丈夫だ」
と胸を張る逢子。頼もしいやら阿呆らしいやらだ。
学年が変わっても逢子に変わった様子は無い。
五条 逢子。
ボクの少ない友人の一人だ。
「ああ……」
逢子はじっとボクを見てどこか悦に入っている。逢子の悪い『病気』だ。
「ちょっと見ない間にまた可愛くなりやがって……。つやつやした黒髪。ぷくっとした頬。滑らかな輪郭。華奢な体躯。全てがアタシのリビドーを喚起させる」
「三日前に会ったばっかじゃん」
「少し赤みがかった顔と上気する息遣いがなめかわしい」
「窒息しかければ大概の人はそうなると思う」
「思わず頬ずりしたくなるぜ」
などといって止める間もなく頬をすり寄せて来る逢子。
通りかかる生徒の視線が集まって痛い。幸い今日は生徒の数自体それほどではなかったが、それとこれとは話が違う。
「逢子。そろそろ放せ」
「アタシの内に秘めた想いを『話せ』ってか。よーし」
「違う! その『はなす』じゃない!」
そもそも内に秘めてもないだろ。
ボクがいくら引き離そうとしたところで逢子の力には勝てない。逢子は片手の握力だけでも80kgを超える怪力だ。一度女子プロを推薦した事さえあったが、「お前とタッグなら世界でも行ってやる」と言ったので撤回した。ボクの握力はせいぜい30kgぐらいだ。
下駄箱を目の前にして靴を履き替えずに(不本意ながら)騒いでると、それを割って入る者が現れた。
「こらこら、逢子さん? あんまりやり過ぎると嫌われちゃいますよ」
まさに救いの手。懇願するような眼でそちらを見ると、そこには聖母が立っていた。
「お二人共、お早う御座います。朝からお元気ですね」
柔らかにはにかむ。邪念が払われるように神々しい笑顔。
しかしボクの顔はいささか懐疑的だった。
「貫奈」
「はい?」
「いつから見てた?」
貫奈は男子が見れば一瞬でよろめいてしまいそうな微笑みでボクに答える。
「逢子さんが「めーい!」と叫んでいた辺りです」
初っ端!
「だってアタシ等は一緒に登校して来たんだぜ? 偶然道中で行き合わせてな」
「……ああ、そう」
なんだか、日常に帰ってきたような気がする。
それはきっと錯覚なのだろうけれど。
「逢子さんがいきなり走り出したから吃驚しましたよ」
「明の後姿には何とも言えない余韻があるからな。例え10km先に居ても発見できるぜ」
ハハハハッ! と快活に笑う逢子。こいつの場合は本当にやれそうで怖い。
ボクはそれとなく左手首に付けた銀性の簡素な時計に目を落とした。短針は8、長針は45を示していた。そろそろ教室に向かった方が良い時間帯だ。
「逢子。貫奈」
時計を突き出すようにして見せてやると、合点がいったように二人は歩き出した。
貫奈はさわやかな笑顔で。
逢子はボクを小脇に抱えて。
「おい、こら」
さも当然といった風情で下駄箱に向う逢子に不満をぶつける。
「どうした?」
「何でボクを抱える必要がある?」
「必要がなければ抱えちゃダメなのか?」
「ダメだ」
きっぱりと断言する。曖昧な返事では、このままファーストフード店のハンバーガーよろしく、お持ち帰りされかねない。
貫奈はそれを「まぁまぁ」と諌める。
「良いではありませんか。どちみち教室の前までですよ」
そう、ボクと逢子は教室が違うのだ(去年までは一緒だったが)。それがせめてもの救いと言えた。
「そのくらいの自由を許してあげても……」
そうだそうだ。ボクは心の中で歓声を上げる。
「……明さん」
「……………………ん?」
ちょっと待て。まさか―――。
「……ってわけだ」
どういうわけだ。
逢子はボクを抱えなおした。
「このまま教室の前まで行こう。むしろ明の席まで行こう」
「…………むぅ」
もはや呻くしかない。
貫奈は手早くボクからローファーを脱がせて、ボクの靴箱にしまい込み、上履きを取り出した。
「ご心配には及びません。ほら、しっかり」
ボクの上履きを一足揃えてみせる。
抵抗は、無駄のようだった。
逢子と貫奈はそのまま談笑しながら下駄箱を抜け、廊下を渡る。ボクは無言で不満のオーラを出していたが、逢子の腕の力が緩む様子は一切ない。
結局、ボクは逢子に荷物感覚で抱えられたままに自分の教室に辿り着いたのだった。