69.東丹波、攻略。
朽木から内藤 国貞を匿う田原城まで20里(78km)だが、山道というだけで大変なのにまだ雪も残っている。
丹波の積雪量は30cmから1mくらいである。
信州のように数mも降る豪雪地帯ではないのが幸いと言える。
しかし、雪上移動は予想以上に体力が奪われ、天候によって進めなくなる。
足元も要注意であり、雪に足を取られる危険性を高い。
念の為に朽木の兵は全員がアイゼン付きのワカンを装備している。
本当に夏のような気軽さで出掛けられない。
当然、夏の20里(78km)なら一昼夜通して歩けば到着することも可能だが、雪の中では難しい。
初日は朽木を出ずに曹洞宗の清源寺周辺で陣を引き、翌日は8里(32km)先にある下村城を宿とした。
下村城に到着した者から温かい食事にありつけ、馬小屋のような小屋だが雨露をしのぐ小屋もある。
山道も山狩りの時に整備しており、道なき道ではなく表札に従えば問題なく到着できる。
朽木 稙綱と一緒にいた対馬守(三雲 定持)が声を漏らした。
「この辺りは随分と整備されておりますな」
「対馬守、それは違いますぞ」
「何が違うのですか?」
「山道を整備したのは去年の夏のことであり、小屋を整備させたのは冬の入ってからです」
「冬に入ってから?」
「忙しい中に食糧を運んで置くように言われました。菊童丸様にはいつも振り回されてばかりです」
「菊童丸様はそれほど前から通じでいらっしゃったのか?」
「通じておりません。ただの隣のよしみ、それも去年に入ってからですが」
「隣のよしみとは?」
「熊や狼、鹿、猪の害獣を共に駆除しようという試みですな」
「その為に同盟を結んだと言われるのか?」
「そういうことです」
「信じられん」
「菊童丸様は某らでは、思いも付かないことをされるお方なのです」
他領の者と害獣を駆除しようという領主はほとんどいない。
普通は自領から他領に押しやって隣国を弱体させておく。
対馬守が驚くのも無理がない。
下村城を出ると、翌日は川勝 広継の野々中山城(中村城)に移動し、桓武天皇の勅願所であった歓楽寺で戦勝祈願を行った。
野々中山城から田原城まで4里(15km)もなく、昼から南下すれば田原城に到着するのは夕刻になる。
それを嫌って、俺は野々中山城(中村城)で一泊することを告げた。
野々中山城(中村城)の一室を借りて軍議を行うのだが、対馬守の顔が随分と険しかった。
「では、明日早朝に立ち、田原城を包囲することで異議はないか?」
朽木の者が頷く。
「それではこれにて」
「しばらく、お待ちを!」
「対馬守、どうかされましたか?」
「腑に落ちませんな。どうして今日中に田原城に近づき、明日の早朝を持って取り囲まないのですか?」
「先ほども言ったが、皆の体力を考えてのことだ」
俺はそう言ったが納得している様子はない。
そりゃ、そうだ。
田原城を攻略するなら俺もそうする。
「まるで田原城が攻略できているかのような余裕が伺えますな」
対馬守が俺をまっすぐに見てそう言った。
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はぁ、仕方ないか!
「軍議は終わりだ。皆は席を外せ!」
そう言って、皆を軍議の席から追い出し、幹部のみが残った。
「お察しの通り、すでに田原城の攻略は終わっております」
「やはりそうか」
「いつ、気づかれました」
「下村城、野々中山城(中村城)は川勝 広継の配下であり、川勝氏は丹波守護代(内藤 国貞)を支持している。川勝氏に通じておきながら、守護代に通じておらん方が不思議であろう」
「ははは、そういう見方もありましたか!」
「違いますか?」
「(川勝)広継は『臣下の礼』を受けておりましたから、我が家臣と思っておりました。迂闊でした」
「某の勘違いでしたか?」
「勘違いではありますが、間違っておりません。広継に命じて、田原城の小林と(内藤)国貞は調略済みでございます。(六角)定頼には、すでに話しておる」
正月の席で(六角)定頼に申し上げて協力を求めていた。
下野守(蒲生 定秀)も知っていたので、対馬守に睨まれていた。
「酷うござるな!」
「申し訳ござらん。お館様より一切他言ならずと言われておりました」
「某はずっと騙されていた訳でござるな」
「対馬守、そう拗ねるな! 俺がそう命じた」
「神五郎を騙す為ですな」
「そういうことだ」
そもそも(内藤)国貞は幕府に逆らうつもりはない。
実に協力的だった。
俺は川勝氏に加え、殿城の小山氏、南丹波の上中城の田中氏、周山城と宇津城の宇津氏の降伏の書状を対馬守に渡した。それと一緒に(内藤)国貞の配下の領主の領土安堵を書き示した書状を一緒に渡す。
「これは!」
「領土の安堵状だ。まだ、降伏しておらんので日付は入っておらん。朽木から渡されるより、六角の家老から渡される方が安心するだろう」
「まさか?」
「今頃、田原城に集まって来ているハズだ。返事が来ぬから、まだ揃っておらんのだろう」
「一体、いつから準備をされたのですか?」
「昨年の冬に六角が朽木を攻めると言われた時からだ」
「参りましたな!」
対馬守は俺を見ながら頭を掻いた。
こんな子供にいい様にされた訳だ。
「参ったのはこちらだ。神五郎め、六角を使うと聞いた時には肝を冷やしたぞ。どう抗っても朽木は詰んでおったからな。六角に朽木をやるのは口惜しかったが、六角を後ろ盾に幕府を立て直すなら悪くないと考え直したのよ。(六角)定頼が度量の広い男で助かったわ。よい主人を持ったな!」
対馬守がどういう心証を持ったかまで、顔色から窺い知ることができない。
下野守のように得心して頷いてくれると判り易いのだが………。
9日、朽木4,000兵が田原城に到着した。
天候が味方してくれたのがラッキーだった。
俺達が到着すると、小林氏がすぐに開城してくれた。
評定の間では、世木城の湯浅 宗貞、塩貝城の塩貝晴政、東胡麻城の宇野但馬守、志和賀城の大槻氏、上野城の山崎加賀守、豊田城の須知氏、坂井城の谷垣氏、出野城の出野氏が待っていた。
「皆者、大義である」
これで今日のお仕事はおしまいだ。
俺の前に座った六角家老の二人と(朽木)稙綱がやってくれる。
これでほぼ、丹波の制圧は完了した。
「申し訳ございません。まだ、いくつか返事が返って来ておりませぬ」
「気にするな。すでに手を打ってある」
「すでに………ですか?」
「すでにだ」
(内藤)国貞は対馬守の言葉に首を捻った。そして、後ろの俺の方を覗いた。
そうだ!
東丹波も一枚岩ではなく、波多野氏に通じている家もあった。
2月6日付けで(内藤)国貞から届いた書簡を見て、城主らは田原城を目指してやって来たのだが、中には波多野氏に連絡するものいた訳だ。
これを機に隣の領地を掠め取るつもりだったのだろう。
波多野氏に寝返るつもりだった城主は慌てた。
困った城主は急いで(波多野)稙通に指示を仰いだのだが、それを許すつもりはない。
西丹波の八上城と京への道に網を張って、波多野氏と連絡を取ろうとする者をすべて始末するようにと、村雲党に命じておいた。
今の所、取り逃がしたという報告はない。
波多野氏も六角と同じく2月1日に陣触れを行い、8日に八上城を出立し、10日に園部で京から亀山を上がってきた軍と合流して、田原城を目指す予定になっていた。
対馬守の話によれば、2月5日に六角と朽木が戦闘に入り、その様子を伺って、波多野軍も一度京に南下した後に、若狭(鯖)街道を北上して、朽木を挟撃できるように日程に余裕を持たせていたらしい。
しかし、朽木があっさりと降伏した。
これは完全に肩透かしである。
(波多野)稙通は予定通りに園部に向かうしかない。
波多野の軍は沖積低地の園部の天神山の西、天満宮の付近で集結して始めているらしい。
朽木も今日中に桂川の付近まで南下して、明日に備える。
天文9年2月10日(1540年3月18日)、決戦の日がやってきた。