59.新右衛門さんはがんばった。
菊童丸様は人使いが荒すぎる。
まぁ、付き合っていて面白いお方と思いますが、あの知識をどこで手に入れたのかが実に不思議な方だ。
何度か伊勢守(伊勢 貞孝)の使いで朽木に赴いたが、朽木で作られている道具を見たことがない。
菊童丸様は宋や明の書物から学んだと言われるが、菊童丸様が言われるような明の書物を見たことがない。
私も書庫が好きで様々な書物を読むのだがな?
それはともかく、今度は我が領地のことで相談するか?
我が蜷川家の所領は丹波国船井郡桐野河内を領している。
居城は蟠根寺城といい、昨年に討伐された丹波守護代である内藤 国貞の八木城の北にある。
不作の上に戦続きで困っているのだ。
越前の朝倉から帰って来ると六角の仲介に付き合わされ、それが終わると坂本に出向いた。
坂本は東の京と言っても良いほど賑やかであり、花街も多くある。
多くの女人に囲まれて僧と一緒に般若湯を飲みながら、朽木を襲った僧侶の元締めを探した。
「それほど朽木は恐ろしいですか?」
「恐ろしい、恐ろしい、鬼のように角を生やしておったと聞く」
「角はないでしょう」
「まったく、誰が朽木に手を出そうなどと言ったのでしょうな」
「それは私が聞きたいくらいです」
「新右衛門尉様が知らぬなら我らが知るよしもありません」
「高島の救済を命じた方が居られるでしょう」
「それは…………」
名前の上がった僧侶を訪ねてゆくがたらい回しだ。
中々に本命に行き付かない。
そのことを手紙で伝えると、菊童丸様は管領(細川)晴元に繋がる高僧の上ではないかと言われた。
土倉を取り仕切る僧侶ではなく、その上の僧正か、大僧正となると厄介だ。
「おやぁ、新右衛門尉様ではございませんか?」
「どなたでしたかな?」
「これは失礼。三好孫次郎伊賀守の家臣、松永弾正忠と申します」
「伊賀守の家臣でございますか!」
「ここではなんでしょう。あちらで茶などいかがでしょうか?」
「お受け致しましょう」
弾正忠から幕府がこれからどう動くつもりか聞かれた。
問題のない範囲で答えておく。
この弾正忠は中々の博識を持っていると見た。
「つかぬことをお聞きしますが、幕府はどのように武田をお助けになられたのでしょうか?」
「助けたというのは、どういうことでしょうか?」
「武田の家臣の方が言われたのですが、武田家は借財を棒引き(なかった)にして貰ったと聞きまして、どうすればそのような御業ができるのかと気になりました」
「残念ですが、それは嘘でございます」
「嘘でございますか?」
「借財を少しずつ返すことにしただけでございます。徳政令では商人らが納得しませんからな」
「なるほど、商人らが納得する形で返済できるようにした訳ですな」
「左様」
「中々の手腕でございますな!」
「言葉巧みに商人を籠絡するのに天武の才があったのでございましょう」
「その御仁のお名前は?」
「それはご容赦を!」
「判りました。それ以上はお聞き致しません。ところで朽木と大内が同盟をしたと蒲生殿より聞き及びましたが、如何なる同盟なのでしょうな?」
「はて、何の事でしょうか?」
「聞いておりませんか」
「朽木は菊童丸様が避難されておりますので、何度か行っておりますが、そんな話を聞いたことがございませんな」
「そうですか。蒲生殿は聞き間違いをされていたのかもしれませんな。よい話を聞かせて頂いた。お礼をせねばなりませんな」
弾正忠は黒幕の僧正の名を教えてくれた。
その僧正を動かしたのが、可竹軒 周聡という。
管領(細川)晴元の側近中の側近の僧であった。
弾正忠と別れてから裏を取ってみたが、こちらは当たりのようだ。
周聡とその僧正と会っていたのはすぐに知れた。
なるほど!
菊童丸様が孫次郎(長慶)を警戒される意味が判った。
武骨一辺の所業ではない。
人脈の1つをとっても一流であることが判った。
さりけなく六角に流れる良からぬ噂も教えてくれたのだな。
これは菊童丸様にご相談せねばならんな!
◇◇◇
天文8年9月13日(1539年10月24日)、六角定頼が進藤貞治と永原重隆に軍勢800兵を連れて芥川山城(摂津国)に遣わした。
本格的に孫次郎(長慶)と三好政長の対立の仲裁に乗り出したことで戦いは事実上終結した。
孫次郎(長慶)と三好政長の双方が六角定頼を敵にする気がないからだ。
天文8年9月26日(1539年11月6日)、細川晴元が山崎(山城国)より上洛し、同日、史実に存在しない『高島の戦い』がひっそりと起こっていた。
朽木 晴綱と武田 義統が京を出立したのは、その日より三日後であった。
天文8年10月3日(1539年11月13日)、六角定頼が上洛し、同日、三好政長は本願寺証如に手紙を送り、孫次郎(長慶)との和議がなった旨を伝えた。
翌日、六角定頼が幕府に出頭して、将軍義晴にそのことを報告した。
孫次郎(長慶)と三好政長の争乱が終結したことが公になった。
後は、細川晴元が京を騒がした『賊』の討伐の恩賞を与えて終わりなのだが、(細川)晴元がそれを渋っていたそうだ。
天文8年10月10日(1539年11月20日)、細川晴元が六角定頼・義賢父子を自邸に招き観世能を催した。
京は平和に戻ったという宣言になる。
これには(伊勢)貞孝も呼ばれ、定頼・義賢父子と一緒に説得したが、孫次郎(長慶)を地頭にすることを(細川)晴元は認めなかった。
3日後、父上から京への帰還命令が届いたのだが、母上が頑なに嫌がった。
「嫌じゃ、嫌じゃ、京の屋敷は寒い。わらわはここで冬を過ごすぞ」
「母上、父上もお寂しいのでございます」
「嫌じゃ! 義晴様もこちらに来ればよいのじゃ」
理由は毎日のように風呂が入れなくなることらしい。
都では、風呂と言っても蒸し風呂を『風呂殿』と呼び、これが週に一回程度で、手拭いなどを濡らして体を拭いたりすることを『湯殿』と言って、週に二回程度なのだ。
香などを焚いて体臭を隠しているらしいが、ここではその必要がない。
もう、風呂のない生活ができないと駄々を捏ねた。
蒸し風呂は湯船のようにつかってのんびりできないからね。
さらに問題は髪だ。
それに女性は髪を傷めることを嫌い、そして、濡れた髪を乾かすのが手間らしい。
朽木では窯の温風を使って一気に乾かし、リンスで髪の手入れも毎日できる。
ツヤツヤの髪は朽木でしか維持できない。
止めが、温かい煉瓦屋敷である。
床暖房完備の菊童丸煉瓦屋敷は雪の日でも温かい。
腰も冷えない。
女性にとって天国のような場所らしい。
都から離れる時に、あれほど嫌がったのが何だったというくらいの代わりようだ。
御爺上様(近衛 尚通)も同意見らしく、御爺上様が父上に手紙を出したらしい。
鶴の一声で都に煉瓦屋敷を造ることが決まった。
という訳で、煉瓦館が完成してから帰宅することになった。
おい、その人の段取りを誰がするのだ?
父上の決定だ。
頭が痛い。
奥朽木の開発が一時中止され、職人300人と煉瓦などの輸送係に700人、街道整備の1,000人が動員される大仕事が急きょ始まった。
もちろん、お代は幕府持ちだ。
雪が降り始めているので急仕事だ。
お代は高く頂いた。
「父上がもう少し安くならないかとおっしゃっておられます」
「できる訳がないだろう」
「しかし、少し高過ぎるのでは?」
「煉瓦を運ぶのに、どれだけの馬がいると思う。しかも冬だ。作業員の寝泊まりする小屋も作らねばならん。春まで待つならば、半分の工費でも良いぞ」
「春に完成ですか?」
「違う。春から始めるのだ」
「それは困ります」
「ならば、無理だ」
工事費で一番に高くつくのは運送費で、朽木で作った煉瓦を京まで運ぶ必要があった。
京の周辺で煉瓦を作れれば安くなるが、煉瓦に向く土探しから始めないといけない。
とても春に間に合わない。
大量に物資を運ぶには荷馬車を使うのが一番安い。
母上が住む場所だけで良いならすぐに完成できるのだが、都ではそれができない。
鄙びた田舎の朽木邸という言い訳も通じない。
本来なら一年以上も掛けて造るものだ。
土台はローマンコンクリートで工期を短縮し、本体は朽木衆で煉瓦を積み、屋根と装飾は近衛御殿を作る為にやって来た栃生・村井(新)村の宮大工に任せる。
半煉瓦の半木造造りになる。
足りない作業員は京から集める。
2ヶ月半、新年の参賀に間に合わせろとか滅茶苦茶だ。
帰ってきたばかりの茂介には悪いが京に行って貰った。
捨も煉瓦増産の為に来春完成予定だった新しい窯の完成を急いで貰う。
これでは二人とも何の為に帰ってきたのか判らない。
三郎、スマナイ!
同時に朽木と京を結ぶ若狭街道の整備をする。
方法は簡単だ。
道を平らにして、ローマンコンクリートと土砂も混ぜた改良土を乗せる。
お手軽な地盤改良だ。
これで荷馬車が通っても崩れない街道の道が完成する。
ただ、石灰の砕石場が大変なことになっている。
石ころを朽木が高値で買うと聞いた村人が周辺から人が集まって、1,000人以上の砕石町が生まれているらしい。
一度、見に行った方がよさそうだ。
俺は相変わらず、高島を走り回っている。
そんな中に大変な話が飛び込んだ。
天文8年10月28日(1539年12月8日)、備中に入った阿波衆は尼子詮久勢と戦っていたが、播磨で赤松晴政の別働隊が敗走した為に三木城の(別所)就治が寝返り、陸路での退路を失った阿波衆は尼子詮久勢との戦いを継続するのは危険と考えたのか、海上から撤退を準備している所を襲われて大敗したという話だ。
阿波の三好は孫次郎(長慶)の後ろ盾である。
情勢がこれでまた動く。
どこまで行っても落ち着かない。