44.長慶 VS 政長、妙心寺の戦い。
武田信豊・義統親子が管領(細川)晴元に対面して、妙心寺から退去をお願いしたのは3日前であり、三好政長は管領(細川)晴元よりの命を受けて兵を引くつもりであった。そもそも京で暴れている(三好)政長方を称する無法者を処断する為に出兵であり、朝廷・幕府・寺方々の支持を取り戻すことであった。
そうなのだ!
無法者らを何とかしてくれと言ったのは幕府であった。
(三好)政長は乱暴狼藉を止めるように禁令を発し、味方衆に無法者への協力を取り止めるように手紙を送った。それでも止めようとしない無法者を捕える為の出兵であったハズであった。
しかし、(三好)政長が出兵すると、孫次郎(長慶)も動いた。
孫次郎(長慶)の兵、つまり、伊賀守の兵を孫四郎(三好 長逸)が率いて出陣し、対峙しながら(三好)政長は西京の妙心寺に入り、伊賀守の兵は少し東の金乗寺に入った。
睨み合っている間に武田が京に上洛し、予想通りに無法者を取り締まった。
だが、洛中・洛外で行われた粛清を聞いた政長の家臣団は激怒した。
「我らが屋敷に押し入るなど言語道断! 武田家は何を血迷ったか?」
三好政長を始め、家臣らも京に屋敷を持っている者や一族が住んでいる者は少なくない。
現代風に言うならば、各国の大使館のようなものだ。
当然、治外法権で守られており、当事国であっても捜査や逮捕を勝手にできない。
そして、スパイや犯罪者が根城にしていることはよくあった。
武田はそこを強制捜査したのだ。
捜査に協力した家が多かったが、少なからず抵抗した家もあった。
犯罪者をいるのかいないのかに関わらず、御家の尊厳を掛けて拒絶した家もあった。
出入りしていると報告があった以上、武田家も調べない訳にいかない。
こうして各所で『池田屋事件』(殺し合い)が起こったのだ。
妙心寺に立て籠もる家臣の中に身内が殺された者が激怒した。
京にある他家に押し入るなど、あってならない許されないことであった。
このまま撤退しては武門の恥だ。
「伊賀守を倒せ!」
「殿、一戦交えましょう」
「伊賀守の首を取って、すべてを終わらせるぞ!」
「伊賀守ごと武田も滅ぼせ!」
逃げてくる者から『血の三日間』を聞くと家臣団の怒りは頂点に達していた。
政長の家臣らが妙心寺で叫んでいる頃、寺を囲う三好の陣中では、孫次郎(長慶)は笑っていた。
「ふふふ、弾正忠。我らがやろうと思っていたことを武田が代わりにやってくれたぞ」
「はい、武田がここまでやってくれるとは思ってもおりませんでした」
「京より逃げてくる者は通してやれよ!」
「判っております。今頃、怒りで我を失っている頃でしょう」
「これで決戦ができる」
「はい、やっとここまできました」
武田は孫次郎(長慶)の策を知らずにやってしまったとは気づかない。
そう、武田の兵はやり過ぎた。
菊童丸が要れば、見せしめに押し入った屋敷は一軒くらいであっただろう。
容赦しないという心構えが大切なのだ。
しかし、一人残らず取り締まろうとしてしまった。
武田 義統の真面目さが悪い形で出てしまったようだ。
◇◇◇
天文8年7月21日(1539年9月3日)、武田 義統が処分者を始末した後に西京に移動した頃には、孫次郎(長慶)方の包囲が完了していた。
政長の軍は当初2,000人に過ぎなかったが、京より逃げてきた者が集って、4,500人まで膨らんでいた。
膨れ上がる味方に政長の家臣らは意気込んだ。
孫次郎(長慶)は2,500人、武田軍も2,500人の総勢5,000人であり、対する政長は4,500人で互角に戦える。
「まず、目の前に伊賀守を叩き、駆けつけてきた武田軍も叩く。各個撃破で我らの勝利は間違いなし!」
「そうだ!」
「2,500程度の伊賀守の軍など一思いに踏み潰してくれるわ!」
「伊賀守、何するものぞ!」
「手柄は取り放題。叩き潰せ!」
早朝の朝駆けで孫次郎(長慶)の兵を討とうと意気込んでいた政長の家臣らも夜が明けるに伴って状況の変化に気がついた。
そうだ、1万8000人の兵に囲まれていたのだ。
膨れ上がった士気が急激に萎んでいった。
「何故、伊賀守の兵が増えているのだ?」
当たり前だ。
京にいた政長方の兵が妙心寺に集結するのを見て、孫次郎(長慶)が何も対応しないと考える方が馬鹿であった。
摂津の味方に出陣をお願いして山崎当たりで待機させ、期日の早朝に間に合うように夜陰に紛れて一気に取り囲んだ。
孫次郎(長慶)の軍の後に武田菱が並んだのは示し合わせた訳ではない。
もしも政長の軍が西京へ兵を進めた時に対応する為に過ぎない。
妙心寺の政長方から見れば援軍であり、殿を武田が担っているように見えたのだ。
武田軍は物見遊山に来ただけであった。
「父上、菊童丸様があれほど気になさる孫次郎(長慶)はどんな戦いをするのでしょうか?」
「つまらん戦いをすると思うぞ」
「つまらないですか?」
「手堅い戦い方には付け入る隙も生まれぬ」
「手堅いとは?」
「敵より多くの兵を揃えることだ」
「なるほど」
戦いはお昼前から始まった。
◇◇◇
孫次郎(長慶)の軍は一気に攻めることなく、ゆっくりと兵を前に進め、陣を構築していった。
妙心寺は西京にある大きな寺であり、分厚い土塀に囲まれて城のような防御力を持っており、3万人の大軍も収容できる。
2,500人程度の兵で襲うには大き過ぎた。
ゆえに安心できたのだ。
しかし、1万8,000人に膨れ上がった敵を相手に4,500人で寺を守るには少な過ぎた。
妙心寺の僧が味方してくれるなら互角に戦えるのだが、僧達の目は冷たい。
出て行ってくれとばかりに迷惑そうであった。
孫次郎(長慶)の軍が一気に攻めて来ないのも寺への配慮であるとすぐに判った。
参ったな!
形勢が決まれば、僧兵が敵に回るな!?
「殿、最早これまで。討って出ましょう」
「うむ、それしかないな。兵を集めよ」
「はぁ」
敵は四方に展開していた。
孫次郎(長慶)の本陣のみ見れば、4,000人程度、十分にやれるハズであった。
孫次郎(長慶)の軍が寺攻めの配置が完了するのを待って、東門を開けて政長の軍が討って出てきた。
三方に300人ほどの兵を残していた。
包囲が完了する時こそ、本陣が最も手薄になると読んだ策であった。
「矢を放て!」
孫次郎(長慶)の軍に近づくと矢を放って牽制した。
「撃ち返せ!」
対する孫次郎(長慶)陣も矢を放って対応した。
まずは矢合戦から始まった。
「父上、はじまったようです」
「うむ、どちらも手堅い」
鎌倉から室町に掛けて戦の主力は弓であった。
戦国時代に入ると、足軽という槍隊が大きく戦い方を変えた。
矢合戦の後に騎馬武者による突撃から一騎打ちが定番であったが、そこに足軽の槍隊が出てくるようになった。
足軽は馬を狙う。
馬から落ちた騎馬武者は足軽の餌食であった。
こうして、騎馬武者による一騎打ちがなくなり、足軽同士のぶつかり合いが主流に変わっていった。
うおおおぉぉぉ!
政長の軍の足軽が飛び出し、孫次郎(長慶)の弓隊が下がって足軽が飛び出した。
縺れあいながらじりじりと孫次郎(長慶)の足軽が押されてゆく、政長の軍の武者の指揮も熱が入った。
「押せ、押せ、押せ、敵に本陣まで突き進め!」
「堪えよ」
「押し潰せ!」
「堪えよ、堪えるのだ」
孫次郎(長慶)の武将は声を上がるのだが、馬は後ろ脚で下がってゆく。
こうして第一陣が破られると、政長の軍の足軽が第二陣へと進んでいった。
「我が軍が有利です。有利、我が方が有利でございますぞ」
「喜ぶな! 急げ! 周りが駆けつけてくるぞ」
「はぁ、急がせます」
第二陣に迫ってゆくと、政長の軍の矢の雨が降った。
しかし、政長の軍は体制を立て直して矢合戦をしている暇はない。
足軽隊が矢の雨を掻い潜って第二陣に突撃を掛けた。
「第二陣も突破!」
「そのまま進め!」
「その勢いで第三陣も突き破れ!」
政長の軍は有頂天で突き進んだ。
「弓隊、下がれ! 足軽隊、突撃!」
脆い、政長は孫次郎(長慶)にしては脆すぎるとそう思った。
阿波の三好軍はこんな軟弱な兵ではない。
いくら左右に兵を展開したからといって薄すぎた。
「敵をよく見よ!」
「これは罠だ」
政長は第二陣を破ったときにそう叫んだ。
◇◇◇
後背の少し高くなった所に陣を張っていた武田軍から孫次郎(長慶)の陣がよく見えた。
孫次郎(長慶)は軍を左右に3つ、上下に四つに割って展開しており、東門の中央に孫次郎(長慶)の兵が展開していた。
そうだ、縦に四層に分かれていた。
否、最初は縦に長細い陣に思えたのだが、戦がはじまると兵が固まって四層であることがよく判った。
最後尾の孫次郎(長慶)はゆっくりと後退をしていた。
第一層が破られると、一層の兵は後方に逃げて本陣の前で新しい層を作り出した。
「父上、あれは何をしているのですか?」
「何をしていると思う?」
「守る兵が少な過ぎます。あれでは足軽が討たれて兵が無駄に死にます」
「足軽ならすぐに補充できるぞ」
「あっ、弓ですか!」
孫次郎(長慶)は足軽を盾代わりにして、弓隊で攻撃をずっと継続していた。
陣を1つ突破する毎に矢の雨に政長の軍が少なくない被害を出していた。
「刻を稼ぐ為に、このような消極的な策を弄したのですね」
「そういうことだ。すでに左右に配置した兵は政長の軍に襲い掛かっている。しかも南北に配置した味方が駆けつけるまで、孫次郎(長慶)は待つだけでよい。完全な勝利が約束されている」
「見事です」
「御大将、それだけではありませんぞ」
「日向守、どういうことです」
「右翼の動きが鈍く、本隊の右に弓兵を多く配置している。つまり、そういうことです」
「窮鼠、猫を噛むか!」
「流石、元守護様はすぐにお判り頂けましたか」
「父上?」
「逃げ道を無くせば、一か八かで敵の大将を襲ってくるかもしれない。逃げ道があれば、その心配もない」
「伊賀守はこの戦で決着を付けるつもりがないようですな!」
「俺には判らん」
しばらく、政長の攻勢が続いたが、突如、政長は1,000人余りを引き連れて逃げ出した。
敵右翼と本隊の間を狙った左翼への一点突破だ。
孫次郎(長慶)は政長を通した後に追撃戦を行い、政長が逃げた。
大きく迂回すると、政長は西に逃げてゆく、そして、吉祥城に到着した頃には100人まで人数を減らしたという。
政長方は2,000人以上も討ち取られるという惨敗を喫したのであった。