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童子切異聞 <剣豪将軍 義輝伝> ~天下の剣、菊童丸でございます~  作者: 牛一/冬星明
第一章『俺は生まれながらにして将軍である』
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41.義統の上洛。

天文8年7月11日(1539年8月25日)、武田 義統(たけだ よしずみ)は、総勢2,500人を引き連れて出発し、沼田、朽木谷、明王院、花折峠と途中峠を越えて、八瀬、16日に京に入った。


加佐郡の戦や内乱で土地が荒廃し、食うに困っていた農民が意外と多かったらしく、傭兵と合わせて2,000人の面倒を見ることになった。


傭兵一人に三人の農民兵を部下として預けることになった。


軍事教官として、俺の家臣である別所 治定(べっしょ はるさだ)他100名が同行した。


「三カ月で一人前に育ててきます」


そう豪語してくれているらしい。


頼もしい。


武田が上洛するまでの京の動向はこんな感じだ。


前月(閏6月)13日に孫次郎(長慶)と(三好)政長が決裂すると、18日に孫次郎(長慶)が摂津国上郡に出陣した。


孫次郎(長慶)の兵がいなくなると、京の治安は悪化して、寺などを押し入る乱暴狼藉者が徘徊し、孫次郎(長慶)は乱暴狼藉を禁止する禁制を発した。


(三好)政長の評判は非常に悪くなり、寺々は(細川)晴元への不審を募らせた。


(閏6月)18日、京の不穏さを感じた(細川)晴元は高雄(山城国)に引き退くと、和泉上半国守護(細川)元常や摂津中嶋郡の分郡守護(細川)晴賢ら一族を呼び集めたと聞くと、父上(将軍義晴)は畠山義総や武田義統などの諸大名に出兵を命じたが誰も応じない。


出兵の要請が届くと、すぐに(伊勢)貞孝のおっさんに手紙を出して、兵糧のことを聞くが、あまりいい返事が返って来ない。


予想していたけどね!


新守護のあいさつを兼ねて準備が整い次第出発致しますと返答しておけと言っておいた。


なぜ、戦に勝った余勢で上洛しないのか?


父上が頼りにならないと嘆いていたそうだ。


どうも父上は兵站(へいたん)という言葉を知らないらしい。


小浜に兵糧が送られてくるのは早くても7月5日であり、余裕を見れば、10日とするしかなかった。


せっかく米相場で儲けたのに、全部を吐き出している。


俺の銭じゃなく、武田の銭だけどさ!


どんぐり粉のうどんを常用食に入れさせて、武田家にどんぐり粉を大量に買わせておいた。


余裕があれば、全部朽木で用意させたのに残念なことをした。


精粉水車と搗鉱(とうこう)(石灰を粉々に砕く)水車の増設が急務だ。


他にも朽木谷製の武具を買わせて、先の大戦の吐き出しを穴埋めして貯蓄が一万貫文に戻った。


武田様々だ!


でも、武田家は大赤字だから喜んでもいられない。


塩田の交渉で得た二万貫文が減ってゆく。


単純に計算すると、


人ひとりに1年間で1石の米が必要だ。


1石は1貫文に相当する。


軍事行動の場合はその倍の銭がかかると思えばいい。


今回は傭兵として雇っている。


銭を払わなければならない。


それだけで通常の3倍の銭が必要だ。


農兵とは違うのだよ。農兵とは!


しかも米の相場は高値を付けている。


総額で4倍に跳ね上がるのだ。


2,500人を1年間、京に駐留させると一万貫文が消えることになる。


しかも京では宴や祝い事で呼ばれることが多い。


その返礼などの費用を考えると、さらに倍になると考えればいい。


つまり、1年いれば、二万貫文が消える訳だ、


今回は三カ月を目安にしている。


5,000貫文。


これが今回の出兵の費用だ。


これに対して将軍家はお礼をしなければならない。


通常なら一万石相当の加増を許す。


銭のない幕府が出せる訳もない。


代わりに出せるのは官位くらいだ。


応仁の乱の折り、朝倉が寝返る褒美として越前守護を渡している。


三好孫次郎は騒動を起こした張本人だから褒美を与える必要がないが、他の守護や領主を呼び出せば、相応の褒美を請求される。


請求して何も出て来ないことを知っているから誰も要請に応じない。


そりゃ、そうだ!


やはり出兵してくれる守護はおらず、7月6日に(伊勢)貞孝のおっさんを晴元のもとに訪ねさせた。


こうして、時間を稼いでいる内に、16日に(武田)義統は京に入ったのだ。


俺達が田辺(舞鶴)で寺々を回り始めていた頃だ。


17日、(武田)信豊・義統親子は幕府に出頭し、父上に拝謁した。


「この忙しい折りに、親子で内輪揉めとは何たる不手際か!」

「申し訳ございません」

「治部少輔、よくも余を裏切ろうなどと考えたな」

「誠に恥ずかしい限りでございます」

「伊勢より聞き及んでおる。終生、菊童丸に仕えて、その罪を贖え」

「ははぁ」<大粒の汗を落としながら平伏した>

「余のこの腸が煮えくりかえる気持ちが判るか」

「若輩者ゆえに判りませぬ。申し訳ございません」

「よいか、余は将軍ぞ」


ぐちぐちと文句を言い続けた。

特に下げたくない頭を下げて、晴元のご機嫌を窺ったのが気に食わなかったのだ。

そう言っても、父上もそれ以上は厳しいことは言わない。


唯一、将軍の命に従って上洛してくれた守護だ。


目出度く、義統は若狭守護となった。

褒美は加佐郡の丹後分国守護の兼任を許したことだ。

これで義統は加佐郡の正式な所有者に変わった。


ただの追認だから安すぎる褒美だ。


だから、俺が農地改革を進めなければならない。


まずは5,000石相当の増産、最終的に12万石相当の石高アップまで持ってゆく。

交易を含めて、40万石相当の国力に育てたいものだ。

流通から武田を支配するのだ。

それで幕府と武田は表裏一体の関係になる。


まぁ、父上はそんな先の事は考えていないだろう。


管領(細川)晴元から幕府の実権を取り戻すことで頭が一杯だ。


「義統、そなたに所司代を命ずる」

「はぁ、ありがたきしあわせ。然れど、連れてきた兵も少なく、また、京は不慣れゆえに、補佐する者をお願いしとうございます」

「そうか、一人では無理か!」

「申し訳ございません」

「伊勢、補佐には誰がよい」

「先日、上洛しておりました。三好孫次郎伊賀守利長(長慶)がよろしいかと」

「うむ、すぐに手配せよ」


所司代というのは、京都の治安を行う侍所だ。


侍所の長官の所司が名誉職とするなら、その代理の所司代は実行部隊の長になる。


おそらく、(武田)義統が上洛すれば、父上が言ってくると思ったので、(伊勢)貞孝のおっさんと示し合わせて置いた。


その日の内に孫次郎(長慶)の元に上意が届けられると、再び、兵を京に上げた。



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― 新着の感想 ―
[良い点] 更新お疲れ様です。 [一言] 「有り難き幸せ」ではありますが、自領の統治を考えると 「有り難き不幸せ」な気もします(笑)。名誉と天秤に 掛けてどれだけ大きなお財布を持っているか次第ですね。…
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