36.いつの間にか期待の星になっていた。
上洛を見送ると俺達も塩田組と山門組に分かれた。
連れてきた300人をいつまでも遊ばせる訳にはいかない。
がははは、俺の言葉に黒丸(脇袋 範継)が下品に笑った。
「遊ばせる所か、皆、地獄を見ておりましたぞ。朽木谷の者が模擬戦だ! 連携だ! 日が昇ってから沈むまで休む間もなく、訓練、訓練と生傷が絶えませんでしたぞ」
「仕方ないであろう。あ奴らは朽木の精鋭だ。日々、野山を駆け回り、皆の生活の為に命を削ってがんばってくれた。朝・夕の短い訓練しかできず、一日中、訓練に費やせることが嬉しかったのであろう」
「せっかくの暇を訓練に費やすとは?」
「黒丸殿には判らんであろうが、我らは菊童丸様のお役に立つのが至上の喜びなのだ。技能を身に付ける良い機会なのだ。一刻たりとも無駄にできん」
「三郎様も忙しい合間に訓練に参加されておりましたな」
「当然だ。イザぁという時に兵を束ねらえねば、お役に立てんからな。だが、黒丸の差配も中々良かったぞ」
「ありがとうございます」
三朗(朽木 成綱、朽木の3男)は武田家の借財の整理を手伝いながら訓練にも参加していた。
訓練の指揮は彦二郎(前守護・武田 信豊)と長門守(朽木 藤綱、朽木の次男)が主に指揮し、義統(守護)も連れて行かれた。
戦好きの武将が多く、計算のできる文官が少なすぎる。
俺としては義統にも財政を覚えて欲しいのだが、今回は戦力外通知を出した。
商人から出された手代達の方が戦力になった。
興聖寺の寂雲和尚に頼んで、寺子屋の僧侶を数人こちらに回して貰うように手紙を出しておく。
小浜でも寺子屋を開くぞ。
場所は小浜商人の館を間借りする。
無償で読み書き・算学を教えて貰えるのだから、商人らにとってもありがたい話らしい。
丁稚や見習いを一緒に学ばせるつもりなのだろう。
条件は朽木谷と一緒だ。
昼飯を無償で提供するという条件で子供らを集める。
「それよりも菊童丸様、どうして私が『塩田組』に回されるのですか?」
「長門を俺の名代として三方に送って無事に進むと思うか?」
「……………」
長門守(朽木の次男)は武人として一流であったが、文官として才能がなかった。
向こうの領主や村長らに『塩田』の説明をして協力を求める。
長門守では協力ではなく、恫喝になってしまう。
「理不尽です」
「作業の事は茂介と捨に任せられるが、俺の名代はおまえしかおらんのだ」
「判りました。惟助、菊童丸様をよろしく頼むぞ」
「畏まりました」
こうして俺の護衛を残して、250人余りが三方の久々子に出発したのである。
俺は若狭の寺社を巡る。
借財の書き換えを使者に任せると拗れそうだからだ。
俺が直接に回るのは有力な寺社と貸し出し額の多い寺のみだが、武田領内をぐるりと一周しなければならない。
まずは国分寺からだ。
武家と同じで格式がうるさい。
◇◇◇
「源三郎殿は上洛しないにですか?」
「隠居がうろうろしていては邪魔であろう」
「では、何故こちらに?」
「家臣に取り立てて貰えると聞いたのですが違いましたか?」
「否とはいいませんが、源三郎殿は捉えられたのみ。死ぬまでこき使うという罰は必要ないでしょう」
「騒動を引き起こしたのは私です。責任を取らねば示しがつきません」
源三郎(山県 盛信)は前賀羅岳城主で太良庄を預かっていた。武田元信の四男で山県頼冬の元に養子に出された武田家の一門の一人だ。
将軍家を見限り、管領(細川 晴元)の話に乗る話に反対した為に捕えられ、軟禁され、源三郎を取り戻そうと騒ぎが起きた訳だ。
原因と言えば、原因か!
源三郎の件がなければ、沼田 光兼が俺に助けを求めることがなかった。
あそこが分水嶺であった。
「太良庄と言えば、大舘 尚氏の預かる松永荘で朽木谷が行っている農法を試しますので、村の衆によく見るように言っておいてくれ」
松永荘は太良庄の一部であり、我が家臣である大舘尚氏・晴光親子の所領でもある。
ここを起点で幕府所領の農地をすべて正条植に変えてゆく予定だ。
松永荘の村長らを招いたが、朽木谷の豊作ぶりに「是非にも」と逆に頼まれた。
やる気になって貰って何よりだ。
松永荘の農民には朽木谷に何度来て貰って農法を学んで貰う。
刈り入れまでに何組を呼べるかだな。
冬の間に指導員を送る。
農機具なども用意しておかないといけない。
「我が領地では秘伝を教えて貰えませんのか?」
「教えないのではなく、人手がおらん」
「では、責めて数村だけでも」
「そうですね。松永荘と一緒に学ばせるのはどうですか? ただ、始めての事は皆が不安がりますから一部のみでどうですか」
「相判った」
そういうと源三郎は手紙を書くと家臣に渡して城に届けさせた。
やることが早いおっさんであった。
◇◇◇
国分寺、羽賀寺、明通寺、萬徳寺、神宮寺、多田寺、妙楽寺と回ってゆき、圓照寺でやっと一息だ。
小浜周辺の寺は俺の活躍を聞いているので揉めることもなく、快く承知してくれた。
「すべて菊童丸様の申されるようにいたしましょう」
「では、領主や地主が行う事業は門徒の割合で負担をお願いします」
「よく考えられておられる。こちらに異存はございません」
「御協力、感謝致します」
「して、すでに横領している土地は御返しした方がよろしいでしょうか」
「いいえ、問題があれば、その都度お知らせし、相応の額にて買い取らせて頂きます」
「それはありがたい」
すべて順調!
否、順調過ぎる。
(伊勢)貞孝のおっさんのレクチャーでは、僧侶というのは意地汚く、強欲で、幕府や朝廷を見下している。
精々、利用しようとしか思っていないと、散々な悪態を聞いてきた。
そのイメージが払しょくされるほど、清々しい対応に俺は首を傾げた。
圓照寺は臨済宗南禅寺派であり、宗派は違うが興聖寺とも交流があったので、他の禅宗の寺に手紙を書いて貰えるという前向きの話を逆に言い出してきてくれた。
確かに、一向宗を除けば守護に成り代わろうという宗派は少ない。
ここまで協力的だと気味が悪い。
◇◇◇
宗派が違っても寺の交流は割と行われる。
太良庄の戦いは、太良庄にある寺の僧侶達が目撃していた。
寺を借りて宿舎とし、庭を借りて訓練をし、そして、山の麓で決戦が起こった。
最初から最後まで、菊童丸、つまり、俺が主導していたことを一部始終見ていた訳である。
それは小浜の寺々に伝わっていた。
負けた守護武田 信豊が俺を『足利尊氏公の再来』と称したことも伝わっている。
山の上から見ていれば、俺は朽木から連れてきた150名の手勢のみで、800名の守護信豊を翻弄し、四倍の敵を一蹴したように見えた。
しかも、商人衆を手玉にとって武田家を懐柔してしまった。
あの稚児は只者ならぬ。
そう評価されていた。
小浜は都と日本海を結ぶ町であり、平安の時代より朝廷と共に栄えてきた。
応仁の乱より幕府が衰退すると、小浜の衰退も顕著となっていた。
幕府の復興は小浜の復興に繋がる。
足利尊氏公の再来によって将軍家が復権すれば、小浜が再び栄えるという思いが俺への期待感になっているなんて知らなかった。
小浜の寺々は宗派を超えて、俺を買っていた訳だ。
そりゃ、協力的になる。
もっと早く気が付くべきであった。