落ちこぼれ
I氏は、高校生相手の学習塾を経営していた。その塾は徹底した厳しい指導で知られ、一部の父兄の間で絶大なる支持を集めていた。
I氏は生徒に対し、事あるごとにこう言っていた。
「いいか。T大以外は大学じゃない。T大に入ることイコール人生の成功者なんだ」
その独特の価値観を、講師たちにも共有させた。
「文科省は個性重視の教育なんて言っているが、クソくらえだ。勉強に個性はいらない。必要なのは暗記力と論理的な思考力だけだ。おまえたちはそれだけを生徒に教えればいい」
中にはそんな考え方に嫌気がさし、辞めていく講師もいた。だがI氏の塾は授業料が高くても人気があり、そのため給料がよかったので、多くの優秀な講師が集まっていた。結果、生徒の成績も上がり、毎年偏差値の高い大学に多くの生徒を送り込んでいた。
そんなある日、I氏が町を歩いていると、後ろから声を掛けられた。
「I先生じゃありませんか」
振り向くと、そこには二十代後半ぐらいの、パリッとしたスーツを着こなした青年がこちらを向いて立っていた。名前を呼ばれたものの、I氏は青年に見覚えはなかった。
そんな様子のI氏を見て、青年は頭をかきながら言った。
「忘れられても仕方ないかあ。ぼく、塾では劣等生だったから」
どうやらI氏の塾の出身者らしかった。過去の優等生の名前と顔なら、I氏はたいていは覚えている。だが、それ以外の者となると、I氏にとってはどうでもいい存在なのだ。
「お時間があるなら、ちょっとそこでお茶でもしていきませんか」
青年はI氏を誘った。I氏は思った。ふん。こんなやつの相手をしても時間の無駄だが、落ちこぼれのその後の人生を聞くのも一興かもしれないな。つき合ってやるか。
I氏は青年とともにすぐ近くにあった喫茶店に入った。
「ぼく、大学を卒業してから、コンピューターソフトのベンチャー企業を立ち上げましてね」
青年は注文したコーヒーをすすりながら話し出した。
「そこで作った学習用のソフトがけっこう評判がよくて、T大の研究室と共同開発することになったんですよ」
I氏は思わず顔を上げた。T大、という言葉に反応したのだ。そんなことにはかまわず、青年は続けた。
「そこで画期的なソフトを開発しましてね。先生も知ってるでしょ。今、学校や塾で広く使われている……」
青年はソフトの名前を口にした。それは、I氏の塾でも使われている、学習ソフトの中では性能も普及率も群を抜いている有名なものだった。
「あれをおまえが作ったのか……」
I氏は信じられない、といった表情で、青年の顔をまじまじと見つめた。
その時、青年の携帯電話の着信音が鳴った。
「ちょっと失礼……」
青年は、一言二言小声で話した後、「すぐに行きます」と言って電話を切った。
「すいません。急な呼び出しで、これからT大まで行かなければならなくなりました」
「まだ共同開発は続いているのか」
「いえ、そうではなく、ぼく今、T大で講師の仕事もしているんです」
「なんだってえ」
I氏は心底驚いた。落ちこぼれがT大の先生だなんて、とてもI氏には信じられなかったのだ。
「共同開発が縁で、T大から誘われたんですよ。じゃ、もう行かなきゃ。今日は久し振りに先生の顔を見られてよかったです」
そう言い残すと、青年は店を出て行った。
残されたI氏はひとり考え込んでいた。おれの塾の優等生が、かつての劣等生から教えられているのか。勉強してT大に入るって、何なんだ。そもそも、おれがこれまでみんなに強要してきたことって……。
I氏はそこでやめた。これ以上考えると、自分の人生を否定されるような結論に達するような気がしたからだ。I氏は家路についた。
翌日、I氏は例の学習ソフトを塾で使用するのを禁ずることを講師たちに告げた。当然、みんなは猛反対した。あれがないと効率のよい授業ができない、と。だが、I氏は押し切った。その結果、生徒たちの成績は徐々に落ちてゆき、T大をはじめとする有名大学への進学率も下がっていった。塾を支持していた父兄たちの信頼も失い、入塾希望者も激減した。講師たちも次々と辞めていった。そしてとうとうI氏の塾はつぶれてしまったのだった。