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浮遊症候群

作者: 綿柾澄香

 雨が上がり、雲も去って河川敷には少し赤みを帯びた空が広がっていた。


 土手の上の雨が濡らしたアスファルトを歩く。

 すると、向かいから一人の男が近付いてきた。


 三十代半ばくらいで、明るい茶色に染められた髪に、少し大きめのピアス。ギターケースを背負っている。典型的なバンドマン、といった風貌。あまりにテンプレートなその容姿に、思わず噴き出してしまいそうになる。

 そして近付いてくる彼は宙に浮いていた。


 浮遊症候群。


 決して珍しいものではない。

 地に足の着いていない、ふわふわとした考えを持っている人間は宙に浮いてしまうのだ。


 だから、大きな夢を抱く子供は宙に浮きやすい。

 大きな夢を抱いて、ふわふわと浮遊する子供たちは、見ていてとても微笑ましい。かつては僕も宇宙飛行士になるという夢を抱いて、宙に浮いていたこともある。今となってはいい思い出だ。


 反面、いい歳をした大人がふわふわと浮遊していると、大抵白い目で見られる。当然だろう。いつまでも夢見がちな大人なんて、敬遠されてしまうものだ。


 向かいからやってくる男はきっと、バンドマンとしての成功を夢見ているのだろう。そんな夢が許されるのは、せいぜい高校生か、よくて大学生までだ。オジサンになってもまだそんな夢を抱き続けているだなんて、よっぽどの大物か、現実が見えていない大バカだ。


 大人になったのならば、きちんと地に足を着けて歩んでいくべきなのだ。


「恥ずかしくないんですか?」


 と、声が聞こえた。

 土手の下を歩いていた二人組の女性だった。

 それを聞いて、男はその二人組の方へと目を向ける。


「あ? それ、俺のこと?」


「当たり前でしょ。アンタ意外に誰がいるってのよ」


 と、二人は笑う。


「お前ら、今まで浮遊したことねえのかよ」


「当たり前でしょう。浮遊するような夢見がちな子供なんて、年々減ってきているのよ。確実、堅実に未来を見据える方が賢いんだから、そんなのは当然でしょう。それなのに、そんな歳になってまでまだ浮いてるなんて、信じらんない」


 その認識は正しい。

 浮遊する人は年々減ってきている。きっと、そういう社会になってきているのだ。多くの情報が手に入るようになった現代。多くのものが見えてしまうからこそ、自らの限界にも気付きやすくなってしまっている。そして、その限界の先を目指す勇気を折られてしまうのだ。無謀な未来を夢見る土壌が失われてきている。


「は。お前ら、可哀想だな」


 と、男は笑った。二人組はなぜ自分たちが笑われたのか、わからないようだった。


「浮遊する快感を知らねえのかよ。こんなにも気持ちいのに。勿体ねえなあ」


 自分たちが馬鹿にされているのだと、ようやく気付いた二人は、怒りを露にする。

 彼女たちは口々に彼の悪口を言い放つものの、意にも介さず、男は笑う。


 彼が言っていることはなんとなくわかる。僕もかつて宙を浮遊していたことがあったから。ふわふわと漂うように浮かぶのは、楽しくて、とても心地の良いものだった。あの時のことを最悪の時期だったとは思わない。むしろ、あの頃に自分があったから、今の自分があるのだと思う。


「今まで一度も宙に浮くことなく、ただ堅実に自分に出来ることしかしてこなかったんだろ? 別にそれが悪いとは思わねえよ。その生き方も、正しいとは思う。けどな、やっぱ勿体ねえよ。人生で一回くらいはバカな夢を見てみればいいんだよ。いいか、いつだって世界を動かしたり、変えたりするのは宙に浮かぶようなバカばっかりなんだ。俺は、俺の歌で世界を変えたい。ああ、そうさ。正真正銘のバカさ。自分でもわかってる。でも、こんなバカが世の中からいなくなったら、きっと世界はつまんねえと思うよ」


 そう言って、彼はさらに高く宙へ浮かぶ。楽しそうに、まるで踊るように。

 二人組は呆れたようにその場を去る。


 あの二人にこの人の言葉は伝わってはいないのだろう。

 けれども、その言葉は僕に届いた。


 かつて宇宙飛行士を目指し、浮遊して、周りからバカにされていた日々の記憶が鮮明に浮かんでくる。僕はあの頃、確かに大きな夢を見ていた。


 空高く浮かぶ彼の表情は、さっきの二人の女性たちなんかよりもよっぽど生き生きしている。きっと、世間の目から見れば、彼は大バカなのだろう。けれども、バカがいなければ、この世界はつまらない。


 そんな彼を見てしまったせいで、あの頃の思い出に誘われたのか、なんとなく久し振りにスマホからJAXAのサイトを開いてみた。

 すると、そのページの最上部に大きく現れた「宇宙飛行士募集」の文字。思わず口元が綻んでしまう。


 このタイミングでたまたま見つけた、かつての夢への入り口。その扉が開かれている。これは運命か。

 いや、きっと偶然だろう。


 こんなこともあるさ。

 と、僕は一歩踏み出す。


 その右足は空中を踏み込み、気が付けば身体は宙に浮いていた。

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