アイデンティティと理髪店の鋏
「今日はどんな感じで?」
「そうですね。天然パーマを活かして米津玄師みたいな髪型にしたいです」
「米津玄師……?」
「えっと、アーティストにそういう人が居て……とりあえず髪の毛は伸ばしていきたいのでボリュームを減らす感じで」
「えーっと……ああ、なるほどこういう感じですね。分かりました。参考程度に今まではどんな感じでした?」
「二、八のツーブロックにしてオールバックにしてました」
「ほう、となると今回はイメチェンですか?」
「そうですね」
そんな会話を終えると、ヘアスタイリストは僕の髪の毛にハサミを入れてバッサバッサと切っていく。僕は髪を切られている時はスマホなどを見ずに、目を閉じて考えことをしながらゆったりと時間が過ぎるのを感じるのが好きだ。
ズボラな僕は髪の毛を三ヶ月くらいの周期で切るので、膝の上に落ちた髪の毛の束に重みを感じる。ザクリと切られ、ボトンと落ちる。そんな感覚を堪能していると、ふと不思議なことを考えた。
『僕は今、自分の一部を失っているんじゃないか?』
つい先ほどまであった自分の髪の毛が膝の上や地面へ落ちる。自分の物が、自分から分離されゴミとして捨てられる。つまり今、この瞬間自分の外見的アイデンティティが剥奪されているのではないかと僕は思ったのだ。例えば内面のアイデンティティをほかの人に伝える際、僕は「小説が書くのが好き」と定型的に言う。それは同時に「ゲーム好き」や「カフェイン中毒」の自分を黙殺して、他人の中に自分の取捨選択した理想像を作り上げていると言えるのではないか。すると床の上のアイデンティティ(だったもの)は自分の中で否定されたものだろう。
自分を否定されたものは、果たして僕のアイデンティティ形成に意味なかったと言えるのだろうか。それには若干の疑問がある。短い間とはいえ、僕を形成していたものだ。全くの意味がなかったわけではない。ではなんだったのかと考えた時、森羅万象の破壊と創造と同義なのではないかという考えが浮かんだ。難しい話ではない。髪の毛を切られたことによって「ボサボサ髪の毛の僕」から「米津の髪に寄せた僕」に変わっただけなのだ。そこへの変貌に、前者の僕のアイデンティティを形成した余分な髪の毛が排除され、後者の自分が創造されたのだ。だからアイデンティティの意味無意味の物というより、その変化の経緯の際に取り除かれただけだったのだ。
同時に僕はこのアイデンティティが自分以外の人間によって形成されていることに強い興味を持った。アイデンティティは自分で作っているのではなく、社会によって作られている側面もあることに気づいたのだ。例えば、ユニクロでミッキーのティーシャツを買って着たら、自分がどう思っていようが関わらず『ディズニー好き』という個性が生まれる。自分で作っているわけではないアイデンティティは本当にアイデンティティなのか。そんな疑問が生まれた。よく考えれば、服装・髪型・言動・行動・言語などは全部社会によって形成されたものだ。一体アイデンティティとはどこまでのもの自分なのだ? そんなことを考えながら、シャンプーされていた。
人によってはアイデンティティというものに答えを持っているのだろう。だけど、この時の僕は自分と社会の境界線が消えたように感じた。そして、ドライヤーでなびく髪のように自分の在り方が動いているようだ。
「こんな感じでいかがですか?」
「いいですね」
自分らしさとはなんだろう? 切り終えた髪の毛が頭に乗っている感覚のまま、僕は理髪店から出た。