貴方をMasterと呼ぶ日まで
イラスト:まうすさま ( http://12021.mitemin.net/ )
指定ジャンル・必須要素:なし
→→ ジャンル:(主人公的には)恋愛(になる予定の何か)
この作品は3,855字となっております。
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「それで、うちで働きたいと?」
耳にさらりと入るも、じわりと胸の奥まで触れるような声が、広い部屋に響く。
意識が絡め取られて宙に浮くような感覚がして、それを声の主の眼光に引き戻された。
「あ……はい。是非、ブラックフォード様の元で働かせてはいただけないでしょうか?」
声が上ずりそうになるのを抑えながら、言葉を出し切る。できるだけ美しく、手元に置きたくなるような淑女に見えるよう努めて。
私の申し出に目を少し細めただけで、かの御方は初めと同じくパイプの煙を燻らせている。長い脚を投げ出すように組んでいるその姿も、知性と品格と、わずかな色香を隠しきれずにいた。
ルロイ=ブラックフォード。
この御方について、私が知っているのは名前だけ。加えるなら、これまで出逢ったことのないような、そして一度出逢えば焦がれて止まなくなるような、紳士であることだけだった。
私のような田舎娘が気安く近付いてはいけない存在であることは、あの時すでに肌で感じ取っていた。
だけど。だけどどうしても、もう一度近付きたくて堪らなかった。その瞳に映りたくて仕方がなかった。
思い続けたために目の下に飼い始めた猛獣を初めての化粧で必死に隠して、この思いを果たそうとここに座っている。もちろん無理を承知で、だけど押し通すつもりで。
ルロイ様――この呼び方をお許しいただいた――は、私の持ち込んだ書類を指で摘まむと一瞥して、すぐに緻密な彫刻の施された重厚なテープルの上に置いてしまった。
その書類は三日三晩書いては消してを繰り返して今朝やっと書き上げた、いかにルロイ様の元で働きたいかを綴ったものだ。
私には、自分がどれほど働き者であるかを示せるものが、何もない。
父と兄が耕す畑で、母と共に種を撒き、収穫をし、村中を歩いて野菜を手売りする。その生活しか私は知らない。
だからここで働きたいと言っても、どんな仕事をどの程度こなせるかは分からない。けれど家事全般は当たり前にこなしてきた。身の回りのお世話くらいならできないことはないはずだ。
でも、そう綴るたった一枚の紙面は置かれてしまった。読むことさえしてもらえないのだろうか。
私の瞳を見返して、唇の端を持ち上げる。目尻に浮かぶ皺がその笑みに柔和さを注いだ。
「サラ、といったかな?」
名前を呼ばれただけで、背筋を撫でられるような奇妙な感覚に陥る。ピン、と新品の爪先が並ぶ。頷くことで精一杯だ。
「愛らしいお嬢さんにぴったりの名だ」
そう言ってルロイ様は一層笑みを深めるけれど、私はどうしても納得がいかなかった。
「……恐れ入りますが、私はもうお嬢さんと呼ばれるような年齢ではありません」
「おや、それは失礼した。あんまり素朴でお人形のようだと思ったものだから」
気を悪くしないでおくれ、とそれこそ少女をあやすような声に、妙な恥ずかしさが残った。
こういうところが子供だと言われてしまうのだ。もう二十二、村では若い子に行き遅れだなんて言われている。恋という抽象的な感情も含めて、周囲の子よりも初心だったことは認めよう。でももう、二十二なのだ。諸々の準備は整っていると言っていい。
ここには、いずれ嫁ぐつもりで来た。もちろん、まだ私の思いの中だけで。父親よりも祖父の年齢の方が近そうだという点は、愛の前ではとても無力だ。
ところでサラ、とまた呼び掛けられて、今度は落ち着いて返事をした。
「その後、もう心配はないのかな?」
何を言われているのか、すぐには分からなかった。仕事の話を逸らされたことに気付いて、それから答えに思い至った。
「お気遣いいただき恐れ入ります。
おばあ……祖母は、お蔭様であれから順調に回復しております。ルロイ様にお会いした次の日に、病院から手術の用意ができると連絡が入り、無事手術も成功致しました」
「そうかい、それは良かった」
「お金が払えないから無理だと諦めていたのですが、どういう訳か無償で手術をしていただけて。正直、何が何だか……」
ルロイ様が小さく首を振る。
「世の中の良いことの理由など、深く考える必要はない。ただ良かったと思っていればいいと、私は思うよ」
そう言われると、そうなのかもしれないと思えてくる。同時に、病院の前でルロイ様にぶつかった無礼の理由は、とことん突き詰めた方が良さそうだと思った。
「それで、うちで働きたいとのことだが……」
意外にも彼――心の内ではそう呼ぶと今決めた――の方から、仕事について切り出された。やはりこのような山奥にひっそりと住んでいても紳士は紳士だ。田舎娘の言うことを無下にしないでいてくれる。
でも、その顔はどうも渋く歪められている。
「君のような愛らしいお嬢さん、いや失礼、麗しい淑女が私の傍で働いてくれるとは、とても魅力的な申し出なのだが」
「私では力不足でしょうか?」
「いいや、そうではないよ。ただうちには長く仕えてくれている執事がいてね、全てのことは彼一人でやってしまえるんだよ。だから人手は足りているんだ」
執事が一人で? この広そうな屋敷にたった二人しかいないと言うの?
それはいいとしても、それならば手伝えることは沢山ありそうなのに。
「執事様がお一人で、全部屋のお掃除などもされるのですか?」
「ああ」
「それでは執事様はお休みする時間もなさそうですね……。私、雇っていただければ、それなりの働きはできると自負しております」
胸を張って答えたものの、苦笑を返されるだけだった。そんな表情にでさえ胸を掴まれるけれど、今は浮ついている場合ではない。この際住み込みたいとは言わない、通いでも構わないから彼の傍にいたい。
まるで初恋に翻弄される少女のようだと考えて、乱れていないスカートの膝をはたいた。
そこにノックの音が響く。彼が促すと、ティーワゴンを押して一人の男性が現れた。この男が、間違いなくここの執事だ。
「紅茶をお持ちしました」
執事は優雅な動きで紅茶をカップに注いでいる。髪は輝く金髪、肌は陶器のような白さ。すらりと長い手足が動きに美しさを加えている。
黒髪でそばかすの浮かぶ肌、それに小柄な私とは何もかもが正反対の男だ。有能さが全身から滲み出ていた。
「サラ、紹介しよう。今話した私の執事、ヘンリックだ」
執事――ヘンリックは私の前にカップを置くと、恭しくお辞儀をした。そうして主人の元に向かう。
旦那様、と声をかけて立ったまま彼の耳元に唇を寄せる。彼の方もごく自然に首を傾けた。
静かな部屋にヘンリックのかすかな囁きが、ふわふわとした音で文字にならずに私のところまで届く。正面に座っていなければ、耳にキスをしていると見間違えてもおかしくなかった。
話しを終えたらしいヘンリックがわずか顔を引くと、彼はヘンリックの方を見やってとろけるような笑みを浮かべた。
「頼んだぞ」
「畏まりました」
……都会では当たり前なのかしら。男性同士が、しかも主従関係にある者があんな至近距離で会話を交わすなんて。
胸が煩く鳴っていた。そこにある感情を考えてみれば、嫉妬と羨望と、そして少しの好奇心と期待だった。
二人の間には、何かこう、ただならぬ関係があるのかもしれない。私を雇ってくれないのはそのせい?
違うと思いたい。でも、どうだろう。そこに私が入る隙はある?
「サラ」
「は、はい」
「悪いが、外出の用ができてしまった」
片方の眉を器用に斜めに引き上げて、申し訳なさそうな顔をする。
雇わないから田舎へ戻れ、ときっとそう言うのね。そう思った私の予想を、彼は良い方に裏切ってくれた。
「ここでお別れするのは簡単だが、折角わざわざ私の処へ赴いてくれたことだ。見たところ君は意思の強い女性のようだ、私ももう少し君と話をしたい」
顔に出ていたかしら、雇ってもらえるまで頑として動かないつもりでいることが?
多少恥ずかしくはあるものの、彼の方も私と話をしたいと言ってくれていることに関しては、逃していいようなチャンスではない。にっこりと微笑んでみた。
「明日の昼には帰ってくる予定だ。君さえ良ければ、今晩はここに泊まるといい。そのバッグには諸々の準備が整っているのだろう?」
からかうように指さされた傍らのバッグをそっと引き寄せた。母が長く使っていたお下がりのバッグは手に優しく馴染んで、少しだけ胸が痛んだ。
「ええと、宜しいのですか?」
「勿論。行動派の女性は好ましい。
ヘンリックを置いていく、食事等は彼が責任をもって世話するからその辺りは心配せず、寛いでいるといい」
彼が立ち上がると、すかさずヘンリックがコートを広げた。先程まで持っていなかったはずなのに、そのコートがどこから出てきたのかはさっぱり分からなかった。
「ありがとうございます。あの、お仕事ですか?」
コートを着る姿も美しい彼に見惚れながら問うと、そうだ、と短く答えた。そして何かの合図のようにヘンリックと見合った。
……彼の隣を、私の居場所にしたい。
「ルロイ様は、どういったお仕事を?」
私がそう尋ねると、扉へ向かいかけた彼がゆっくりと振り返った。
その目は厳しく、気高く、獰猛な鷹を思わせる。右目はレンズが光ってよく見えない。ただ、幾らかの敵意に似た何かと、艶めかしい淫靡さが、私の瞳のずっと奥まで真っ直ぐに射貫いた。
「君にはまだ早いよ、little little lady?」
扉がバタンと閉まり、広い部屋に一人、取り残される。
深い息を吐く。息を止めてしまっていたらしい、慌てて息を整えた。
でもこれで、決意した。
「私、諦めません。貴方を旦那様と呼ぶ日まで」
まうすさま、ありがとうございました。
長編小説のプロローグ的なつもりで書いてみました。
謎に包まれた紳士の正体とか、ちょっと妖しげな二人の関係とか、そこに何とか入り込もうとする耳年増系肉食女子(笑)とか。
書いたらとっても楽しそう。でも今のところ私の頭ではこれが限界……。
誰か書いてくれたら読むのに、なんて。
色気のあるダンディーなおじさま紳士、いいなぁ……。




