魔女と危険なオトコたち
ジョン・スミス──つまり身元不明の死人の墓が暴かれるのは、今月に入ってから三度目になる。牧師は放っておけと言うのに、モーガンは気になってならないようだ。
夜行性の友人には付き合っていられない。バレットはアクビを漏らした。
そばかすだらけの鼻で吸い込んだ冬の空気に腐臭は感じない。
今月墓泥棒が多かったのは、死体が腐りにくい季節だからだろうか。
廊下の窓から見上げた夜空に月はない。白い息を吐いて、鼻の利く親友に忠告する。
「今日は新月だよ、やめとけば?」
十二歳のふたりの少年は、同じ孤児院で兄弟のように育った。
黄色いトウモロコシ頭のバレットと黒髪のモーガン。外見も性格もまるで違う。
モーガンは唇を尖らせた。
「そんなの関係ねぇし。てかお前、吸血鬼なのに夜が早いんだよ」
ふたりは廊下にいるけれど、すぐ横の部屋では年少の仲間たちが眠っている。
大声を出すなと視線で伝えて、バレットは小声で反論した。
「僕はダンピール。父さんは人間だよ。牧師さんがいつも言ってるだろ? ハロウィンタウンは吸血鬼と人狼の町だけど、人間の客がいなけりゃ成り立たない。人間らしい暮らしを心がけろ、って」
「ケインズさんは人狼の誇りを忘れるなって言うぜ?」
「あのさ、誇りを忘れないことと必要ないことに首を突っ込むのはべつじゃない?」
「で、でも縄張りを荒らされて黙ってんのは男じゃねぇし!」
「モーガンは派手に目立って、黒の狼団に入れてもらいたいだけだろ」
「そうだよ。悪いか? レモネードやクッキー売ったって全然稼げねぇじゃん。俺は黒の狼団に入ってボロ儲けしてやるんだ。そんで……」
ハロウィンタウンはふたつのアウトロー集団に支配されている。
人狼のケインズが率いる黒の狼団と吸血鬼のワイズが率いる白の霧団だ。
大通りを挟んで東西に広がる歓楽街をそれぞれの縄張りとして睨み合っている。
しかし町の奥、教会と孤児院のある住宅地は休戦地域だ。
ケインズもワイズも自分の身内は大切にしていた。孤児院で暮らす人狼やダンピールの子どもたちが喰うに困ったことはない。
金色の瞳をバレットから逸らし、呟くようにモーガンが言う。
「お前は頭がいいんだから」
喰うに困ったことはないが、進学となると難しい。
旧大陸から独立して百年にもならない新しい国では、人間だって将来が見えなかった。
ここにいれば食べていくことはできるだろう。
近くにあった金鉱が廃坑となった今も、ハロウィンタウンの賭場や劇場には多くの人間が訪れる。もちろん裏通りに建ち並んだ娼館にもだ。
バレットの母親は娼婦で、仲間の多いこの町へ子どもを産みに来た。
血を得るための仕事で客に本気になって身籠った女吸血鬼は、吸血で仲間を増やせるがゆえに衰えた生殖能力を命と引き換えに発揮して息子を産み灰と化した。小さな瓶に遺された灰からは魔力のかけらも感じない。どんなに血を注いでも彼女は蘇らないのだ。
バレットは父が人間だったとしか知らない。
吸血鬼であることは明かしたくせに、子どもを産んだら灰になるのを告げられなくて、母は父から逃げた。それでもいつか勉強して新聞に載るような立派な存在になれたら、母に似たこの顔を見て父が名乗り出てくれるのではないかと期待している。
モーガンの母親は人間の娼婦で、やはりべつの町に住んでいた。
知らずに人狼の客を取り、変身した息子を悪魔と呼んで窓から捨てた。
獣の姿で路地をさ迷っていた子どもは、噂を聞いて調べに来たケインズに拾われてハロウィンタウンの孤児院に入った。彼の同族の群れへの憧れは強い。
兄弟のように育った親友なのは今だけだ。
孤児院を出たら、ふたりの運命は別れてしまう。
「……モーガン、今夜でも変身できるの?」
新月の夜の弱い魔力は成長過程の幼い人狼を支えてくれるのだろうか。
おう、と叫んで黒髪の少年は耳を伸ばした。
「そっか。じゃあ墓泥棒なんかイチコロだね」
「当たり前だろ」
「確かにこんなに墓泥棒が続くのはおかしいし、協力してあげてもいいよ」
「よし、行くぞ」
親友がパジャマを脱ぎ捨てて変身する間に、バレットは普段封じている吸血鬼の本能を呼び覚ました。たちまち眠気が消え失せ、視界が鮮明になる。牙も伸びたようだ。
金色の瞳の仔狼と赤目の半吸血鬼は孤児院を出て、隣接する教会の裏へと向かった。
月のない新月の夜、死に覆われた墓場の空気は重い。
暴いた墓を埋め直している男の背中を見つけ、明日は牧師さんたちに怒られるな、とバレットは思った。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
1
「ふわあ」
今年ひとり立ちしたばかりの新米魔女、二十歳のアビゲイル・アスキスはアクビをしながら新聞を広げた。冬の朝の冷たい空気が寝ぼけた体に心地良い。
テーブルの上では淹れたてのお茶が湯気を上げていた。
琥珀色の液体を覗き込めば、緑の瞳に赤い髪の娘が映っている。
旧大陸からの独立後、新大陸ではコーヒー派が主流になったが、魔力を高めるのはやっぱりお茶やハーブだ。幸い高価な輸入茶葉を購入しなくても、アビゲイルの店には売るほどハーブがあった。
気持ちを落ち着かせるハーブ、逆に興奮させるハーブ、毒を持つもの解毒するもの傷を癒すもの、さまざまなハーブを裏庭に植えている。母ほどの緑の指を持たないアビゲイルは、枯らすまいと日々四苦八苦していた。
明日は教会で女子会がある。孫やひ孫がいても心は乙女のみなさんのために、今夜は湿布薬を作っておこう、などと思いながら紙上の文字を追う。
有名な私立探偵ジョン・スミス氏の行方は未だわからず、彼を雇った新大陸一の鉄道会社の社長バーナード氏がかけた懸賞金は上がる一方、そしてバーナード氏の病状も悪化の一途──ほかに大した事件がないらしく、数日置きの列車便でまとめて届けられた新聞の記事はこればかりだった。
何枚も同じ写真を眺めていると、そのうち空で似顔絵を描けそうな気がしてくる。探偵のジョン・スミス氏は秘密任務などもありそうなのに、顔を明かされて良かったのだろうか。変装の名人なら大丈夫だろうけど。
……鉄道、か。
魔性を打ち砕く聖なる銀に限らず、基本的な金属はすべて魔の敵だ。
魔力を歪め捻じ曲げる。
アビゲイルは胸に垂らした水晶の首飾りを握り締めた。
政府は旧大陸の支配から逃れるため魔性と密約を結んだ。しかしそれは、あくまで秘密の話、一般人にとっては魔女も人狼も吸血鬼も伝説の存在のままだ。
母の言葉を思い出す。
最も怖ろしいのは熱に浮かされた無辜の民。
旧大陸にいたころ、トネリコの森に棲んでいたアビゲイルの先祖の多くは善き隣人たちに命を奪われた。魔法を嫌った帝国は、その広大な領土に張り巡らせた金属の水路の毒で滅びたようなものなのに、魔法を嫌う人々は新しい大陸にも金属の道を走らせる。
アビゲイルだって金属の鍋や薬缶を使う。
でも金属も魔力もほどほどが一番だ。
魔女の資格を得たとき作り出した水晶がなかなか成長しないのは、派遣されたこの町に鉄道の駅があるからに違いないと八つ当たりした後、テーブルを片付ける。
カップに残った茶葉は大きな変化を意味する流れ星を形作っていた。
次は昔から悩みの種、硬いくせ毛の処理だ。ボサボサの赤毛をピンで留めてネットに押し込み、アビゲイルは住宅とつながった店舗へと出勤した。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
大陸を横切る鉄道の駅ができたからといって、一気に栄えるわけではない。
列車が停まるのも数日置きだ。
農業中心の小さな町はのん気そのもので、午前中の客は花嫁修業中のお嬢さんがふたりきり。とっくに射止めている恋人の心をさらに独占するためのお守りを買いに来た。
後で文句を言われないとわかっている商品を売るのは気が楽だ。
アビゲイルが未熟なせいもあるけれど、惚れ薬なんて効くものではない。
……というか。
ふたりっきりで向かい合って、惚れ薬の入った熱いお茶を飲んでくれる相手なら、もうすでに惚れ薬は必要ないだろう。ふたりっきりになれなくてお菓子に混ぜて食べさせたのに効かないと返金を要求されることもあるものの、用法を守らなければ効力が発揮できないのは普通の薬も魔法薬も変わりない。
カウンターに肘をつき、目を閉じる。
自家製の茶葉とちょっとしたお守りを売る、朝から夕方まで開く店だ。
狭い店内には一揃いのテーブルと椅子を置いていて、真面目な相談を受けたり手製のお菓子をハーブティーと一緒に振る舞ったりするのに使っている。
恋の熱に浮かされた客にさえ本物と思われていない、役立たずの魔女のお城だ。
チリリとこめかみが痛み、アビゲイルは眉間に皺を寄せた。
強引に押し入る鉄の塊が町に流れる魔力を歪める。
今日は駅に列車が停まる日だ。
小さくのん気な町にも憎悪があり、嫉妬や悲しみがある。
歪み捻じ曲げられた魔力は澱み、人々の邪心を引き寄せ増幅してしまう。
町や村、島や大陸は人体に似ていて、血管の代わりに魔力の脈が流れている。澱んだ魔力は本来の流れを妨げ、災いを引き起こす。
深呼吸して、アビゲイルは胸に提げた水晶の首飾りを握り締めた。
母やほかの魔女なら吐息一つで町の魔力を整えられるだろう。
彼女たちの水晶は心の安定に伴って丸く満ち、強い魔力を蓄えている。
未熟な自分がもどかしくて泣きたくなることもあるけれど、この町の魔女は自分だ。
この小さな町がこれからものん気に過ごせるよう、自分が魔力を整える。
「落ち着いて」
呟いて月を思う。
白く夜空で輝く魔力の源。善悪に関係なく力を与える。
昨夜は新月で月の魔力は弱まっていたが、絶対に消え失せたりはしない。水晶が魔女と魔性にしか聞こえない月光の旋律を奏で始めたとき、アビゲイルは立ち上がった。
「なに?」
激しく荒れ狂う魔力の塊が近づいてくる。
これまでは列車の存在に意識が集中していて気づかなかった。
列車が発車した今、鉄が歪めた魔力を吹き飛ばしながら移動している。
金属よりタチが悪いかもしれない。
……魔性?
人狼や吸血鬼は魔女を嫌う。
人間にも魔性にも属さない中途半端な存在が、魔性を抑え土地の魔力を整える便利な道具として政府に利用されているせいだ。とはいえ田舎の魔女がいきなり襲われるほど、魔女の組合と魔性の仲が悪化しているとは聞いていない。
ベルが鳴り、店の扉が開かれた。長身の男が立っている。
彼が乱暴に扉を閉めると、外にかけた看板が裏返り勝手に閉店を告げた。
年ごろは二十代半ば、初めて見る顔だ。
硬そうな黒髪を油で撫で付けて形の良い額を出していた。
鼻が高く彫りの深い顔立ちには野性味がある。
若い娘は敬遠するかもしれないが、金の匂いに敏感な大人の女には好まれるだろう。
チョコレート色の上着に青いストライプのシャツ、黒いネクタイ。仕立てが良く高級そうな服だ。本人も派手で印象的な色合いに負けない迫力がある。
危険な雰囲気の男が金色の瞳で睨みつけてきた。
──人狼だ。
どんなに洒落込んでいても獣の匂いがする。なにより魔女の端くれとして、彼が発する魔力の強さは見逃せなかった。新月の翌日にこれだけの魔力を滾らせているとは普通ではない。
魔力は感情に左右される。彼の心を揺さぶるなにかがあったのだ。
「最悪だな」
男は低い声で吐き捨てた。
「魔女ってのはこんなでき損ないしかいねぇのかよ」
「うっ……」
胸の水晶はアビゲイルの驚きに反応して沈黙していた。
優れた魔女が魔法を発動させていたら、眼前の魔性と鉄の塊に歪められた町の魔力を整えるため歌い続けている。
「はあーあ。燃え盛ってんのは髪の毛だけか。そんな魔力でなにができんだ?」
男は両手を広げて顔を伏せ、大仰な溜息をついた。
額に落ちた前髪をポケットから出した櫛で直しながら、黄金の光でアビゲイルを射る。
「けど、ほかにいねぇんだよな」
言って黒いネクタイをほどき、床に叩きつけた。
靴下と革の靴はとっくに転がっている。
チョコレート色の上着を脱ぐと大きな手に鋭い爪が伸びた。鼻と一緒に突き出し始めた口元を残念そうに歪め、ストライプのシャツを破り捨てる。
厚い胸板は毛皮に覆われ、すでに人間のものではない。ズボンが落ちた後の下半身も毛むくじゃらになっていて、アビゲイルは妙なものを見なくて済んだことに安堵した。
……って!
人狼の変身が珍しいからといって、のん気に眺めている場合ではなかった。
精いっぱい虚勢を張って尋ねる。
「わ、わたしをどうするつもりなの?」
声が震えるのはいたしかたない。
「うっせぇ。説明してる時間なんぞねぇよ。無駄に騒ぎを起こさないためとはいえ、あんな鉄の塊に乗らせやがって」
四つ足を店の床に立て、黒い巨狼が唸る。人間のときの倍の大きさだ。
「ひっ」
アビゲイルは思わずカウンターの下に座り込んだ。
「んなとこに隠れたくれぇで狼から逃げられると思ってんのか、赤ずきん」
カウンターを飛び越えた狼が背後に降り立つ。
「きゃあ」
アビゲイルの襟をくわえて背中に乗せ、狼は店を飛び出た。
どうしようもない。振り落とされないよう黒い毛皮にしがみつく。
町外れにある店の周りに人影はなかった。獣はそのまま荒野を走っていく。
新米魔女は自分と彼に錯視の魔法をかけることしかできない。
魔力の少ない人間は、魔性を見ても常識の範疇に当てはめて無理にでも納得しようとする性質がある。錯視の魔法はそれを後押しするだけの簡単な魔法だ。
乗り手も知らない目的地まで疾走する巨大な狼を黒い馬と見間違えた人々は、銀の弾丸を撃ち込んだりしなかった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
2
人狼に運ばれてきた町には吸血鬼もいた。
風と魔性の魔力に煽られてピンとネットを失い、ボサボサになった赤毛をまとめながらアビゲイルは胸の水晶に意識を集中させた。
──ハロウィンタウン。
アビゲイルの町に近いが鉄道の沿線にはない、人狼と吸血鬼が支配する町だ。
土地自体にも強い魔力があるため、政府も魔女の組合も魔女を置いて魔力を整えさせるよう勧告しているが、歓楽街で稼いだ資金力で権力者に手を回し拒み続けている。
魔力の強い魔性の二大勢力がいるにもかかわらず、町の魔力は安定していた。
弱い魔力を制御できず邪心を撒き散らす人間がひとときの客でしかないからだろうか。
「ケインズ、君はちゃんと彼女に許可を取ったのか?」
眼鏡の吸血鬼に言われて、黒い狼が吠える。
「モーガンの命がかかってるときに礼儀もクソもねぇだろが」
銀髪に赤目の吸血鬼の見た目は、狼が人間だったときと同じ二十代半ばに見えた。
身長だけなら狼より高い吸血鬼の華奢な体と冷たい美貌は、黒いマントとフードで覆われている。窓がカーテンで塞がれていても漏れ入る日光のせいか、抜けるような白い肌は軽く炎症を起こしていた。
連れて来られたのは町の奥にある、教会に隣接した孤児院の一室だ。
眼前の子ども用二段ベッドの下段には黒髪の少年が横たわっている。
少年と言い切っていいのかはわからない。
人狼らしき彼は人間でも狼でもない異形の半獣の姿だった。苦悶の表情で瞼を閉じて体をくねらせている。着ているのは褪せたパジャマのズボンだけで、痩せた胸に開いた小さな穴から血が流れ続けていた。かけられた毛布が黒く染まっている。
開け放された扉の向こう、廊下から子どもたちが覗くのを年長らしき黄色いトウモロコシ頭の少年が止めていた。褐色の瞳が心配そうに見つめてくる。
アビゲイルは髪をまとめるのを諦め、水晶の首飾りを片手で握った。
ベッドに近寄り、もう一方の手を少年にかざす。
体内を流れる魔力が歪んでいた。
「銀の弾丸で撃たれたのね」
捻じ曲げられた回復力が邪魔をして、変身すら解けない状態だ。
銃に撃たれた上、成長途中の体での長時間の変身は負担が大き過ぎる。
「いつ?」
「昨夜です」
眼鏡の吸血鬼の隣にいた牧師が答えた。中肉中背で年齢不詳の男だ。
金髪に青い瞳を持つ彼も吸血鬼だと発する魔力が教えてくれる。しかし銀髪と違い、どこから見ても人間にしか見えない。格好も普通の牧師と同じだった。
彼の後ろにある大きな窓を覆うカーテンは夕暮れに赤く色づいている。
「やっぱ最初っからこの姿で行きゃ良かったんだよ。なんだってあんな鉄の塊に乗って時間を無駄にしなきゃなんなかったんだ」
「大騒ぎを起こして、この町を人間どもの餌食にしたかったのか? そもそも日も沈んでいないのに変身した姿で帰ってきて。彼女が錯視の魔法をかけてくれていなければ、どうなっていたと思う」
「へえへえ、人狼のガキなんかのために町を危険に晒して悪かったな。吸血鬼さんよう」
「そんなことを言ってるのではない! 列車などただの機械だ。利用すればいいだけじゃないか。町の発展を思えば駅の誘致も」
「あーあーあー。女みたいにギャーギャーわめくな。こないだの鉄道会社のヤツにすっかり丸め込まれてやがんのか。お前は吸血鬼のくせに金が好き過ぎんだよ」
「金が好きでなにが悪い。物々交換というシステムがどれだけ非効率的か、君はわかっているのか? そもそも金という発明が世界に及ぼした影響は」
「……黙ってください」
振り返り、アビゲイルは人狼と吸血鬼を睨みつけた。
「この子を治療させるために、わたしを連れて来たんじゃないんですか?」
「お、おう」
「そうだ」
「だったら邪魔しないでください」
自分が情けなくて涙が出そうだ。
「わたしは未熟な魔女なんです。騒がしくされたら魔法が使えません」
治療の魔法は錯視の魔法ほど簡単なものではない。
静かにしてもらっても、できるかどうかわからないほどだ。
どうしてここにいるのが自分で、母やほかの魔女ではないのだろう。
魔力を注いで成長させてきた水晶は、まだ首から提げられる程度の大きさだ。
それでもここに魔女は自分しかいない。逃げるつもりはなかった。
普通の人間よりも強い魔力を持つ魔女も、魔性に比べればものの数ではない。
けれど魔女は世界や他者の魔力を操り魔法として利用することができる。
傷ついた存在を救うのは魔女の本能だ。アビゲイルの先祖たちも力を見せれば捕まり処刑されると知りながらも、苦しむだれかを見ると魔法を使わずにはいられなかった。
「そろそろ夕食の時間です。ヒューバートもクラークも準備を手伝ってくれますね?」
牧師の言葉に頷いて、男たちが部屋を出て扉が閉まる。
ベッドの横に跪き、アビゲイルが手を握ると少年は首を横に振った。
「やだ。俺、吸血鬼にはならない。誇り高い人狼なんだ」
命が危ないと見て、牧師か眼鏡が申し出たのだろう。
もっともここまで銀が魔力を歪めていたら、吸血鬼に変化できるとは思えない。
健康な人間でもなれるかなれないかは運命次第だ。
「大丈夫。あなたはあなたのままでいいの」
聞き慣れない女の声に驚いたのか、閉じられていた瞼が上がる。金色の瞳だ。
「……母ちゃん? 母ちゃんなの?」
ゴメンねと言って、彼は泣きじゃくり始めた。
「化け物でゴメン、悪魔みたいでゴメン。俺のこと嫌わないで」
ただでさえ体が弱っているのに興奮させるのは危険だ。
握った手に力を込め、アビゲイルは毛むくじゃらの額にキスをした。
「泣かないで。あなたを嫌ったりしないわ」
吸血鬼と言い争っていたときの人狼の言葉を思い出し、名前を呼ぶ。
「大好きよ……モーガン」
小さく微笑んだ少年の手を離し、今度は胸の傷に手をかざす。
まずは血に溶けて体に広がった銀の魔力を集めなくてはならない。
アビゲイルの手中で水晶が月光の旋律を奏でる。善悪に関係なく増幅する月の力なら傷ついた少年にも銀の弾丸にも等しく影響を与えることが可能だ。
「ぐっ……」
流れ出る血の量が増えた。
少年が苦痛に呻く。唇を噛んで、アビゲイルは魔法を続けた。
銀の弾丸さえ取り出してしまえば人狼には自前の回復力がある。
だけど物理的な力で取り出したのでは血に溶けた銀の魔力が残ってしまう。魔法を使うしかない。広がった魔力を弾丸に戻し、さらに魔力を与えて弾丸を取り出すのだ。アビゲイルの水晶に宿った魔力で足りるかどうかはわからない。
首飾りの水晶は、アビゲイルそのままに小さく未熟だ。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
目が覚めたとき、瞼の裏に溶けていく水晶の姿が浮かんだ。
窓のカーテンの隙間から夕暮れの光が差し込んでくる。
そんなに時間は経っていないのだろうか。
……客間かしら?
モーガンの治療をしていた部屋とは違う。
大人用ベッドと小さな机、壁際に本棚が置かれただけの狭い部屋だ。
ベッドから立ち上がろうとして、アビゲイルは床に座り込んでしまった。
魔力がない。水晶に宿った魔力はもちろん、自分自身が持つ魔力も使い果たしている。
体力も魔力に変換して使ってしまったらしい。手足に力が入らなかった。
なんとかしてベッドに戻り、座って考える。
自分のことはいい。食事を取って安静にしていれば魔力は戻る。だけど、彼は──
不意に扉が開いた。
黄色いトウモロコシ頭の少年が顔を出す。鼻の頭はそばかすだらけだ。
手にしたお盆にはスープを入れた皿が載っていた。
「体が弱ってるから胃にいいものからどうぞって、牧師さんが」
「ありがとう。……わたしはアビゲイル・アスキスよ。あなたは?」
「バレット」
褐色の瞳にはときおり赤い光が灯る。ダンピールのようだ。
「よろしくね、バレット。あの、モーガンはどうなった?」
バレットは苦しげな表情で俯いた。
「え……」
その後ろから黒髪の少年が飛び出してくる。
「元気だよ!」
「元気だよじゃないよ。牧師さんはまだ寝てろって言ってたじゃん。お前のせいで僕まで叱られちゃうよ」
「だってもう元気だし」
人間としての顔を見るのは初めてだ。変身も解けたらしい。
溜息をつくバレットをよそにモーガンが駆け寄ってくる。
「ありがとう。えっと、アビゲイル?」
「ええ、そうよ。あなたはモーガンね」
嬉しげに頷いてベッドの隣に腰かけ、胸に残った傷痕を見せてくれる。
ちょうど一日経つ間に、逞しい人狼の少年はすっかり回復していた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
3
スープを飲むと少し落ち着いてきた。
空になった皿とともに少年たちが去り、代わって男たちが現れた。
牧師と眼鏡の吸血鬼、人狼の姿はない。
アビゲイルは立ち上がろうとしたが、まだそこまでの力はなく、よろけてベッドに座り直した。
「大丈夫ですか?」
優しく微笑む牧師の青い瞳には、バレットのような赤い光はない。
魔性の土地ということでそのままの魔力を発しているのでなければ、未熟なアビゲイルは彼が吸血鬼だと見抜けなかっただろう。カーテン越しの夕日にも反応していない。
「子どもの命がかかっていたとはいえ、礼儀に欠けた招待で申し訳なかった」
昨日と同じマントとフード姿の眼鏡吸血鬼のほうは、やはり肌に軽い炎症がある。
大きさや形は違う。夜のうちに昨日のものが治り、今日新しくできたようだ。
「私はこの町で吸血鬼をまとめているクラーク・ワイズ」
ワイズは旧大陸の貴族を思わせる優雅な素振りでお辞儀をしてきた。
床に跪くと、アビゲイルの手を取って甲に唇を落とす。
「あなたへの感謝の気持ちは、どう表せばいいだろうか」
「それは……」
店のことが頭に浮かぶ。
数日に一度列車が停まる駅のある、小さくてのん気な町。裏庭のハーブ、教会での女子会の後は必ず寄ってくれる乙女心を持つご婦人方、上手く行っても行かなくても恋に悩むお嬢さんたち──みんなは突然消えた魔女をどう思っているのか。
「悪ぃ、遅れた」
乱暴に扉が開いて、人間姿の人狼が入ってくる。
今日はラベンダー色の上着にピンクのシャツ、水色のネクタイだ。額に落ちた前髪を櫛でかき上げ、金色の視線をアビゲイルに寄越す。
「昨日はありがとな。正直、あんたがあそこまでしてくれるとは思わなかった」
大きな口を左右に広げて子どもじみた笑みを浮かべる。
「俺はヒューバート・ケインズ。ハロウィンタウンに住む人狼のボスだ」
「ケインズ、感謝の気持ちがあるのなら、どうして遅刻した」
「仕方ねぇだろ? 馬ぁ迎えに行ってたんだよ」
ハロウィンタウンに鉄道の駅はない。
途中まで馬で行き、列車がスピードを落としたところで飛び乗ったのだろう。
アビゲイルの町まで馬で来られなかった理由もわかる。馬は繊細な動物だ。荒ぶる狼を背に乗せて長時間は走れない。
「夜のうちに変身して行けば良かったじゃないか」
「満月でもねぇのに賭場をほっとけるか。てか変身して行けって、帰りは裸で馬に乗って帰れってのかよ」
言い争いが始まる。
うろたえるアビゲイルに牧師が囁いた。
「怒らないんですか? 可愛い女の子に怒られて、昨日はふたりとも反省してましたよ」
「お、怒るって。昨日はモーガンの命がかかってたから……」
ふたりを黙らせることもできたけれど、今日はそんな気力はない。
「わかりました、じゃあ私が。ヒューバート、クラーク!」
牧師が手を打つと、たちまちふたりは動きを止めた。
「すんません」
「ごめんなさい」
大きな体を丸めて子どもみたいに謝っている。
頭を掻きながらケインズが言う。
「あー、アビゲイルだったっけか? あんたの店のこたぁ心配すんな。魔女の組合には夜のうちに連絡しといた。魔女を置かせろ、なにかあったら連絡しろって渡されてた魔法の手紙があったからよ」
「ありがとうございます」
そんなものがあったのなら自分以外の優秀な魔女を呼べば良かったのに。
思って、すぐに無理だと気づく。
魔女は万能ではない。連絡自体は魔法ですぐだが移動には時間がかかる。箒で空を飛ぶことのできる魔女がいても、満月以外は列車のほうが速い。昨日は新月の翌日だ。
ハロウィンタウンに近い町にいたアビゲイルでなければ、間に合わなかった。
「で、よう」
さっき自分で乱した髪を櫛で整えながら、ケインズが顔を近づけてきた。
「モーガンを助けてくれた礼に、良かったらあんた、俺の愛人にしてやろうか?」
「……はい?」
アビゲイルは首を傾げた。
「とんでもない自惚れ屋だな、ケインズ。君の愛人になるのが、どうして礼になる?」
溜息をつくワイズの隣で牧師は腹を抱えている。笑いを噛み殺しているらしい。
「なるだろ? なんたって俺ぁハロウィンタウンで一番強くて金持ちのイイ男だ。でも、それだけじゃねぇ。ほら、人間は魔女ってのは悪魔と交わって魔力をもらったとか思ってやがるだろ?」
よく聞く伝説だ。欲望が魔力を増幅するため、魔女は淫らな存在として見られやすい。
「悪魔などいない」
言い切ったワイズにケインズが口笛を吹く。
「すっげぇなお前、牧師さんの前でよく、んなこと言えるな」
「ごめんなさい、牧師様。これは……」
「かまいませんよ。ですがクラーク、神様はいつもあなたをご覧になっていますからね」
はい、と首肯した眼鏡の吸血鬼を笑いながら、人狼が話を続ける。
「俺ぁ悪魔も神様もどっかにいると思うけど、魔女が交わったのは悪魔じゃなくて、俺らみたいな魔性だと思ってる。魔女はほかの存在の魔力も操れるし、吸血鬼ほどじゃねぇけど魔力を吸うこともできるだろ?」
「そうですね」
牧師が頷いた。
ケインズが大きな手をアビゲイルの肩に置く。今日の爪は鋭くない、人間の手だ。
「あんたが俺の弟分のためになくしちまった魔力、俺が体で返してやる。もちろん愛人なんだから服や宝石だって買ってやるぜ?」
整った顔が近づいてきて薄い唇から尖った牙を覗かせた。
大きな熱い舌が頬を舐めて、低い声が耳元で甘く囁く。
「いい考えだろ、アビー?」
燃えるように顔が熱い。
アビゲイルは男に口説かれるのに慣れてなかった。
思っていたほど魔女としての才能がない自分に気づいてから、ずっと勉強に明け暮れてきたのだ。正直から回りを続けてきた。それでも諦めずに頑張ってきたからこそ、昨日モーガンを救えたのだと思う。
母にはよく恋をしろと言われるが、それは人狼の愛人になれということではない。
……そうよ、大丈夫。恋愛なんていつか自然にできるものなんだから。
日々の暮らしで水晶に魔力が満ちていくように心に恋が満ちていく。
そんな日がきっと来る、と思う。
「結構です」
両手で押しても前にそびえる厚い胸板は動かない。
「あの、いいです。そういうお礼は必要ありませんから」
「遠慮すんな。あんたがチェリーなことなんか匂いでわかってる。一から俺が優しく教えてやるからよう」
「チェリー……」
髪の色のことだろうか。
息がかかりそうなほど近い人狼の唇には、どこかいやらしげな笑みが浮かんでいる。
「おいおい。チェリーの意味もわかんねぇほどのネンネちゃんか?」
「ヒューバート、いい加減にしなさい」
「彼女も初めてが君のような男では嫌だろう」
眼鏡の吸血鬼の言葉でチェリーが意味することを察し、アビゲイルは俯いた。
相手は鼻の利く人狼。匂いで気づかれるのは当然だ。
「どうした、アビー?」
低い声に呼びかけられて顔を上げる。
「か、勝手に愛称で呼ばないでください。アスキス、わたしはアスキスです。そう呼んでください。ケインズさん、あなたの愛人になる気はありません。謝礼については、わたしの体が回復してから、魔女組合とも相談の上申し上げます」
「そんな杓子定規にまくし立てんなよ、アビー。俺のこたぁバートでいいぜ?」
ケインズが笑いながら唇を奪う。
重ねるだけの軽いキスだったのに全身が痺れた。
吐息とともに注ぎ込まれた魔力は甘く、アビゲイルの体を蕩けさせる。
しかし心に生じた怒りのほうが強かった。羞恥とともに血を燃やし、頭へと昇らせる。
「ふざけないでください! わたしの大事なファー……」
黒髪の狼が金色の瞳を丸くする。
「へ? 嘘だろ? まさかキスまで初めてっつうんじゃねぇだろうな?」
答えることはできなかった。昇りきった血液が頭を真っ白にする。
アビゲイルは意識を失い、後ろのベッドに倒れ込んだ。
柔らかなシーツの感触が最後の記憶だった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
真夜中に目が覚めた。
暗い室内に窓から月光が差し込んでいる。
魔性の町だからか、昼と違ってカーテンが開かれていた。
新月から二日。夜空に浮かぶ月は糸より細くて、星の光に消え失せそうだった。
孤児院は静かだ。人狼とダンピールの子どもは人間と同じように夜眠ると聞いた。
扉を叩く音に答えると、牧師がお盆を手に入ってくる。
「オートミールです。スープだけではお腹が空くかと思って」
彼の瞳はサファイアの青だ。
「ありがとうございます」
気絶する前より魔力も体力も回復している気がする。人狼のキスのせいかもしれない。
考えていたら頭に血が昇ってきたので、アビゲイルは必死で記憶を押し出した。
温かいオートミールを食べることに集中する。
やがて空になった皿と引き換えに、牧師が手紙を差し出してきた。
「魔女組合からあなたにです。ヒューバートが持ってきていたのですけれど」
「すみません」
謝って封を切る。便箋の文字を追うアビゲイルに牧師が言った。
「このままハロウィンタウンの魔女になれ、そう書いているのではないですか?」
首肯する。アビゲイルの帰る場所はなくなっていた。
一日離れていただけで懐かしい小さな町には、すでに新しい魔女が派遣されている。
「でしょうね。独立のために仕方なく魔性と手を組んだものの、人間にとって魔性は手に負えない化け物です。手先の魔女に監視でもさせないと安心できないのでしょう」
「そんな……」
「あなたを信用したいと思いますよ、アスキスさん。あなたは自分の水晶を犠牲にしてまでモーガンを助けてくださいました。でも私にはどうしても不思議なことがあるのです。ハロウィンタウンが吸血鬼と人狼の町だと知るのは魔女と政府の一部だけ」
サファイアの瞳が、一瞬でルビーに変わる。血の色だ。
「墓泥棒はなぜ、魔性を害する銀の弾丸を用意していたのでしょうか?」
人狼の弱点として有名な聖なる銀の弾丸は、吸血鬼をも害することができる。
「わ、わかりません」
「そうですね。あなたは知らないのでしょう。とはいえどこかに知るものがいます。それが魔女でないことを祈っています。あなたがハロウィンタウンの魔女になるかどうかについては明日、あるいは体調が回復してからヒューバートとクラークに相談してください」
人狼と吸血鬼のボスも逆らえない相手に、新米魔女が太刀打ちできるわけがない。
アビゲイルは頷くことしかできなかった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
4
「墓泥棒? 前からたまにあったよ」
孤児院の厨房でジャガイモをむきながら尋ねると、同じくジャガイモをむきながらモーガンは答えた。テーブルの上のボウルに入れた皮なしのジャガイモは、彼がむいたもののほうが明らかに綺麗だ。皮も薄くて長い。アビゲイルは魔法以外も不器用だった。
繁華街の賭場で素寒貧になった人間が、金ではなく命を失った同胞の墓を暴くのは、ここハロウィンタウンでは珍しくない。目当ては死者の金歯や腕時計、上着も金になる。
「質屋に持ってくんだよ。俺、人狼だし、人間の墓泥棒なんかイチコロだけど、牧師さんは手出しするなって言うんだ。暴かれた墓は埋め直せばいいし、持ち物盗られたからって死人が困るわけじゃないって」
「そうね。みんなの正体が知られるほうが大変だものね」
アビゲイルは連綿と続く魔女狩りの歴史を思った。
ふとしたきっかけで芽生えた疑惑は澱んだ土地の魔力と結びつき、憎み合い殺し合う暴徒を生み出す。本当の魔女がいなくても、いや魔力を整える本当の魔女がいないほうが人間は狂乱状態に陥りやすくなる。
「できたよー」
背後で言われて、アビゲイルはふり向いた。
ふたりの少年が自慢げに立っている。彼らは椅子に座ったアビゲイルの赤毛を編んでくれていたのだ。
「ありがとう。うふふ、自分でするより上手だわ」
「俺だったらもっと早くできるし」
モーガンの言葉に、双子のダンピールは同時に舌を出した。
宗教画に描かれた天使を思わせる金髪のふたりの名前はデニスとデズモンド。
今この孤児院にいる子どもは全部で五人だ。すべて男の子で人狼がふたりとダンピールが三人。年かさのダンピールのバレットは、ワイズのところへ手伝いに行っている。どんなに魔力が強くても昼間行動できる吸血鬼は少ないので、人間と吸血鬼を切り替えられるダンピールは重宝されているようだ。
「てかさあ、お前らもバレットと一緒に手伝いに行けば良かったのに」
「なんで?」
「モーガン、なんで?」
「べつに」
治療されたことに恩を感じているのか、モーガンは朝から側を離れない。まだ体力も魔力も全開ではないアビゲイルを助けてくれている。
……本当は、今の状態で手伝うほうが迷惑なのかもしれないけれど。
じっとしていると昨夜の牧師の言葉を思い出してしまう。
魔性の町に魔女を送り込むために子どもの命を危険に晒すなんて、組合がするとは思えない。しかし、それを証明するものはなかった。
「うが!」
テーブルの下に潜んでいた小さな生きものが膝に飛び乗ってくる。最年少の人狼だ。
「ギャリック、刃物を持っているときに飛びついたら危ないわ」
「がうがう」
ちびっ子は不満げに唸る。
三歳になる彼は獣の姿で生まれた。実の親に捨てられて、一年ほど前ケインズに拾われるまで人間の姿を取ったことがなかったせいか、まだしゃべれない。
双子はダンピールだった父の事業が失敗して母が家を出、残された三人で仲間のいるハロウィンタウンに来たが、妻を愛し過ぎていた父が心痛で亡くなってここに来たという。
母親とのつながりが薄いせいか、みんな慕ってくれる。
持っていたナイフをテーブルに置き、アビゲイルはギャリックを抱き締めた。
「うー」
「なんか馴染んでんな」
扉を開けて廊下から入ってきたのは、ケインズだった。
「丸一日寝てたのに、いきなり動いて大丈夫か?」
昨日のキスを思い出して赤くなった顔を頷いて隠す。
「ならいいが。ところで、ここの魔女になりたいんだって?」
黒髪の青年はテーブルからナイフを取り、残ったジャガイモをむきながら聞いてくる。
大きな手は器用だ。薄い皮がくるくると床に落ちていく。
「ええ、まあ」
正確にはアビゲイルの意思ではなく組合の意向だ。
「ハロウィンタウンは俺ら魔性の町だ。なんだかんだ言って、あんたら魔女は人間の味方だろ? ワイズの意見も聞いてみるけど俺は……なあ、金じゃダメなのか?」
どう答えれば良いのかわからなかった。
本当は元の町に帰りたい。裏庭のハーブの世話をしてお守りを作って、たまにお菓子を作って客に振る舞って、もちろんその前に組合へ行って水晶を作り直して──
「っと! いや、あんたにはモーガンを助けてもらった恩がある。絶対ダメってわけじゃねぇんだぜ?」
「う?」
ケインズが焦った声を出し、ギャリックの小さな温かい手が涙を拭ってくれた。
「ごめんなさい。体が弱ってるからか気分も沈みがちで」
モーガンも心配そうに見つめてくる。
「アビゲイル、大丈夫か?」
「女を泣かすなんて、黒の狼団のボスも大したことないね」
「ないねー」
「うっせぇ、赤目ども。一番デカイのはどこ行った?」
「ワイズさんとこ……」
答えかけて、モーガンは鼻を動かした。ケインズの表情も変わる。
「ただいま」
厨房にある裏庭への扉が開いて、外からバレットが入ってきた。
出て行ったときと違う。
黄色いトウモロコシ頭の少年は、赤い瞳の吸血鬼の姿になっていた。
まだ日は高い。青白い肌は昨日や一昨日のワイズよりも激しい炎症を起こしている。
顔を始めとして服から出た部分が赤黒く焼けて、腐りかけた死体のように見えた。
「おい! どうした、バレット」
ケインズが血相を変え、双子があわてて窓をカーテンで覆う。
「町で一昨日の墓泥棒を見つけたんだ。ワイズさんのところに行って報告すれば良かったんだけど、まだ明るいからと思って」
尾行しているつもりで誘き寄せられて、袋小路で捕まりそうになった。
子どもの力では大人の男に敵わない。身体能力の高い吸血鬼に変じて逃げた少年は、日光で体を焼かれてしまった。魔力を体力に変えられる吸血鬼の状態だから保てているものの、人間に戻ったら炎症部分が多過ぎて意識すら失うだろう。
アビゲイルは立ち上がり、ギャリックを椅子に座らせてバレットに駆け寄った。
「痛いでしょう」
「大丈夫。夜になったら治るから」
「でも……」
無意識に胸へと手をやり、そこに水晶の首飾りがないのを思い出す。
昨日の夕方立ち上がることもできなかった自分は、夜中にオートミールを食べ、今日はジャガイモの皮むきができるほど元気になっていた。ケインズを見つめる。
「ちょっと待ってて」
「バレット、とりあえずここに座れ」
モーガンが自分の座っていた椅子を譲る。
アビゲイルはケインズを廊下へと連れ出した。
「牧師さんは教会のほうにいたけど、牧師さんを呼んでもなあ。あんたが魔法を使える状態なら良かったんだが」
人狼と吸血鬼の町では牧師も吸血鬼だ。信心深い魔性たちが教会に通う。
「ケインズさん、キスしてください」
見上げて言うと金色の瞳が丸くなった。黒い眉毛が吊りあがる。
「はあ? アビーお前、こんなときになに言ってんだ」
「アスキスです。この町の魔女にしてくれなくていいので、キスしてください。それがお礼でかまいません。昨日ケインズさんとのキスの後で、少し魔力が回復したんです」
「あ、ああ、そういうことか。わかった」
逞しい腕がアビゲイルの体を引き寄せる。
薄い唇が落ちてきた。吐息は甘く体を痺れさせる。だけど足りない。
アビゲイルは爪先を立てて自分の唇を押し付けた。
ケインズが苦笑を漏らす。顔を離して彼は呟いた。
「あんたホント、なんも知らねぇんだな。なのに見ず知らずのガキどものために必死になりやがって……変な女」
次に落ちてきたキスは重なるだけのものではなかった。
熱い舌がアビゲイルの唇をこじ開ける。激しい魔力が流れ込んできた。
体が火照る。ちりちりと焼け付く皮膚の下で、なにかがざわめいていた。
骨ばった指が髪に絡まり三つ編みを乱す。人狼の魔力が魔女を満たしていく。
両手で胸を押すと、黒髪の青年は体を離して見つめてきた。
「もう、いいのか?」
頷いて、アビゲイルは厨房に戻った。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「大丈夫?」
「うん、もう痛くない」
バレットの顔も腕も子どものすべすべした肌に戻っていた。
彼の顔で一番目立つのは鼻を中心に広がるそばかすだ。
炎症を治すだけなので、モーガンのときより簡単だったように思う。
魔法に習熟してきたのかもしれない。アビゲイルは自画自賛した。
心の中を違うことでいっぱいにしていないと、ケインズとのキスが蘇る。自分の言動も恥ずかしかったし、思い出すと体の芯が疼いてくるのも嫌だった。
黒髪の狼は厨房にいない。彼はアビゲイルが治療の魔法を使っている間に、牧師とワイズへ報告に行ってくれたのだ。
治療中、少し離れて見ていた子どもたちがアビゲイルとバレットに近寄ってくる。
「アビゲイル、すげー」
モーガンの素直な称賛が嬉しい。
不意にバレットが俯いた。
「……ごめんなさい」
「どうしたの?」
「僕、放っておいても治るのに魔法使わせちゃって。アビゲイルさん、一昨日モーガンを治したとき、魔女の証の水晶をなくしちゃったんでしょう? なのにごめんなさい」
「謝らないで、わたしがあなたを治したかったの。水晶がなくなったのは、わたしが未熟だからよ。魔女は目の前で苦しんでるだれかを放っておけないの。自然に治るからって、それまで苦しんでいても平気だなんて思えないわ」
「そうだよ、バレット」
双子が口を開く。
「鏡に映らないから気づいてなかっただろうけど、さっきのバレット、すっごく怖かったんだから。あのままでいられたら、俺たち夜うなされてたよ」
「うん、うなされてた。墓場から腐りかけた死体が蘇ったみたいだった」
「もともと僕は吸血鬼だけどね」
「なに言ってんだよ」
モーガンが黄色いトウモロコシ頭を小突く。
「お前は死んで蘇った吸血鬼じゃなくて、母ちゃんから生まれたダンピールじゃんか」
そっか、と褐色の瞳の少年が笑う。もう赤い光は灯っていない。
彼は自分の足下をうろちょろしていたギャリックを抱き上げた。
「アビゲイルさんのこと、ひとり占めしてごめんな」
「うーが」
渡された小さく温かい存在を抱き締める。
ハロウィンタウンの魔女になるより、金をもらうより人狼の愛人になるより、子どもたちを治療して抱き締めるほうが嬉しい。アビゲイルは、そんな魔女だった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
5
細い月の下、アビゲイルは墓の前に立った。
モーガンとバレットを襲った犯人が暴いた墓だ。
今月に入って掘り起こされた墓の一番目と二番目はそのままだったのに、三番目だけは埋め直されていた。そこになにかが隠されているのかもしれない。
すっかり日が沈んでいるので、吸血鬼はマントを着ていなかった。上品なグレーの背広姿だ。瞳が赤く輝いていなければ、議会にいても違和感のない紳士に見えた。
もちろん賭場や劇場の客の前では赤い光すら隠しているに違いない。
バレットとは逆で父親が吸血鬼のダンピールだというワイズは吸血鬼の血が濃く、昼間も行動できるものの日光を浴びると肌が炎症を起こしてしまう。
人狼は赤い上着とネクタイを近くの墓にかけ、黒いシャツの前をはだけている。
賭場と劇場に顔を出した後の魔性たちは、疲れを見せず地面にスコップを立てた。
そう古い墓ではないし、数日前に掘り起こされてもいるので土は柔らかい。
すぐに木製の棺が顔を出した。蓋を開けると苦悶に歪んだ死者の顔。
アビゲイル、ケインズ、ワイズ、牧師の四人は一様に首を傾げた。
「上げ底じゃないっすよね?」
「二体入ってるんだ。上のは墓泥棒の一味だろう」
「銀の弾丸で胸を撃たれてますが、彼はただの人間のようですね」
「コイツどっかで……?」
怪訝そうに目を凝らしながら、ケインズとワイズは上の死体を移動させた。
下の死体は上着を盗まれたようだ。
寒い時期で腐臭が漂うほど腐ってはいないけれど、棺の隅には蛆がいた。
「ジョン・スミス氏?」
アビゲイルの呟きに、男たちが首肯する。
「ああ、半月くらい前に埋葬した身元不明だ。ナイフで刺されてたんだっけかな」
「大通りで強盗に襲われたらしい。助けを呼ぶ声を聞いて駆けつけたときは遅かった」
ハロウィンタウンには保安官がいない。人狼と吸血鬼の自警団が見回りをしている。
「そうじゃないんです。みなさん、新聞は読んでませんか?」
「一ヶ月に一度まとめて取り寄せてる」
「うちもだ」
「私はふたりが読み終わったら譲ってもらってます」
もう一度死体を眺めて、アビゲイルは説明した。
「この人、ジョン・スミス氏なんです。身元不明って意味じゃなくて、有名な私立探偵の名前です。なにかを捜査してる途中で行方不明になったとかで、雇い主のバーナード氏が懸賞金をかけてます。最近何度も新聞に載ってて」
「バーナード氏? 鉄道会社の社長か」
ケインズとワイズが顔を見合わせる。
ジョン・スミスの上に置かれていた死体を指差して、彼らは言った。
「コイツぁそこの社員だ。路線を増やすときに駅を作ってやるからって、以前賄賂をせびりにきやがった。ま、断ったけどな。あの列車とかいう鉄の塊はロクでもねぇが、コイツが乗ってた自動車ってのは、ちょっとだけイカしてた」
「確かそのとき、社長のバーナード氏の甥とかいう男も一緒に来ていたな」
「なるほど」
呟いた牧師に視線が集中する。見返してくる彼の瞳は赤かった。
「なんとなくわかった気がします。アスキスさん、子どもたちをお願いできますか?」
「は、はい」
「ヒューバート、クラーク、あなたたちはこれからバーナード氏の甥を探すつもりでしょうが、見つけても殺してはいけませんよ。それと相手の武器には気をつけなさい」
「うっす」
「はい」
アビゲイルたちは背筋を伸ばした。
目立つ人狼と吸血鬼に挟まれて印象が薄い牧師は、実は美しい。
野性的だとか優雅だとか、そんな小手先の言葉では表せない美しさだ。空に広がる虹や夕焼けを思わせる自然現象に近い荘厳さを持っている。
「お墓はきちんと埋め直してくださいね。子どもたちを起こさないよう静かにですよ」
彼の背中から伸びた巨大な羽がわずかな月光を遮った。
金色の髪はほかの光を浴びなくても輝いている。
「ジョン・スミス氏になにを頼んだのか、バーナード氏本人に聞いてきます」
解放された魔力の威圧感は、伝説の竜を思わせた。黒い翼を羽ばたかせて飛んでいく。
しばらく沈黙した後、ケインズが鉄道会社の社員を棺に戻した。
ワイズが蓋を置き、スコップの先で釘を打つ。
「牧師さん飛べるんなら、モーガンのとき行ってくれりゃ良かったのに」
「ケインズ、真っ昼間に牧師様が飛んでたら狼が走ってるより目立つ」
「なあ、お前も飛べんの?」
「私はダンピールだ。だが生粋の吸血鬼でも無理だろう」
「だよな」
人狼と吸血鬼は頷き合って棺に土をかけ始めた。
ふたりも家族の縁が薄く、この孤児院で牧師に育てられたのだという。
すぐに言い争いに発展するのは仲が良過ぎるからなのかもしれない。
どちらも親代わりの牧師には逆らわないほうがいいと悟っているようだ。
力仕事に向かないアビゲイルは孤児院に帰れと言われ、厨房でお茶を淹れて待つことにした。緑の指を持つ牧師が育てているハーブを教会の裏の畑から拝借して戻る。
一応魔女なので夜目くらいは利くのだ。
ケインズとキスしたときに得た魔力のおかげもあるかもしれない。
厨房で椅子に座ってお湯が沸くのを眺めていたら、扉が開いた。
モーガンとバレットだ。
「アビゲイル、みんなして墓でなにしてんの?」
「さっきなんか魔力が爆発したみたいな感じがしたけど、アビゲイルさん、また魔法使ってた? 大丈夫?」
「大丈夫よ。でも……」
アビゲイルには事件の全容が見えない。
……バーナード氏に依頼されてジョン・スミス氏が調べてたことを奪うために墓を荒らした、のよね?
探偵を殺したのも墓泥棒たちだろう。
彼らはそこまでして、なにを得たかったのか。
子どもたちに乱暴するような人間は人狼と吸血鬼にお仕置きされてしまえと願い、アビゲイルはモーガンたちとお茶を飲んだ。男たちが戻ったら、またお湯を沸かせばいい。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
鉄道会社のバーナードが病気だという話を思い出したのは、翌日になってからだった。
社長である彼が亡くなったら、墓泥棒の甥が後を継ぐのだろうか。
もっとも墓泥棒がバーナードの甥とは限らない。
殺された鉄道会社の社員の同伴者を知るものは襲われたモーガンとバレットだけだ。
「どうしたの、アビゲイル」
「まだ体の調子が良くない?」
「ううん、大丈夫よ」
少年たちに首を振り、アビゲイルはお菓子作りを再開した。
考えていても仕方がない。
牧師の不在で不安を感じている子どもたちには美味しいものが必要だ。鍋のクリームをかき回しながら、パイ生地が焼けるのを待つ。干したチェリーは砂糖水で戻してある。ケインズの発言を思うとチェリーを使うのは複雑だったが、近郊で豊作だったのかやたらとあるし、子どもたちがアビゲイルの髪と同じ色だと喜んでくれたので良しとした。
人狼と吸血鬼が社長の甥なり死体の同伴者なりを見つけたら、安全な状況でモーガンとバレットに首実検させるだろう。それですべてがわかる、はずだ。
孤児院の厨房には甘い匂いが満ちている。
「「味見、味見!」」
「うがうが」
木のヘラについたクリームを冷まし、アビゲイルは双子とギャリックに差し出した。
「アスキスさん!」
厨房の扉が開いて、裏庭から黒いマントの男が入ってきた。ワイズだ。
細い体で男を抱えている。ケインズだった。
「やはりバーナード氏の甥だった。銃は奪ったんだが、銀のナイフを隠し持っていて」
「……うっせぇ。なんでこんなとこ連れてきた。墓泥棒は捕まえたんだ。これっくれぇの傷、寝てれば治る」
そうは思えなかった。満月はまだ遠い。
人狼の首はぱっくりと開き、申し訳程度に巻かれたネクタイが血に染まっている。
心臓に近い部分を縛って血を止めるとはいえ、首では無理だ。
以前のモーガンのように、銀の魔力がケインズの血に溶け込み体に回っている。
「ナイフはないんですか?」
「必要だったのか、すまない」
「銀の弾丸はもう始末したんでしょうか?」
離れて椅子に座っていたモーガンが飛び上がり、ポケットに手を差し込む。
「俺、お守りにしようと思って持ってる。命拾いしたから逆に縁起がいいだろ?」
広げた手の上の弾丸を受け取って礼を言い、アビゲイルはワイズにケインズを運んでくれるよう頼んだ。子どもたちはモーガンとバレットに任せる。
「大丈夫だって言ってんだろ!」
客間のベッドに寝かされてもケインズはわめき続けた。
しかしその顔は明らかに白くなっていく。動いているのは口だけだ。
「どう見ても大丈夫じゃないわ。わたしにまかせて」
アビゲイルはモーガンに渡された銀の弾丸を握り締めた。
近しいものは引き合う。同じ人間が使っていた銀のナイフの魔力は、銀の弾丸でも呼び寄せられるはずだ。銀の魔力さえ抜ければ、大人の人狼は子どもより回復力が強い。
「だからやめろ。こんなのすぐ治っ……げほ」
黒髪の青年は血を吐いた。
「やせ我慢するな、ケインズ。バレットやモーガンを助けてくれたアスキスさんだ。君も助けてくれる」
薄い唇を大きな手で拭い、人狼は金色の瞳で見つめてくる。
「アビー、あんたまだ魔力は全快してねぇよな。水晶もない。どうやって魔法を使う。俺の魔力で良ければやるけどよ」
「無茶言わないで。今のあなたから魔力をもらったら治療どころじゃないわ」
答えて、鈍いアビゲイルはようやく気づいた。
自分が魔法を使うには、魔性から魔力をもらわなければならない。
怪訝そうにふたりを見ていたワイズも一昨日のことを思い出したようだ。
「冗談じゃねぇぞ。俺は……」
ケインズがまた血を吐く。
縋るような視線に胸が痛むけれど、どんなに嫌がられても治療は必要だ。
黒いフードを外した吸血鬼が、白い肌を赤く染めて眼鏡を外す。
人狼の怒りに満ちた雄叫びが孤児院に響き渡った。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
6
アビゲイルの新しい店はハロウィンタウンの奥、繁華街と住宅地の境に建っている。
人狼と吸血鬼の縄張りの中間だ。
開店時間は以前と違う。午後から、この町が一番活気にあふれる真夜中まで。
酔い止め、媚薬、運を高めるお守りなどが主力商品。
胸に提げた水晶の首飾りを見る。組合に行って新しく作ってきたものだ。
戻った今日からハロウィンタウンの魔女として本格的な活動を始める。
先日ケインズを治療している間に焦げてしまったパイの代わりを焼きながら、新聞を広げた。組合へ行ったとき買ってきたので、それほど古いものではない。
新大陸一の鉄道会社の社長バーナード氏が亡くなり、後を継いだのは彼の甥。新社長は館に閉じこもり、経営は重役連に任せている。会社は鉄道の路線を増やすと発表、沿線にはハロウィンタウンの名前もあった。私立探偵ジョン・スミス氏は行方不明のまま、バーナード氏の死によって懸賞金も泡と消えた──そんな記事が載っていた。
新聞をテーブルに置き、熱いお茶を飲み干して立ち上がる。
ボサボサの赤毛はピンで留め、ネットの中に押し込めた。孤児院で双子に編んでもらったことを懐かしく思う。ほんの数日前なのに、ひどく昔に感じる。
狐色のパイにクリームを詰めてチェリーを飾りバスケットに詰めて、外に出た。
冬の日でも午後はほんのり温かい。辺りを見回す。
住宅地の魔力は安定していた。しかし太陽が地に沈むと、煌く繁華街は欲望にあふれて魔力が荒ぶる。孤児院で魔力が安定していたのは牧師の力だろう。
夕暮れに照らされた町を孤児院に向けて歩き出す。
行き交う人々のほとんどは人狼で、ときどきマント姿のダンピールがいた。
賭場か劇場に出勤するのか、繁華街に向かう女性たちとすれ違う。
化粧も衣装も完璧な彼女たちは通り過ぎてしばらくして、なにかに歓声を上げた。
アビゲイルの背中にクラクションが浴びせられる。
「ケインズさん」
さっきの女性たちの声は彼を賞賛していたらしい。
ふたり乗りの赤い車に乗る男は白い上着に黒いシャツ、赤いネクタイを締めていた。最近の彼は、常にどこかしら赤を纏っている。
……生肉の色?
銀のナイフで殺されかけて、生に貪欲になったのかもしれない。
彼は粋で女性の目を惹く色気がある。初対面のときより艶が増していた。
歓声を上げる気持ちも少しだけわかる。
もっとも彼女たちは人狼だった。雇い主へのサービスだったのかもしれない。
「組合から帰ってきたんだな、アビー。バートでいいって言ってんだろ」
「アスキスと呼んでください」
「煙と鉄の匂いがするぞ。あんなもんで行かなくても俺に言えば連れてってやったのに」
自動車を購入した人狼のボスは、町の発展を考えてハロウィンタウンに鉄道の駅を誘致するのは認めたものの、二度と列車に乗る気はないようだ。
「これから孤児院に差し入れか? 乗ってけよ」
「途中で寄るところがありますので。それにケインズさん、そろそろお仕事でしょ」
「なぁに、少々遅くなっても優秀な部下がなんとかしてくれる。どうせバレットの家に寄り道するんだろ? 乗りな」
赤い車はノロノロ運転で徒歩の魔女を追いかけてくる。
アビゲイルは諦めて助手席に乗った。膝に置いたバスケットを見た男が鼻を動かす。
「チェリーがチェリーパイ持ってくのか」
「干したチェリーが安かったんです」
「……あんたは酷い女だなあ」
ケインズが溜息をつく。
太く逞しい首にナイフの傷痕はなかった。人狼は回復力が強い。
「ガキどもにだけ優しくて、愛人の俺にはなんにも作ってくれやしねぇ」
「それはお断りしました」
本当はハロウィンタウンの魔女になる気もなかった。しかし黒い翼を羽ばたかせて帰ってきた牧師には逆らえない。本当は彼がいれば、魔女など必要ないと思う。
あの夜は竜を連想したけれど、牧師の力は神や悪魔にも等しい。
そう思いつつも守るべき町ができたのは嬉しかった。
モーガンやバレット、孤児院の子どもたちのことも大好きだ。
「あんたに断る権利はない」
「どうしてですか?」
見つめてくる金色の瞳を睨み返す。
「どうでもいい。あんたは俺の愛人だ。俺が決めた」
「勝手なこと言わないでください」
人狼は目を逸らし、子どものように頬を膨らませた。
「だって……仕方ねぇだろ。惚れちまったんだから。あんたみたいな女知らねぇよ。無理矢理連れてこられたのに文句も言わず、大事な魔女の証をなくしてまで見ず知らずのガキの治療して、俺にキスをねだった唇でほかの男とキスしやがって」
彼に会うたびワイズとキスしたことを責められる。
「あなたを治療するためだったんだから仕方ないじゃないですか」
どんなに回復力があっても体に銀の魔力が残ったままでは意味がない。
ちょっとだけ嬉しげに顔をほころばせて、人狼が言う。
「仕方なくねぇ。もう二度と許さないからな」
勝手にもほどがある。アビゲイルは胸の水晶を握り締めて宙を仰いだ。
人狼の愛人になった覚えはない。
もっとも今後魔力のために魔性とキスする予定もなかった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
寄り道先の雑貨屋にはモーガンも来ていた。
「アビー! 戻ってたんだ」
頷いて水晶の首飾りを見せる。
バレットもカウンターから体を乗り出した。
「じゃあ今日からハロウィンタウンの魔女なんだね、アビーさん」
「そうよ。とりあえず今夜は牧師さんに報告した後で、孤児院で夕食をご馳走になる予定なの。バーナードさん、バレットにも来てもらっていいかしら?」
黄色いトウモロコシ頭の少年の隣に立つ、大柄な男が頷く。
彼はなりたての吸血鬼だった。店の窓を覆うカーテンを縫って差し込む日光から、黒いマントとフードで身を守っている。
「父さんも食事ができたらいいのにね」
残念そうな息子に、父親は首を横に振って見せた。
「私はお前と暮らせるだけで幸せだよ」
新大陸一の鉄道会社の元社長で死んだことになっているバーナードだ。いや、実際彼は牧師の牙を受けて吸血鬼となり、一度死んで蘇った。
病気が悪化し寿命が近づいたバーナードが、私立探偵ジョン・スミスを雇ってかつての恋人──バレットの母を捜し始めたのがすべての始まりだ。
財産を狙う甥が仲間とともにジョン・スミスを追い、殺したものの死者から調査書を奪う前に自警団が駆けつけてしまった。身元不明者の墓を暴いて、上着の裏地に隠された調査書を見つけたところで仲間割れ、探偵殺しで脅された甥が仲間を殺して棺に入れた。
銀の弾丸とナイフを用意していたのは、以前バーナードが冗談交じりに吸血鬼の恋人がいたと甥に話していたからだ。
遺産をひとり占めしたかった男は伯父の息子を襲い、人狼と吸血鬼に捕らえられた。
……本当はそんな人、きちんと罰を受けるべきだと思うけど。
牧師は魔性の町を秘密にすると約束させて彼を解き放った。
もっともバーナードの遺産を受け継いだ甥が、幸せかどうかはわからない。
彼は魔性の影に怯えて閉じこもっている。実際牧師はヒマなとき飛んでいって、窓から覗いたり家に忍び込んだりして様子を窺っているという話だ。
「ワイズのヤツぁ便宜を図ってくれてるかい?」
ケインズに聞かれて、バーナードが頭を下げる。
「もちろんです。ケインズさんにもお世話になりました」
「いや、俺は大したことしてねぇよ」
人狼と吸血鬼のボスが尽力したので、バレット親子は何年も前からハロウィンタウンにいたかのように町に馴染んでいた。
魔性のボスは面倒見がいい。今日アビゲイルの赤毛をまとめているピンとネットも町に来る途中に落ちたものの代わりにと、ケインズがくれたものだ。店や当座の生活についても彼とワイズが準備を整えてくれた。
モーガンがアビゲイルのバスケットの上で鼻を引くつかせる。
「チェリーパイ?」
「こないだ失敗しちゃったから再挑戦したの」
「美味しそう。俺、チェリーパイ大好き」
「僕も好き! アビーさんの髪みたいに赤くて綺麗だもん。バスケット持ってあげる」
カウンターから出てきたバレットが腕を伸ばす前に、モーガンがバスケットを奪った。
「俺が持つ」
「なんだよ、いいじゃん」
「ケンカしないで。それじゃあバーナードさん、良い夜を」
「行ってきます、父さん」
微笑むバーナードを残し、雑貨屋を出る。
道路に停まった赤い自動車を映して、金と褐色の瞳が輝く。
「あ、車だ」
「ケインズさんの? 乗ってもいい?」
「ふたり乗りだから孤児院までは運んでやれねぇ。今乗るだけならいいぞ」
少年たちは歓声を上げて車に乗り込んだ。嬉しそうにハンドルをいじっている。
「わたし歩くので、ひとりずつ順番に乗せてあげてください」
「嫌だ」
大きな手に腕をつかまれる。
「本当に酷い女だな。俺にゃ怒るくせにガキどもには平気でアビーと呼ばせてやがる」
見上げると、整った人狼の顔が真っ赤に染まっていた。
町に沈む夕日のせいだけではないようだ。
形の良い額に前髪が落ちているのに、櫛を出そうともしない。
アビゲイルの手をつかむ骨ばった指がかすかに震えている。
「あんた、本当はすげぇ優秀な魔女なんじゃねぇか? 俺に恋の魔法をかけたんだろ。女に不自由したことなかった人狼のボスが、寝ても覚めてもあんたのことばっかだ。赤い色が近くにないと落ち着かねぇ。くそっ」
低く甘い声がねだる。
「アビーって呼ぶくらい、許してくれよ」
……なんだか可愛い。
浮かんだ言葉を胸の中にしまう。
相手は危険な人狼だ。もう一度甘いキスをされたら恋に落ちてしまうかもしれない。
それでも、彼もハロウィンタウンの住人で魔女のアビゲイルが守るべき相手だ。
空いている手で胸の水晶を握り締める。
出かける前に飲んだカップに残った茶葉は、恋の訪れを意味する花の形をしていた。
水晶に魔力が満ちて丸い玉となるいつか、自分はどうなっているのだろう。恋心も満ちていたら素敵なのにと、アビゲイルは思った。
だれに対する恋心が満ちるかは、まだわからないけれど──