第三十二章 変貌
「なんで……っ?!」
枕を投げつけられた。
訳がわからず、ただ彼女の困惑と怒りをぶつけられるまま、ベッドから一歩も動けなかった。
なんでと言われても、そんなこと自分が一番知りたい。
「……っ! やめろ、よ! それ携帯……!」
「あんたのせいよ! あんたと寝たから……っ!」
「知るかよっ! 大体誘ってきたのはそっちだろっ?!」
図星をさされ。
彼女は顔を真っ赤にして瑚太朗を押し倒し、首を絞めつけてきた。
「うっ、……ぐぅっ」
「あんたさえ……あんたさえいなければ……っ!」
涙が瑚太朗の頬に落ちる。
悔しいのか。悲しいのか。辛いのか。
ただ彼女の激情に身を任せ、抵抗することもできず、首を絞め続けられて。
死をこの時、覚悟した。
(俺さえ……いなければ……)
いなければいい。
本気でそう思う。
刹那的とか厭世的とか、そんなありきたりの感情ではなく。
世界に――たった一人。
その孤独と絶望をこれ以上抱えこんで生きていられる気がしない。
殺すなら早く殺して欲しい。
そう思って目を瞑った。
――なのに。
「……んっ」
涙の味がする口づけ。
彼女は――草薙は。
泣きながら瑚太朗の唇をこじあけるように口づけていた。
薬指の細いリボンが微かに光った。
光るというより――点滅。蛍の光みたいな。
篝が呼んでいるような気がした。
「もしかして……」
このためにつけたのだろうか。連絡用に。
だとしたら。
「……。信用されてないってことかな」
複雑な気持ち。
確かに、始終いつも一緒にいるわけではないが。
どこにも行く場所など――篝の傍以外にいる場所などないというのに。
だが……。
(一緒にいると、どうしても……)
篝が求めてくる。
つい流されてしまっているが。
自分としては、彼女の姿を見ていられるだけでも満足だった。
篝が恋を解析し終えたらきっとおさまるだろう。
そう思って待つつもりだった。
たぶん、それは。
娘が自分に告白してきたとき、教え諭したときと同じ気持ち。
恋愛感情というより父性愛。
それだけのつもりだったのに。
(あの後……鍵が現れて……)
自分の気持ちに気がついた。
そして一線を越えて――。
「…………」
同じ道を辿っているのだろうか。
繰り返しているだけなのか。
わからない。
篝に対して、もはやどんな想いもすべてを凌駕してしまっていて、自分の気持ちすら掴めない。
ただ好きなだけなのに。
なぜこんな、複雑な解析不能な難解な、わけのわからない想いをもてあましてしまうのか。
もしかして、篝も――。
同じ想いを抱いているのだとしたら。
「俺以上に……悩んでいるのか」
なまじ人間ではないだけに。
人間である自分ですら、わからないこの想い。
無理だ。
篝にすらどうすることもできないのに。
繋がりを深めるしかないのだろうか。
それに縋る篝を――とめることなど出来ない。
「篝……」
会話がしたい。
彼女の言語を理解できるようになりたい。
それには。
もう――十段階以上。いや。……下手をすると、数百。
それ以上の跳躍が必要になる。
そうなってしまっては、もう……。
(人間じゃなくなる……)
すでに、人間としての感覚が失われつつある。それをさらに喪失することになる。
恐れはないが。
篝への想いを捨ててしまう可能性を否定できない。
篝に近づくことすら出来ない。
人間である身が――もどかしかった。
篝のいるヒナギクの丘。
月の光が暖かく感じられた。いつもこの丘で愛し合うからだろうか。
篝は瑚太朗の姿を見て、嬉しそうな顔で微笑んだ。
それだけで胸の中が幸せに満ち足りていくような気がした。
「ただいま」
声を掛けると、手招きしてきた。もっと近くに来てと言っているらしい。
何かいいことでもあったのだろうか。
篝の傍に近づく。
リボンがもどかしいとでもいうかのように、瑚太朗に巻きついてきた。
「お、おい」
そのまま引き寄せられる。
まるで地引網にかかった魚のよう。
ここ最近、彼女はこうやって瑚太朗を絡めとる行為をしてくるようになった。篝なりの愛情表現らしい。
(嬉しいけど……)
情けない。
でも悪い気は全然しなかった。
つまり――。
(こういう、押しの強い女が……好みってことか)
朱音のときもそうだった気がする。
娘の篝も、我儘だった。
思えば、ほとんどの女性が……。
(進歩ないな、俺も……)
篝は瑚太朗を引き寄せると、腰にしがみついて顔をすり寄せてきた。
匂いを嗅いで安心している。
どこにも行くなと言っているかのようだった。
「ごめんな。ちょっと用事があってさ。……それは?」
篝の手のひらの上に、虹色に切り取られた理論の一部が乗っていた。
どうやらそれを瑚太朗に見て欲しいと言っている。
触れるのに、ちょっと躊躇った。
「これ……大丈夫か?」
篝には何ともなくても。
自分が触れると精神の一部が壊れてしまう可能性がある。
そうなってはもう復活できないし、何よりたとえ精神の一部だろうと壊れてしまうと。
世界そのものが破滅する。
それを恐れて躊躇った。
「……」
篝は、大丈夫、と瞳で語っていた。
それを信じて触れてみる。
すると――。
「……っ」
眼前に繰り広げられた光景。
それは収穫祭。
風祭市で開催される年に一度のカーニバル。その前夜祭の夜。
一人の少年が歩いていた。
(俺……?)
高1の頃だろうか。一人ぼっちで歩いている。
小鳥は森へ行ってて行方不明。
友達もいなく、ふてくされていた。
あまり思い出したくないのに。
そう思っていたら。……少年の手を引く、一人の少女。
鍵だった。
(え……っ?!)
瑚太朗の手を引き、祭りの喧騒の中を連れまわしている。
周りの人間には少女の姿が見えていない。姿形も、間違いなく鍵だった。
まるで覚えていない。
しかもこの頃、鍵は洲崎一味に捕らえられて監禁されていたはず。
(抜け出したのか……?)
たまに逃走したことがある、と洲崎が語っていたような気がする。
洲崎としてもそのたびに必死になって再捕縛したのだろう。収穫祭はガーディアンの警戒網が強くなる。
鍵は。
瑚太朗と一緒に祭りを楽しんでいるようだった。
(覚えていない……)
それともこの記憶は。
まだ収束しきれていない因果の欠片なのか。
篝を見る。
なぜ自分にこの記憶を見せたのか……。
続きを見て、と促している。
篝の意図が掴めなかったが、そのまま二人の様子を観察した。
ちょうど監視カメラで焦点を合わせて追うように。
前夜祭が終了する寸前にあがる花火を見上げて。
鍵の横顔をジッと見つめていた瑚太朗が。
そっと――。
その唇を盗んだ。
「…………」
鍵はきょとんとしていたが。
背伸びをして、再び瑚太朗にキスを返した。
端から見てもそれは微笑ましい、若い恋人同士のような仲睦まじさ。
だけど……。
(鍵、が……)
明らかに瑚太朗に対して。
恋の意思表示をしている。
こんなこと……いくらなんでもありえない。
この記憶は、本当にあったことなのか。
篝の紡ぐ命の系譜は、すべて現実にあったこと。
たとえ記憶になくても、これは現実だった。
鍵が、人間に恋をする。
それは――。
「可能性は、あるんだな……?」
こくり、と篝は頷いた。
その切り取られた枝を、篝はそっと、再び理論の中に忍ばせた。
枝から先は見えなくなっている。
まだ可能性は残されているということだった。
篝もまた。
自己の可能性を追い求めようとしていた。
瑚太朗が現れた。――その奇跡のような出逢いに一縷の望みを託して。
瑚太朗の胸に寄り添って眠っていた篝が。
ふと目を覚ました。
隣にいる男の寝顔をジッと見る。
そして、何かを思いついたかのように――。
指を空中に向けて動かした。
それは……。
「……瑚…太…朗……」
名前だった。
漢字で、一文字ずつ、空中に光の軌跡を描いた。
それは彼女が初めて。
人の固有名詞を、存在としての意味を、捉えた瞬間だった。
to be continued……
変貌とは篝のことです。(わかりやすい…)
瑚太朗→篝に向かう変化が難しいので、篝→瑚太朗へと近づいていってます。
これが吉となるか凶となるか。
いろいろ仕込みは入れてありますが、さて。
まだまだ続きます。よろしくお願いします。