第二十二章 変化
(これは……)
朱音が魔物使い初心者用の人形に手に触れ、何気なく繋いだとき。
そこに見える光景に目を奪われた。
その人形は先ほど瑚太朗が契約線を繋ぐ練習に使ったもの。
瑚太朗には話していなかったが、この人形はパスを繋いだ人間の契約線を視認できる機能がある。
一種のビデオカメラのような役割を持つが、高度な技術を盗まれないための対策でもあった。
邪な人間が魔物使いの能力を使って犯罪に利用するのを防ぐために。
魔物と人間の契約線は、指紋や声紋のように、人によってそれぞれ異なる。
その個人情報を得るために、練習用の人形として、必ず使用されることになっていた。
だから。
朱音が瑚太朗の情報を知ろうとしたのは、特に不思議でもなく、ごく当たり前な行為だったのだが。
その情報は、朱音の知る限り、今まで見たことも聞いたこともないものだった。
(なに……これ……?)
瑚太朗と魔物との契約線。
普通であればそれは生命の糸のようなもので赤だったり黄だったり、人によって色は違うが、へその緒のように生命同士の繋がりを感じる。
だが、これは……。
(命じゃ……ない……)
なんて形容すればいいものなのか。
電波? 磁力? 斥力?
命とは異なる、異質なもの。
だが瑚太朗と魔物は、確かに何かで繋がっている。
それは命ではないものだったが、そう、……糸で人形を操るような。
朱音は愕然とした。
思わず口を手で押さえて立ち上がる。
わけがわからなかった。こんなの人間ではない。人間がこんな契約線を持てるはずがない。
だが……。
(瑚太朗は……人間、よ……)
生命体だ。人類だ。それ以外の何にあたる?
幽霊だとでもいうのか。……ありえない。
朱音はその時。
初めて、天王寺瑚太朗という人間を恐ろしく感じた。
そして同時に。
彼を深く知りたいと思うきっかけにもなってしまった。
「な……っ?!」
瑚太朗は学園の外に出て、その光景に我が目を疑った。
雨が降っている。
空を見上げた。雲など何処にもありはしない。いつもと同じ明るい星空。なのに。
雨が降っていた。
「ど……どういうことだ?」
雨はいったいどこから降っている?
見上げるが、何もない空間から落ちているとしか思えなかった。
水滴を手に取ってみるが、普通の水だ。感覚を研ぎ澄ませて組成を調べてみても水以外の何物でもない。
この世界に、――雨。
初めてのことだった。
「……っ! 篝っ?!」
もしや篝の身に何かが起きたのか?!
慌てて篝のいる丘へと向かう。
「……くそっ!」
変化のない、夜の規定された世界で、何も起こるはずなどないと思っていた。
だけど、そもそも自分が現れた時点で、この世界は変化していた。
篝が最初に出会った頃、瑚太朗を絶え間なく攻撃していたのはそのせいだ。
変化を恐れていた。
事象は緩やかに移り変わるべきもの。それは篝の生存本能そのものでもある。
命とは変化に反撥する性質がある。
反応が早いといってもいいだろう。適応能力。いずれも命が備える資質である。
だからこの世界は夜が規定されている。
命は生きているだけで消費されていく。それを抑えて少しでも可能性を模索するために、この世界を構築した。
(俺の……因果が……)
篝の生存を脅かしている。
もしその現象がこの雨にあるのだとしたら。
「篝っ!!」
丘を駆け上がってみると。
篝は――泣いていた。
「か……篝……」
両手で顔を覆って、指の間から綺麗な雫が零れていた。
初めて見る篝の涙と、静かな慟哭に。
瑚太朗は動くこともできずただ――魅入られた。
「…………」
言葉もない。
静かに、ただ静かに涙を流す篝を。
どう思えばいいのか。
瑚太朗の中で何かがこみあげてきた。
それはかつて娘に抱いたのと同じもの。……同じ想い。
(なに……考えてんだ……)
だけどとまらない。
感情が溢れてきてどうにかなりそうだった。
彼女の流す涙は、それほど美しかった。
(違う……!)
この篝は、違う篝だ。鍵でもあり、生命そのものでもあるけれど。
娘とは違う!
もう二度と、同じ過ちを繰り返したりはしない……!
「篝……」
涙をただひたすら流し、雨で髪も服もリボンも濡れている彼女に、そっと手を伸ばす。
このままだと風邪をひいてしまう。
そんなどうでもいい考えがふいに浮かんだ。
「泣くな……」
瑚太朗がそう声をかけると。
篝は。
顔を上げて瑚太朗を見つめて、――そして。
縋りついてきた。
「……っ!」
瑚太朗を引き寄せて。
腰にしがみついてきた。
肩が小さく震えている。声もなく泣いていた。
……わかってる。
だけど。
この小さな命を、放っておくことなど……出来るわけがない。
篝を抱きしめた。
「もう、泣くな……」
泣いているのは、自分だった。
篝を抱きしめながら。
過ぎ去った遠い日々の中に――。
もう取り戻すことのできない、想いの欠片を拾いあげる。
ここにいるのは、きっと。
こうすることが必然だった。
「篝……」
柔らかな髪と、細い肢体。
暖かな身体。
それは悲しくなるほど懐かしい感触だった。
篝は泣きながら眠ってしまった。
(現象も、眠るんだな……)
篝を膝の上に乗せ、疲れたように眠る寝顔を見つめる。
雨はいつの間にかやんでいた。
通り雨のようにパラパラとしたものだったけれど。
篝への負担はかなり大きかったらしい。
見れば彼女の服も、リボンも、どことなく煤けていた。
まだ少し濡れているが、服が汚れるような雨ではない。現に自分は何ともない。
(あの雨は……)
おそらくだが。
アウロラが実体化したもの。
生命そのものが何らかの異常をきたして、落ちてきた。
思いあたることといえば……。
(俺しか……ない……)
篝、ひいては鍵を破壊するという因果を背負った自分。
その因果はもはや自分の中に収束し、現象として確定されてしまっている。
おそらく今命を失えば、もう二度と復活することは出来ないだろう。
(そうしたほうが……)
篝のためになるのかもしれない。
ここにいるのは間違いだった。
数多の世界で鍵に関わってきたことで……。
こうして篝の傍に現れてきてしまったことが、そもそもの――。
――あなたは。一人であって、一人じゃない。
かつての朱音の言葉がよぎる。
それが自身の消滅願望を押し留めた。
意味なんていまだによくわからない。
だけどそれは、自身にしか感じとることのできない確かなもののような気がした。
さっき話した、鏡のような存在の朱音。
あれは……一体誰だったんだ?
篝ではない。仮に篝が朱音を枝世界で見たとしても、あんなふうに蘇らせる意図がない。
もちろん自分だってそんなことやっていない。
ならば、あれは一体……。
だけど。
彼女の言葉。
あれは俺しか知らないこと。
朱音にだって知りようもないことだ。
「内部にしか……」
自身の内部だからこそ出来たこと。
矛盾を抱えたこと。
要するに、本来はありえない世界にいた自分が、ここにこうして存在すること自体が矛盾だった。
外因的には消去され、内因的には現存している。
あの世界にいた俺は、一度消えた。
だがあの世界の記憶を抱えこんだまま、つまり意識を保ったまま肉体を再構成された。
……これはどういうことなのか。
心象世界においては、矛盾にはならないということなのか。
瑚太朗は以前の跳躍で得た知識の一部を紐解いた。
フロイトの無意識概論。
ユングの夢理論。
どれも心理的な意味ではあるが、心の世界ではどのような矛盾だろうと矛盾にはならない。
だが……。
それは識域下での話であって、現在こうして肉体ごと矛盾を抱えている理由になっていない。
新たな理論でも必要なのか。
研究者にでもなってみるか?
(馬鹿馬鹿しい……)
朱音が言ったのは、そういう意味ではない気がする。
何か――自分でも気づいていない何か。
それがある。
必ず理由はあるはずだ。でなければ結果として今ここにこうしていない。
「…………」
篝が身じろいだ。
……起きたらしい。
瑚太朗は少し戸惑ったが、極力怯えさせまいと、出来るだけ優しく語りかけた。
「気分は……どう?」
見下ろすと。
篝は瑚太朗をジッと見つめた。
深く、吸い込まれそうな深海色の瞳で。
「……っ」
息がとまる。
まるで犯罪者が追いつめられたような気持ち。
何もしていないのだが。
ただ、その何もかも見透かすような瞳は、どうしようもなく心をざわめかせた。
「……」
篝はゆっくりと起き上がった。
どうやら見た目は、なんとか回復したようだ。
だが――。
様子が変だった。
「お、おい?」
篝は足元にある理論を見ようともしなかった。
ただ瑚太朗を見つめていた。
無表情で。
「…………」
息がつまるような数秒間。
本当に息をとめていた。
見つめているだけの数秒間が過ぎると、篝は空を見上げた。
もう雨はやんでいたけれど。
そして。
また。
瑚太朗にしがみついてきた。
「か…」
そのまま感触を確かめるかのように触れて。
瑚太朗の背中に手を回してくる。
何が何やらわからなかった。
明らかに様子がおかしい。
「篝……どうした?」
問いかけてみても、篝は瑚太朗にただ抱きついてきた。
それは本当に、ただの怯える子供のようだった。
「…………」
何かが起きている。
篝にも――自分にも。
それが何かはわからない。
だけど明らかに異質な、何か。
瑚太朗は必死にしがみついてくる篝を、優しく抱きしめるしかなかった。
to be continued……
もどかしい気持ちでいっぱいです。いろんな情報がこの話に隠されてます。
ネタバレしたい……!(待て)
いずれ少しずつ解き明かしていきます。ヒントだけひとつ。
二十一章に出てきた朱音さんは、篝が呼んだわけでも、瑚太朗がよみがえらせたわけでもないです。
彼女はもう一人の瑚太朗です。
おわかりいただけるでしょうか。(わからんだろ)
では、これからいよいよ佳境へと向かっていきますので、どうぞよろしく。