第二十章 止揚
朱音の匂いがした。
甘ったるいアイスの匂い。
少しコーヒーの匂いも混ざってる。……ははあ、アイスの上にコーヒーをかけてアフォガートにして食べたのか。贅沢な食べ方をしおって。
こっちは連日鍵を探して街中探索して疲れているというのに。
吐息が聞こえる。
髪をかきあげて、こっちを見下ろしていた。
実は薄目を開けている。
俺の薄目は誰にも見破られたことがない。親に説教されながら身につけた技だ。
部室のソファでうたた寝してると思って油断している。
むくむくと悪戯心が湧いてきた。
朱音が近づくのを待つ。
来たらその時が最後だ。
思いきり抱きしめてやる。
「……寝てるのよね?」
すぐ近くで聞こえる声。
いかん、口元がにやける。我慢だ。ここでバレるわけにはいかない。
「瑚太朗……」
囁くような声。
心臓が跳ね上がった。
まさか朱音がこんな甘い声で自分の名前を言うとは思わなかった。
途端に気持ちがピュアになる。
それまで妄想の中でそれこそあらゆる恥ずかしいポーズをさせていたのだが、全て霧散してしまった。
朱音を思いきり抱きしめたい。
だけど。
それは優しく、壊れものでも扱うように優しく、でも熱く抱きしめたくなった。
「起きないで、ね……」
朱音の唇が、こめかみに触れた。
……そこですか。
せめてほっぺとか。唇なんて贅沢は言わないから。
考えてみると、自分と朱音は、まだそれほど進展はしていない。
なんとなく行き着くところまで行くような気がしないでもなかったけれど。
ここは――押してみるか?
親父もお袋を落とすときは、押しの一手だと言っていた。
女は押しに弱い。
なんかそんなようなことを聞いた気がする。
朱音はじっと自分を見つめていたが、やがてそのまま立ち去ろうとソファの脇から立ち上がった。
その手を。
自分の方へ引き寄せた。
「……っ?!」
そのまま彼女を胸に抱く。
バスローブ姿の朱音。
……誘っているんですか?
そんな扇情的な姿で近寄られたら、どうなるかくらいわかっていそうな気もするが。
案外何もわかっていないのかも。
そんな子供っぽいところがある彼女に苦笑しつつ、自分の胸の中で身を捩って逃げようとするのを封じ込めて抱きしめた。
「ひ、卑怯よ……! 寝たふりするなんて」
「卑怯? どっちが?」
「離しなさいっ」
「会長。……俺、会長から報酬もらってません。今もらってもいいですか?」
「な……?」
「キスしたい」
朱音の顔を間近で見つめる。
みるみる真っ赤になってきた。
胸の谷間まで真っ赤になっている。……いかん。欲情してきた。耐えろ俺。
「そ、それは……報酬なら後でちゃんと小切手で!」
「不渡りは御免です」
「私がそんなセコイ真似をするとでも?!」
「会長ならしかねない」
「ぐ、ぐぬぅ」
「やはりするつもりでしたか」
「わ、わかったわよ。ちゃんと銀行振込で領収書もきるから……!」
「領収書はここにして下さい」
唇に指を押し当てる。
朱音は意味がわかったのか、真っ赤になって顔を背けた。その顔に指をかけてこちらに向けさせる。
彼女の戸惑いと恥ずかしさが顔中全体から伝わってきた。
やはり、押しの一手でよかったんだ。
普段あまり感謝などしたことがないが、このときばかりは親父に感謝した。
しかし。
今の俺はとてもピュアな気持ちだった。
朱音をあまり困らせたくない。
だから。
待つことにした。
「……朱音」
「……っっ?!」
「名前くらい呼んでもいいでしょう?」
「だ、ダメよ! そんなの、付き合ってるみたいじゃない!」
「そっちも名前を呼んだ」
「ぐ、……ぐぬぬ」
「いい名前じゃないですか。朱音って。俺は好きだな」
「す……好きって」
「明るくていい響きだ。……朱音。キス。してください」
それがトドメのようだった。
もう抗うことなど出来ないかのように。
朱音は震えながら唇を寄せてきた。
柔らかく押し当てられる唇。
離れては啄ばみ、何度もくっついては離れてを繰り返し、やがて深く口と口を重ね合わせた。
心の中では飛び上がりたいほどの達成感。
だけどその時の俺は、本当に自分で言うのもなんだけど、朱音から求められる以上のことはしなかった。
十分満たされていた。
胸に押しあてられる柔らかい感触には必死に抗っていたけれど。
朱音が少しずつ自分に心を開いてくれているような気がして。
嬉しかった。
……その時までは。
朱音に罪を背負わせた夜。
永遠の罪業を強いたことを悔やむつもりはなかったけれど。
朱音は、自分一人だけでその罪を負うのだとでも言うかのように。
罰を自ら刻み込むかのように。
痛みだけを求めてきた。
「もっと激しくして……いいから……」
涙すら流さず、繋がりを深めてくる。
自ら上に跨り、腰を振ってくる。
そんな朱音が見ていられなくて、起き上がって、きつく抱きしめた。
「朱音さん、こんなの……もう……やめてくれ」
「……瑚太朗」
「俺の気持ちは知ってるくせに……」
「どうしてそんなに……優しいの?」
「好きだからに、決まってるだろ……」
「私は、あなたに酷いことをしたのに」
「酷いことしたのは、俺のほうだよ」
「違う。私を助けようとしてくれた。許されないことをした私を……」
「俺が君を許せないのは……」
口づける。
想いの限りを込めてしても、彼女にはまるで届かなかった。
「俺を……置いて行ったことだけだ」
「瑚太朗……」
「二度と離れないでくれ」
「ごめんなさい……」
「何で謝る?」
「あなたを巻き込んでしまった」
「巻き込まれたなんて思ってない!」
「私なんて好きになってはいけなかったのに……」
「人を好きになるのに、理由なんているかよ!」
「瑚太朗」
朱音は両手で顔を包みこんで、そっと唇を寄せた。
彼女の諦めたような笑みが、ひどく心をざわつかせた。
「あなたは、間違わないで」
「何を……」
「私はもうこの運命からは逃れられない。だけどあなたはまだ道を切り開ける」
「朱音さんを見捨てることなんて出来るかよ!」
「……違うの。そうじゃなくて。聞いて、瑚太朗。人はみな、一人なの。孤独であるか集団に身を寄せるか。どちらであっても、人は一人。……だけどあなたは」
朱音は真摯な眼差しを向けて、瞳の奥をじっと見つめた。
「誰にもない強さを持っている。あなたは一人であって、一人じゃない。それは瑚太朗にしか持ち得ない力だから」
「なに……言って?」
「いつかそれに気づくときが来るはず。……だからそれまではいてあげる。私に出来るのはそれくらい……っん」
「もう、何も言うな……」
繋がりを強め、深く口づけ合う。
朱音がいつか離れてしまう気がして、怖くてたまらなかった。
だから繋ぎとめようとしてきつく抱きしめた。
この時――。
この言葉の意味をもっと深く受け止めていれば。
篝を失うこともなかったかもしれないのに……。
「それは、何?」
篝が指先に小さな光の帯を挟んでいた。
見た目は……あれだ。ポストイットみたいな。付箋とか呼ばれる類の。
キラキラ虹色に光り輝いているけれど、要するに、目印とかそういうものらしい。
それを。
空中に放り投げた。
「おっと」
落ちる寸前でキャッチする。
篝にとってはゴミだったらしく、もう見向きもしていない。
それに軽く苦笑して、拾いあげた虹色の帯を手に取って見つめた。
……なんだろう?
この小さな帯に、意味なんてない。
それこそ本当に目印だ。これ自体に意味も理屈も何もない。だけど。
篝はこれを捨てた。
捨てたこと自体に興味が出た。
つまり、目印になっていた、何かがあったということだ。
篝が目に留めていたもの。
数多の枝世界で、そんなものがあったのだろうか。
「…………」
もしあるとすれば。
篝は特定の世界に干渉を起こしているということになる。
彼女はただ見ているだけの存在ではないということなのか。
あの指先は、ただ構築されていく世界をなぞっているにすぎないものだとばかり……。
(篝が……もし世界間の事象干渉を起こしているのだとしたら)
自分がいたあの世界。
もしもあの世界が、生命の流れを停滞させるものだったとするなら。
可能性は閉ざされる。
枝が途切れる。
生命の流れは常に並列世界を編み出されなければならない。
それは命の本能のようなもの。
篝が生命を模索する存在ならば……。
(それも可能なのか……)
しかし、それでも。
自分に記憶が収束されて再構築された理由にはならない。
あの記憶は本来あってはならないもの。
存在ごと世界が消滅している。
何度考えてみても……。
(わからん……)
篝に聞いてみるわけにもいかない。そもそも言葉が通じない。
もう一度跳んでみるか……?
(やめとこ)
また戻って来れなくなる。
安易な跳躍は控えるべきだ。
気分転換してみたくなった。
「篝。……ちょっと散歩してくるよ」
断る必要などないけれど、一応声をかけてみた。
驚いたことに。
篝は瑚太朗を見て、小さく頷いた。
(おい……)
意思疎通が出来ている。
今までの努力の結果なのだろうか。……それとも。
(この篝は……)
どの――篝なのだろう?
長い夢を見すぎていた。過ぎてしまえば一瞬だが。しかしそれでも時差ボケが酷い。
篝という存在がわからなくなっている。
本当に散歩して気分転換してみる必要がありそうだった。
部室に行ってみた。
前に覗いたときは、確か式神からその気配がしていたが……。
「今度は……それかよ」
机の上に。
コーヒーをかけたアイスが乗っていた。
朱音の好物だった。
もちろん溶けることはないだろうが、しかし……。
「明らかに来るなって言ってますよね……」
朱音の命の気配は、そのアフォガートから漂っていた。
引き返すべきかとしばし迷ったが、仕方なく、椅子に腰かけた。
「ちょっと付き合ってもらいますよ。……そもそも貴女が発端だ」
朱音のせいではないけれど。
朱音が直接のきっかけをつくった。
本来であれば、あの世界は静かに衰退していくだけの、ひとつの閉じられた世界だったはず。
それがしっちゃかめっちゃかにされて、ものの見事に消滅した。
いろんな人が犠牲になった。
……だが。
「貴女がいたから……篝と出会えた」
この想いに気づくことが出来た。
昔。
自分は鍵と出会った。
出会った直後に殺されかけた。いや、殺そうとしてしまった。
それだけで済めば、それで終わっていたことだ。
数多の世界で、いつも自分は鍵を何の疑いもなく殺そうとして、または守ろうとして、結局鍵をいつも救えずにいた。
鍵が世界を滅ぼす存在だったことが、自分をその選択に導いた。
守ろうという気も、小鳥がそうしていたから手助けをしただけ。
鍵とは自分にとって、本来そういう存在だった。
……なのに。
「俺は鍵を……愛した」
考えてみれば最初からそうだったのだ。
あの瞳を見上げたときから。
だけどそれは封印されたままで、思い出したのは……。
「貴女がいたあの世界があったから……」
篝が生まれたことで。
自分の奥底にあった想いを紐解くことが出来た。
朱音と結ばれなければ。
篝と出会うこともなかった。
「篝……」
忘れられない。忘れたくない。
彼女がいない世界などなんの意味もない。
だけど篝が自分という存在を残してくれた。
この想いをずっと抱えたままなのは、苦しくて辛くて、それこそ泣きそうだけど。
もう二度と篝という存在を失いたくはない。
なぜあれほどたくさんの可能性世界で、俺は鍵を見殺しにしてしまったのか。
今さら気づいたところで、もう……。
篝を失って初めて。
鍵を見殺しにしてきた今までの自分に恐れ慄いた。
自分が恐ろしくなる。
これじゃあまるで……。
「鍵を殺すために、存在してるみたいじゃないか……」
口に出してみて。
その事実に――気づく。
それは……。
考えたくもない、ことだった。
「嘘……だ……」
瑚太朗は。
目の前が絶望で真っ暗になるのを、感じた。
to be continued……
「止揚(aufheben)」とは哲学用語で、「命題(these)」「反対命題(Antithese)」の第三定義にあたる言葉です。
この話の場合、瑚太朗が鍵へのアンチ存在だということに気づきますが、それは第三の解答が用意されているということです。
タイトルからしてネタバレですね(苦笑)
朱音の言葉にヒントが隠されております。回答者お待ちしております!(いないって)