第十五章 表裏
それはオカ研での活動をまだしていた頃。
部室にいた瑚太朗が何気なく発した一言に、朱音が切り捨てるように呟いた。
「会長~。いい加減オカルト認めたらどうです? 会長がオカルト認める世界だって存在するかもしれないじゃないですか」
「ありえない世界ね。エヴェレットの多世界解釈でも持ってこない限り」
「エヴェ……なんですか?」
「エヴェレット多世界解釈論。ゲームやSF小説でよく使われる手法よ。分枝した並行世界は一元観測者の主観では相関していない他の分枝した世界を観測することはできない」
「……??? つまりどういうことです?」
「おバカな天王寺にもっと分かりやすく説明してあげると、この一枚の紙の表側は私が、裏側は天王寺が見ている面になるでしょ?」
「はあ。それが?」
「この紙の真ん中に穴を開ける。すると私にも、天王寺にも、同じ穴が見える。だけどこの穴は誰が開けたものかしら?」
「そりゃ、いま会長が鉛筆で穴を開けたんでしょ」
「いいえ。穴を開ける前は、私でも天王寺でも、どちらでも鉛筆で貫くことができた」
「貫くとかエロいこと言わないでくださいよ」
「そのセクハラ発言は後でツケにしてあげる。つまり、穴を開ける前の状態では、この紙を通してお互いを見ることはできないってこと。ここまではわかるかしら?」
「まあ、そりゃそうっすね」
「この紙の表と裏を、それぞれ別の世界だと捉える。互いに観測できない状態のことね。だけどヒュー・エヴェレットはこの紙に穴を開けた状態でも、量子力学的に見ると、私が天王寺を穴を通してみることは不可能だという決定論を導いたの」
「え? だって見れるんじゃ」
「この紙はお互いの世界の領域だと捉えなさい。世界間の干渉は起こりえない。紙の表と裏は、表が裏になることも、またその逆もあり得ないわけ。つまり」
「穴を通した状態で見ても……それは会長が俺を見てることにはならない?」
「意外と頭の回転がはやいのね。そういうこと。観測者はあくまで観測した時点で世界が決定される。穴を通して見た世界は、私の場合はあくまで表側から見た世界。裏側である天王寺を見ているわけではないということね」
「そんなの暴論じゃないっすか」
「量子力学ではそれが起こり得る現象なのよ。詳しくは省略するけど、この理論で考えると、天王寺が私の胸を揉む世界は私が観測しない限り不可能ってことね」
「結局それが言いたかったんかい、あんた!」
瑚太朗は路地裏でマーテル本部の職員のローブを奪い取りながら、なぜ今頃こんな会話を思い出したのか、自分でもわからなかった。
当身だが当分は目を覚まさないはず。今騒がれたら本部に侵入出来なくなる。急いでローブを羽織った。
本部を見上げる。
もうあれから五年以上経つ。セキュリティレベルが変更されていなければいいのだが……。
(なぜ……朱音との会話なんて)
あんな大昔のくだらない雑談など、今の今まで思い出すことなどなかったのに。
わからない。だけど。
何か大切な意味を持つような気がする。
それが何に起因するのか、自分でもさっぱりわからないのだけど。
(今は考えたって仕方ない)
早く篝の元へ向かわねば。
瑚太朗はフードを深く被って足早に本部入口へと向かった。
マーテル本部の中央ホール。
人工来世であるこちら側でも現世側と造りは変わらない。
吹き抜けのホールは某巨大地下放水路のような神殿造りになっており、中央階段から放射状に各施設へと行けるようになっている。
観測者の木のある地下施設入り口は確か……。
(あそこの従業員入口でカモフラージュされていたはず)
そこから非常用出口、厨房、地下倉庫、とあちこちの通路が迷路のように繋がっていた。
簡単には辿り着けないようになっているのだが、本来なら直通できる外側からの通路が埋められているため、本部から行くしか方法がない。
瑚太朗は辺りを見回し、人気のないことを確認して従業員用入口へと向かった。
そのとき。
「……っ?!」
頭の中に響いてきた声。
違う、声ではない。風と大地が共鳴するような聞き覚えのある歌。……これは。
(滅びの、歌……っ?!)
すぐさま周りのスタッフを見渡す。彼らは特に気づいた様子もなかった。挙動に怪しげなところはない。
聴こえているのは自分だけなのか、と瑚太朗は歯噛みした。
(いずれみんなにも聴こえるようになる。……急がないと!)
歌を歌ったということは、もう時間がほとんど残されていない。
鍵がついに行動を起こした。
この人工来世を間違いなく滅ぼすつもりでいる。
なぜ……?
そもそもこの世界は、放っておいても勝手に滅ぶというのに。
だが。
(鍵とは……そういう存在だ)
大地の化身。星の意志。
人間に裁きを下す裁定者。
そもそもそういう設定だ。鍵自体が自分の意志で滅びを中断したり中止することなどありえない。
(何が歌わないであげるだ)
まんまと担がれていた。
しかし。
(この人工来世で……星の意志だと?)
瑚太朗の中でそれだけが引っかかっていた。
ここは人工的に作られた空間であり、大地も星も存在しない。――あえていうなら。
(人間の命が資源なら、人間自体が星、ってことになるけど……)
暴論かもしれない。
しかし他に考えようがない。
鍵がそもそも生まれる要素が見当たらない以上、篝の姿を借りて発生したというのなら、人間に裁きではなく、人間を食いつぶそうとしている魔物に裁きを下すということになる。
魔物……。
(鍵も……魔物だ)
大地の魔物だ。
この場合はどうなるのか。
魔物が魔物を滅ぼすということなのか。
(悪循環しかないだろ)
閉塞された限られた空間。
この歪んだ環境が、世界を滅ぼすことの一因ともなっているのかもしれない。
瑚太朗はセキュリティカードをドアキーに押し当てた。
(これは……!)
観測者の木へと至る地下通路を通り抜けて、地下の起動システムがある観測者の部屋の扉の前で瑚太朗は足を止めて呆然とした。
扉が溶接されている。
それもほとんど継ぎ目が塞がれている状態。道具でもない限り反対側へ行くことは不可能だった。
おそらく二度と使われることがないようにしたのだろう。
外側から繋がる通路は土で埋められたが、ここからなら入れると思ったのが甘かった。
(くそ……っ!)
時間がない。
さっきから頭に響く歌がだんだんテンポを変えている。まだ序章だがこの後どう展開するのかを瑚太朗は知っていた。何度も朱音に付き添って聴いていたのだから。
歌が展開部まで進むともう滅びを止めることは出来なくなる。
どうする。
道具を取ってくる暇などない。ここに辿り着くまでに職員を数人倒した。やがて追いつかれる。
残された可能性は……。
(これしか……ねえか)
意識を右腕に集中する。
もう能力は残されていない。
だが朱音の出産時、瑚太朗は命の限りを費やして一度だけオーロラを出現させた。
あれで寿命のほとんどを使ってしまった。
成長がとまっているように見えるのはおそらくそのせいだろう。残された命はもう……。
だが。
篝を救うためならば。
残された命をすべて使い尽くしてでも。
辿り着いてみせる。
「………………………………」
瑚太朗は目を瞑った。
思い出せ。
自らの資質を引き上げるイメージ。
右腕に宿る命のかけらを引き寄せる。
それは原初から連綿と引き継がれている遺伝子の情報。
自分になぜその力があるのかわからない。
だけどあった。……それだけだ。
地竜と戦ったときを思い出す。
あの時俺は一瞬一瞬で進化した。
積み上げた技能を高みへと昇華し、戦いながら効率を獲得していった。
そして果てしない悠久の進化の果てに、二度と使いものにならなくなる能力を得た。
鍵の持つリボンと同質のオーロラの布。
布でありながら刃物でもある極光の刃。
それを得た。
地竜との戦いで竜以外の何物も斬れることのない進化したその刃で。
俺は朱音の命を救うことが出来た。
(思い出すんだ……!)
あれは刃であり、命そのもの。
陰であり、陽であるもの。
対比する二つの世界。
……そうか。
重なり合うことのない世界。エヴェレット解釈。
それは自らの内に存在した。
内在する無意識の混沌の中に。
二つの世界の存在を感じ取った。
――共時性。
知らない単語が浮かぶのに、それは今の自分にこれ以上はなく当てはまる気がした。
(篝……!)
娘であり、愛しい女の顔を思い浮かべる。
彼女に会う、ただそれだけのために。
命を――燃やし尽くす!
「う……ぉおおおおおっっっ!!!!」
――シャッ…………!
何かが斬れるような音が聞こえたと同時に。
瑚太朗は意識を失った。
to be continued……
瑚太朗が最後に思い浮かべた言葉――「共時性」。
この話の最後に行き着くテーマです。
どうか最後までお付き合い下さい。