百足と少年
小さな少年が瞳目に涙を貯めていた。
天井は高く部屋の端から端までは少年の足でも二歩程度しかない。壁に装飾はなくただ白い壁と柔らかな敷物の敷かれた床があり、壁の高い所に採光用らしき小窓があるのみだ。
少年は扉を叩きすぎて擦りむけた手をきつく握りしめながら座り込んでいる。
ついでに頬も殴られたのか赤く腫れ上がっていたがそれでも泣きたくない理由が少年にはあった。
こつん
ガラスに硬く小さなものが当たるようなその些細な音を少年は聞き逃さない。
慌てて立ち上がりポケットから出した小さなガラス球を窓に向かって投げつける。何度かの失敗のあと窓にぶつかり、甲高い音を立てたガラス球をそれ以上音が立たないようそっと受け止めた。
ガラス窓から差し込んだ月明かりに影が入り込む。それは酷く巨大なビーズのネックレスのようにしなやかで、至る所から折れ曲がったイバラの棘のようなものが生えていた。少年の顔が明るくなる。
しばらくガラス戸が人為的に揺さぶれられるよう震え、一際大きな音を立てて外れた。少年が一週間ほど前から切れ込みを入れていたのが役に立ったようだ。壁に写り込んでいた影が動き出すとすぐに月明かりすら埋めてしまうほどに近づいて、それが解るようになった時には既に壁にその体の一部を這わせていた。
窓から入り込んだのは巨大なムカデだ。
「予定通りね」
触角を揺らしながら声を発したのはムカデの方だった。
「うん」
ムカデの体が壁伝いに少年の顔の近くまで降りてくる。一体どれほどの長さなのだろうか。
少年が得意げに両腕を上げると、いつもそうしているかのようにムカデの足が三対ほど伸びて少年の体を絡めとった。少年もムカデの背中に手を回ししっかりと抱きついている。
「僕が案内するから、しっかりついてきてね」
少年がガラス窓を見上げながら言う。その頬を触角が確かめるように何度も叩く。
「もちろんよ」
ムカデが鋭利な顎肢を何度も閉じたり開いたりしているが、少年は恐れることはなかった。
二人は音も無くガラス窓から外へ出て行く。後には何も残らない。
外は程よい湿気と熱くも寒くもない爽やかな風の吹く天気の良い晩だった。齧りかけの焼き菓子のような月が静かに輝く。白い砂利が至る所に備え付けられた炎の光を反射するその通路は片方が明るい屋敷へ、もう片方が暗い林へ入っていく裏口へと続いている。二人の顔は裏口の方へと向いていた。
二人は無言で歩き出す。少年の軽い体は砂利を踏みしめても大した音は出ない。ムカデも音もなく体をくねらせながら進む。30本以上はあるであろう太い針のような足は小石を変に踏みつけて音が出ないよう細心の注意を払っているようだ。
少年が居た部屋のある建物の影から出ようとした時、地面に人の影が伸びてきた。二人は慌てて下がり少年は壁に身を寄せる。対してムカデは壁から屋根へ上がり、注意深く建物の向こう側の通路へと視線を走らせた。
「あら……」
思わず漏れた声にムカデ自身が苛立たしげに顎肢を震わせる。
複数人の男たちが小さな納屋の周りに藁を積んでいた。その脇においてある樽には油が入っている。
さらに念入りに油を振りかけられた藁に松明の火が近づけられようとしていた。
その納屋はつい先程前までムカデが居た場所だった。ムカデは黙って体を曲げまた音もなく地面へと戻っていく。火の付き始めは男たちの視線も納屋以外には向けられないだろう。二人は素早く建物の切れ目を通り過ぎていった。
少し歩けばもう裏口に着いてしまう。少年は裏口から、ムカデは柵を安々と越えて林へと入っていく。
「多分すぐ大人たちが探しにくる。もうちょっと歩いた先にいっぱい岩があって、その隙間に入ると大きい洞窟にいけるんだ」
走りだした少年がやや息を切らしながら言う。
「なんでそんな抜け道を知っているのよ」
ムカデがため息混じりに問うのに少年は笑顔で答えた。
「昔からある抜け道なんだよ。父さんは知らないけれど、庭師のおじさんが教えてくれたんだ」
「ふうん」
せっかくの返答をムカデはつまらなさそうに流す。
少年の息が苦しいものに変わらない内にその岩場が見えてきた。
一見隙間なく積み重なっているようだが一際大きな岩の下には確かに寝そべった大人がかろうじて通れる程の穴がある。このムカデにとっては十分な大きさだ。
「じゃあ、これでお別れね。気付かれないよう帰りなさいよ」
穴を覗き込んでいたムカデが頭をもたげて少年の顔を見据えた。
「……うん」
しばし俯いていた少年はこらえきれなかったのかムカデに飛びつく。
「いつか必ず会いにいくからね!」
ムカデはしばし困って何本もの足を震わせていたがやがて観念したように少年の体を抱き返した。
「そうねえ。あなたがちゃんと覚えていたらいいけれど」
「覚えてるよ!」
ムカデの言葉に少年が怒ったような顔をする。
「だから、あなたも僕のことを覚えておいてね。忘れないでね」
「はいはい。解ったわ」
面倒臭さそうに少年の背中を叩くムカデだったが、触角は警戒するかのように張り詰めている。彼女の鋭敏な感覚はムカデが納屋の中にいないことを察した人間たちの声を察知していた。
「……もう行かないとね」
お互いの拘束を解いた二人はほんの数秒の間見つめ合っていた。
「待っててね」
少年が言う。もはやその目に涙はなく瞳は力強い輝きを有していた。再会を確信するように。
「楽しみに、待ってるわ」
ムカデは少しばかり笑って、素早く岩の隙間へ体を滑りこませた。その素早さは柔らかな風を起こし少年の前髪を巻き上げる。
「ばいばい。シャルル」
少年は気配のない岩の隙間に向かって小さく手を振り、屋敷の方へと走っていった。
一章一物語って感じになりそうです。