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埋葬虫の弟子  作者: デオキノコムシ
第一章 墓守の弟子
6/9

決別

 少し考えれば解ることだった。


 たった1人の血縁者である私がいなくなれば、母の墓に金を出す人間などいないことなど。祖父母はおらず父の話も聞いた事がない。

 毎日酒と薄汚い快楽に溺れ、私に飽きた男の1人をベッドに引き込んで踊り狂う女にそんな情けをかけてくれる人間などいないのだ。

「……母さん」

 吐き気を堪えながら絞り出した声にキャメルが小さな悲鳴を上げた。

 バイロンは何も言わないまま私と同じように棺を覗き込む。

「撲殺だな」

 一言、呟いた。

 母の顔は腐ったリンゴのような色になっていた。記憶の中では白かった肌の面影はまるで無く、美しかった顔も醜く腫れ上がってしまっている。首には締めあげたような手形の痣がありそれ以外にも体中に暴力の痕跡があった。

 それでも母だと断言できるのは私と同じ髪色をしていたからだ。

 傷みきってごわついているが村でたった二人だけの黒髪は見間違えようもない。

「イネス。辛かったら下がっていろ」

 バイロンが肩に手を置いたが、私はそれを振り切ってキャメルの腕を掴んだ。

「キャメルさん、だめです。産卵は諦めてください!」

「え……!」

 諦めてもらわなければ。母に産卵などしてもらいたくない。なぜなら、

「こんな人間の肉なんか食べたら、貴方の子供が汚れてしまう……!」

 二人の動きが止まった。

 母のことはずっと死ねばいいと思っていた。なるべく苦しみ、誰にも悲しまれることも感謝されることもなく寂しく死ねばいいのだと。ほとんど達成されたのに、目の前には死体を糧にして命を繋ぐ者達がいる。

 誰かのためにこの死体が活用されることなど耐えられなかった。死体を食べてくれる者達にすら敬遠されるような扱いこそが望ましいのに。

絶叫にも似た声でそう何度も叫び続けた。

「イネス!」

 バイロンが私を羽交い締めにしてキャメルから引き剥がした。それでも私は叫ぶ。

「こんな奴! こんな奴なんか食べたら、シデムシがおかしくなる! だめです! 絶対に!」

「やめろ、落ち着け!」

 バイロンが強く私の腕を掴んだ。爪が食い込む痛みが鮮烈に流れ込む。手からこぼれ落ちた松明はバイロンの足で踏み消されてしまい、辺りを急激な闇が包んだ。

 暗闇に驚いた体が止まり、そこでようやく頬を伝う生ぬるい感触に気づく。

「イネスさん」

 キャメルの優しげな声が近づき私の頭を硬い手が撫でた。

「この方はイネスさんにとって憎むべき相手なのかもしれない。でも私は、何を食べたってこの子が素晴らしいシデムシに育つって信じています」

 きっとその時、キャメルは優しく微笑んでいたのだろう。

 力を失った体をバイロンの中足が支えている。彼はそのまま動かず言った。

「キャメル、産卵を終えたら棺を戻しておいてくれるか」

「はい」

 暗闇に眩んだ目でもキャメルが体の向きを変えるのは認識できた。おそらく腹部を母の死体に近づけているのだ。

 私はその光景全てを見届けることはなく、バイロンに引きずられて森の中へと引き返していった。

「あの……」

 かけるべき声は見つからず、彼もまた何も話さないまま早歩きをしていた。

 来た時とは異なる道を行くとやがて坂になっていく。その頃には自力で歩けるようにもなりバイロンに手をひかれるまま歩みを進めていた。空は僅かに明るくなり始め星々の光が薄くなってきている。

 不意にバイロンが立ち止まり、空を見上げていた私は思い切り彼の背中にぶつかってしまった。

 彼に背中を押され前へ出ると、目前に広がったのは森を眼下に見下ろすことの出来る平らな岩場だった。岩場まで足を進め岩の縁まで登りつめると空と森の境目に太陽の気配を感じさせる橙色が染み出ているのが良く見える。

「こっちだ」

 さらに手を引かれ、幾つかの岩を超えると丁度二人ほど座れそうな岩が現れた。半ば無理やりそこに座らせられるとバイロンがずっと中足に握りしめていた葉の包みを渡される。

「昨日グレージュが作った蛇肉の蒸し焼きだ」

 食べろということなのだろうか。死体を見た後に食事が来るとは実にシデムシらしいと思う。

 拒否することも出来なさそうなので包みを広げると、白くふんわりとした蛇の肉が現れた。私の二の腕ぐらいの長さがあり幅も申し分ない。これほどの肉を口にするのは初めてだ。

 母の死体を見た後だったのに、急激に襲ってきた空腹を感じ蛇肉に齧りついた。

 バイロンもその様子を見て満足したのか私の隣に腰を下ろす。彼はしばらく何も言わずに地平線を見ていた。

 自分の咀嚼音とかすかな風の音だけが流れる。

 15本目の小骨を葉の上に並べた辺りでバイロンが大顎を開いた。

「落ち着いたか」

 中足を組み、前足の肘を太ももに乗せることでやや近くなった彼の視線が突き刺さる。

「……一応」

 それでもキャメルを止めたかったとは思う。

 彼はその思考を見透かしたかのように言った。

「キャメルの子だ。きっと良い子に育つだろう」

 彼の触角が風の吹くままに揺れている。その穏やかさが逆に私の心にさざなみを立てた。

「私はそんな簡単に受け入れられないです」

 自分の言葉の棘に気がついたが既に吐いてしまったものは取り消せない。私はただ俯く事しか出来ず、彼はそんな私を頬杖をつきながら見ている。

「そうして死んだものにこだわるのは人間特有だな。俺達にはない感覚だ」

 はっと顔を上げその目を見つめた。時たま読めていたはずの感情が今は全く解らない。

 彼は今の私をどう思っているのだろう?

 人間を理解できないとでも言うような素振りを見せたのは今回が初めてだ。私が産卵を拒否したからだろうか。

「だって、私は人間ですから」

 そう返すので精一杯だった。再び蛇肉に食らいつく。今度は丁寧に骨を取り除くなどせず、そのままぼりぼりと噛み砕いて飲み込んだ。

「別に馬鹿にしているわけではない」彼はため息混じりに言う。

「イネス、シデムシの本能は変えられない」

 彼の視線は眼下の森へと移っていた。僅かに太陽の片鱗が見え始めている。

 その声はいつになく暗い響きを含んでいた。

「死を求めて彷徨い、死体を埋め、卵を産み付けて次の命に繋ぐのがシデムシの全てだ。お前の黒い憎しみと苦悩を背負ったあの死体に唾を吐きかける事もできない。死体を糧にして生きていく事しかできない。シデムシであるということはそういうことだ」

 バイロンの瞳は悲しげだった。

 なぜそんな目をするのだろう。シデムシであることを呪っているわけではないはずだ。なら今ここにいる1人の人間が死体に囚われているのを哀れんでいるのだろうか? それを理解できない異種間の溝に嘆いているのか?

 どちらにせよその目は私の胸の奥を疼くような痛みで苦しめた。

 彼の中足は落ち着きなく何度も組み替えられている。

「お前に次へ進んで欲しい。母に囚われるな。お前を苦しめた者は報いを受けて死んだ」

「……次」

 心の中に落ちてきた単語を呟く。

 私はここから先選ばなければならないのだ。自分がどうするのか、どうしたいのか。

 バイロンの大きな手が私の頭を優しく撫でた。

「今が歩みを進める時ではないのか?」

 母親がいなくなって、私を村に縛り付ける思い出が一つ減った。だからそろそろ選べと言う。

「俺は俺の責任を果たす。お前が歩みを進めようとして、もしその足を掴み妨げる者が現れたなら」

一呼吸おいて、彼は心を決めたように言う。

「その時は、俺が守る」

 バイロンの声には真摯な響きが感じられた。巨躯の黒い昆虫人が、今ここで立ちすくんでいる1人の小娘を守るのだと言う。

私の心臓が痛いほど脈打った。

「なぜ……そこまでしてくれるんですか?」

 夜の問いかけを再びしてしまう。どうしても理解ができなかった。

 バイロンが私にここまでしてくれる理由が。

 彼はその問いかけを前にして前足まで組み黙りこんでしまった。何かを迷っているようだ。

風に揺られていた触角がぴんと張っている。

「やはり、わからん。だがきっとここでお前を手放したら俺は死ぬまで後悔する。納得してもらえるだろうか」

 彼は言い、小さく首をかしげて私を見た。

 今の所はそれで納得するしかないのだろう。バイロンが形容できない感情を私が形容することは出来るはずもない。

 だから少しだけ微笑んでそれに応じた。

「ありがとうございます」

「……なら、少しずつで良い。自分の弱さも無力さも、できればあの母親も……少しずつでいいから許してやれ」

そこでやっと彼が夜に言った言葉の意味を理解した。

 彼に許されたところで、私が過去の自分に腹を立てて後ろを見ているばかりでは何も変わらないのだ。それでは次へ進めない。

 頬を撫でた深緑の香りがいっそう鮮烈なものとなる。

 私は残った蛇肉を一気に頬張ってたっぷり噛み締め、飲み込んで口元を拭った。

「そうですね」

立ち上がり、私は初めて彼に手のひらを差し出す。

「やってみます。一緒に、戻ってくれますか?」

「ああ」

そうして重なった彼の指を強く握りしめた。




 母の墓の前に立つと、キャメルとバイロンは何も言わずどこかへ言ってしまった。

 ここからは私一人で母と向き合わなければならないのだと言うように。もとよりそのつもりだったため文句はない。

「……母さん」

 母の眠る穴の前にしゃがむ。指先で盛られたばかりの土を撫でた。

逃げていたものを前にしてやはり臆病な私が顔を出している。喉の奥が乾いて張り付くようなのは、水を飲んでいないせいだと思いたい。それでも時間をかけて声を出した。

「私はやっぱり母さんが嫌いだ。何があったか知らないけれど、やっぱり母さんは母親になるべき人間じゃなかったと思う」

 視界がぼやけ暖かい液体が頬を伝う。ここに来てから泣いてばかりで情けない気持ちになってきた。村に居た頃は泣くことなどほとんどなかったのに。

 それは泣いても無駄だからと悟っていたからなのだろうか。今はバイロンが慰めてくれるから甘えて泣けるのかもしれない。その甘えが正しいものなのかはわからないが、それでも私は沢山彼らに救われた。

 だが強くならねば。

「母さんの元にいて、楽しいことなんて一つもなかった」

「母さんは私のことが嫌いだったの? 私が生きていたことってそんなに悪いことだった?」

「私を弄んで楽しかった? 母さんはなんのために私を産んだの?」

「今更答えられないよね。私の話なんか最後までまともに聞いてくれなかったね」

「正直ざまあみろって思っているんだ。きっと苦しんで死んだんだよね。悪い男にひっかかったりしてさ」

 嗚咽混じりの声で矢継ぎ早に続ける。

 初めて母を責めている。

 脳裏に母の言葉が蘇った。

『私がいなければ何もできないくせに』

「母さんがいなくたって、私は上手くやっていけるよ。私は自分を信じてる!」

『お前は人間未満なんだから、普通に暮らすなんて無理だよ』

「人間なんか知らない! 私は私が幸せだって感じられればそれでいい!」

 そうして母に投げつけられた言葉の一つ一つを握りつぶして地面に投げ捨てた。

 体も心も憎しみに燃え上がるようで、私はこんな事をずっと繰り返すのかと不安になる。だが、その熱は少しずつ収まっていった。

 そうすると段々頭が冴えてきて不意にキャメルの子供のことが頭をよぎった。

「その子をきちんと外に送り出せなかったら、恨むから」

 その言葉を最後に立ち上がる。

 背後で砂利を踏みしめる音が聞こえ素早く振り返ると、小さな野花を持ったキャメルとバイロンが立っていた。

「問題なさそうだな」

 バイロンの一言に小さく頷く。

 彼の言う通り、私の心は少し晴れやかだった。心に沢山開いた穴から溢れだしていた血が全て拭い去られ、まだ開きっぱなしだが、その穴を通り抜ける風を感じられた。

 きっと彼らに出会ったことで私は少し変われたのだろう。

 再び墓の方へ振り返る。

「その子が出てきたら、少し許すよ、母さんのこと。言いたいことは言えたから」

 キャメルが歩み出て白い野花を土の上に置く。しゃがんだままの姿勢から首だけ動かして私を仰ぎ見た。

「お花を持ってきたの、勝手だったかしら。それでも貴方のお母様を食べて生まれてくるから……」

 そう言って風に触角を揺らしている。

「いいえ。きっと頑張ってくれると思います」

 一際大きな涙の粒を拭って返事をした。

 いつの間にか隣にはバイロンが立っていて、太い前足で私の肩を抱いている。

 もう泣くべきことなど無いはずなのに、心は晴れやかなのにそれでも涙は止まらなかった。今までの分全てを洗い出すかのように流れ続けるのだ。

「バイロン、さん、これで泣くの、最後にしますから。今だけ、沢山泣いてもいいですか?」

 ぐしゃぐしゃの顔で彼を見上げる。

「ああ」

 バイロンが短く言って、全てから私を隠すように強く強くその胸に抱きしめてくれた。

 熱のない腕の中で体が熱くなり自然と声が溢れだす。


 今までまとわりついていた全ての憎悪も殺意もしばらくは脱ぎ捨てよう。

 進んだ先で必ず受け止めて抱きしめるから。

ずっとこの辺りのシーンを書きたかったはずなのに、今回はとても難しかったです。もしかしたらいつか手直しするかもしれません。

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