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埋葬虫の弟子  作者: デオキノコムシ
第一章 墓守の弟子
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他の食べ物


 冷たい水が、痩せた頬を撫でていく。


「目は覚めたか?」

「はい、おかげさまで」

 顔にへばりついた髪を振り払いながら応える。

 こんな風に贅沢に水を使って顔を洗うことなど、村での生活では考えられなかった。

 バイロンにとって負担にならないか心配だったが、彼の話ではここは比較的水に恵まれているらしく、洗顔すら許されないほど切羽詰まった状況は考えられないらしい。つまりは私のいた環境が異常だったという訳で。

 異常なことと正常なことを少しずつ理解していかなければ。

 それにしても、生活の違う昆虫人に常識と非常識を教えてもらうとはおかしな話だ。口元に自嘲の笑みが浮かぶ。

 足や腕も少し洗って、結局空になった桶を返す。私が顔を洗うように彼も触角を綺麗にしていたようだった。水は使わず多くの昆虫がするように自分の口を使っていた。

 口に咥えた触角はしなる力でぴんっと口から逃れてしまうので、また手で口元へ持っていかなければならない。それはウサギが耳を洗う動作にもどこか似ていて、屈強な見た目の昆虫人に不思議な可愛らしさを与えている。

「どうした?」

 その様子をじっと見ていると、いつの間にか彼が怪訝そうにこちらを見返していた。

「な、なんでもないです!」

 慌てて顔を背けるが、口元がにやつくのは消えてくれない。

「ああ……悪いが着替えはもう少し我慢してもらえるか。手に入れるアテはあるが、時期がな」

 彼は何を勘違いしたのか私が着替えをしたがっているのだと思ったようだ。

「大丈夫ですよ」

 慣れているから、とは言えなかった。人生の内で服をもらったことなど数えるほどしかない。今着ているのも近所の優しい人が同情からくれたもので、それが母の逆鱗に触れて普段より酷い目に合わされたことをよく覚えている。

「そうか」と彼は短く応えた。

 身支度を終え、昨日の約束通り食事を探しにいくことになった。

 まだ夏は始まったばかりで朝日が見えない外は肌寒い。バイロンから借りた大きな布を羽織って外へ出る。

「わ……!」

 目前に広がる景色はまるで夢物語のようだ。白い岩肌と砂利の敷き詰められた外は大勢のシデムシ達の行き交う場所となっていた。私が来た時はその気配も感じられないほど静かで、まさかこれほど沢山いるとは思いもしなかった。

 見回せばバイロンとは少し違うシデムシもいるようで、艶々とした表面だったり、鮮やかなオレンジ色の模様が入った者もいる。

 皆忙しそうに動き回っていた。

「我々は基本的に夜行性だ。強い陽の光は苦手で、夜中や朝方、夕方に食事を取りに行く」

 すぐ後ろにはバイロンが立っていた。薄暗いが陽光の下となると、やはり炎の前よりもよりはっきりと見える。鞘翅はつや消しの黒だが内側の体は艶があるようだ。他のシデムシより大きく、横幅があるためどっしりした印象があった。

 姿のほとんど見えない夜でなければ、流石に恐ろしくて逃げ出していたかもしれない。彼の四本しか指のない手は鋭い爪が大半を占めている。簡単に引き裂かれてしまいそうだ。

 私がそんなことを考えているなど夢にも思っていないだろうバイロンは、日が昇る方向を見つめている。

「朝のうちに食料と探さないといけないですね」

「そうしてもらえるとありがたい」

 バイロンについて広場に降りて行くと他のシデムシ達が物珍しそうに私を見ていた。声をかけてくるものはいないが避けられているわけでもなく、ただ見慣れない存在に戸惑っているように見える。とはいえ居心地が良い訳ではなく、私はなんとなく身を縮めてバイロンの後を追っていた。

「おや、お出かけかい?」

 この軽い口調には聞き覚えがあった。バイロンも立ち止まり、右前方の自分と同じシルエットへ触角を向けている。

「グレージュか」

 バイロンはそう呟いただけで、お辞儀して挨拶したのは私とグレージュだけだった。

「おはようございます」

「おはよう。そういえば、昨晩はお嬢さんのお名前を伺うのを忘れていたよ」

「イネスといいます」

 軽く会釈すると、グレージュの触角が満足そうに揺れた。

「よろしく、イネスちゃん。これから食事を探しに行くんだろう?」

「ああ」

 私の代わりにバイロンが答えた。グレージュは兄なのだから付き合いが長そうだが、対応は私相手とそう変わらない。元々そういう性格なのだろうか。堅いというか、無愛想というか。いや、愛想というか優しさは感じるけれど……。

「なんか食べられそうなものを見つけたら私も持ってくるよ。しっかり世話するんだぞー」

 グレージュがバイロンの肩を叩くが、人間のようなぽんぽんとかいう優しい音ではなくゴンゴンという堅い音がする。バイロンは兄の軽い態度が鬱陶しいとでも言いたげに中足を組んでいた。

 グレージュの方も慣れているのだろうか、ひとしきり勝手にしゃべると私をちらりと見て頭を掻いた。

「いやあ可愛くない弟を持つと大変だ。早く可愛い妹でも欲しいもんだねえ」

 彼は爽やかに笑って、「じゃあね」と挨拶をして飛び立ってしまった。彼一人の時間だけ妙に早く過ぎてしまうようで、私とバイロンはそれに取り残されてしまったようだ。

「……バイロンさんとグレージュさんは、かなり違いますね」

 小さくなっていくグレージュの後ろ姿を目で追いながら言う。

「そうだな。兄は飛べるが俺は飛べん」

 そういう違いが飛び出してくるとは思わなかったので、しばらく呆然と彼を見つめてしまった。

「違ったか?」

 彼も丸い瞳で私を見返す。表情は見えないが、感情はなんとなくわかる。

「あー……それも込みで、いいです」

 曖昧に笑ってその場を流してしまった。




 森の中はかなり暗い。何しろ村の人間のほとんどが暗さと気味の悪さに立ち入らない程だ。反対側のもう少し明るい森には行くが、そこはシデムシ達の領域ではない。

 バイロンの話ではその暗さがシデムシ達にとって理想なのだという。ある程度日が昇っても活動が出来て人間にも見つかりにくい。

 シデムシ達がここに来たのはかなり昔のことだそうで、バイロンも詳しくはないがシデムシと村の隠された協定は住む環境の違いもあってかそれほど揉め事もなかったようだ。

 それと、昨日バイロンが食べていた人間の腕は実は特別なものであるということも聞いた。

「どういうことです?」

「人間の死体のほとんどは繁殖にまわす。必要としないものもいるが、俺のようなシデムシは死体に卵を産み付けて土に埋めて育てる」

 昆虫人のシデムシは巨大で、幼虫がある程度育つまでには大きな生物の死体か大量の小さな死体が必要になる。人間の死体は比較的大きく幼虫の育成にはもってこいだ。それで協定を結んでいるわけだが、今回の死体は小さすぎた。そして今、動物の死体は昆虫人の幼子を養えるほどはない。

 それを聞いた時、頭の片隅で最近病気で無くなった子供の姿が思い浮かんだが言葉にはしなかった。

「じゃあ、普段は別のものを食べているんですか?」

 今、上着にしていた布にはバイロンも手伝って探してくれた木の実や食べられるキノコ類が収まっている。しかし彼の食べ物はまだ見つかっていなかった。昨日の腕だけで足りるとは思えない。

「そうだな。今みたいに森を探して動物の死体や糞を食べる。後は腐ったキノコとかか」

「え! うん……排泄物まで食べるんですか!?」

 なんとか直接的ではない表現に持って行ったが、頭の中はそれを器に盛って薪の前でかきこむバイロンの姿が浮かんでいた。死体よりも受け入れがたいものがある。初めて見たのが人間の腕でまだよかったのかもしれない。

 いや、それよりも気になることが……

「あの、私も排泄するじゃないですか。じゃあそれ食べちゃおうとか……そういう……」

「!!!!」

 さて、私は彼がそれを見越して私を拾ったのだと推理したのだが、現実はこの屈強な昆虫人のほうが純粋であると言い張るらしい。

 立ち止まったバイロンの無表情な脳内を想像してみよう。おそらく「その考えはなかった!」と言うのではないだろうか。

「それは……思いつかなかった」

 アタリのようだ。当たってほしくはなかったが。思わずスカートのお尻の方を抑えて後ずさってしまう。

「そうか……ふむ……」

 バイロンは前足も中足も腕組みしてしばらく考えこんでから私の方へずいと近寄って言った。

「もう少しここにいていいぞ」

「ご飯目当てじゃないですか!!」

 うっかり思いついた私も悪いのだが、彼も純粋な善意をそんなあっさりと食欲で塗り替えないで欲しい。トイレは遠くで穴を掘ってすると伝えると彼は少し悲しそうに肩を落とした。

「バイロンさんの食事も探すので、それだけは本当に……」

「まあ、無理は言わん」

 普段は感情をあまり出さないくせに、食事になるとこうなのか。バイロンの低い声は明らかに落胆した響きを持っている。

「トイレについてくるとかも無しですよ?」

「そこまで無粋なまねはしない」

 ちょっと拗ねたような態度がちょっと可愛い。と、かすかに甘い香りのようなものが漂っているのに気がついた。周囲を見回しているととんとん、と冷たい爪で肩を叩かれる。

「流石にここまでくれば気づくか」

 バイロンの腕が指し示した方向を見ると、周囲とは明らかに異なる低木の一本が赤黒い実を大量に実らせているのが目に入った。

「わあ!」

 その様に思わず声を上げ、バイロンを置いて走りだしてしまう。

 根本まで走って行くとさらにその様相が見えてきた。バイロンよりやや背が高いぐらいの低木は枝が重みで下がるほどの実がついている。この木は村でも見たことがある。確かにこの時期になると赤黒く熟した実を食べている子どもたちがいた。

「我々は大量には食べないが、お前なら気に入るだろう」

 後ろのバイロンが下に落ちてしなびた実を拾って口に運ぶ。新鮮なものより、そのほうが口に合うということだろうか。私も枝についた実の一つを手に取った。ほとんど真っ黒になった実はバイロンの肩や太もものような艶を細かく放っている。

 口の中にいれると、濃厚だがしつこすぎない甘みとさわやかな酸味がいっぱいに広がった。小さな実から溢れ出てくる果汁も喉を潤してくれる。

「美味しい……!」

 初めて食べる強烈な甘みに唾液が溢れて止まらない。

 次々手を伸ばして食べるが、実は食べた所から新たに実っていくかの如き量だ。スカートの裾を持ち上げ大量に収穫したそれを入れていく。潰れた果実が紫色の染みをスカートに作るが気にしない。どうせ元々汚れているのだから。

「バイロンさん?」

 つい木の実に夢中になってしまったが、彼は少し離れたところでずっと立っていた。先ほど拾って実を少し食べたきり動いていないのだろうか。

「バイロンさんの食事は探さなくていいんですか? 私を連れて行くのが不安だったらここで待っていますよ」

「いや……まだ時間はある。焦る必要はない」

 私を心配してここにいてくれていたのだ。ありふれた感謝の言葉の後を考えていると、口元についていたのであろう紫の果汁を巨大な爪が拭い去っていく。かすかに触れるぐらいのごく弱い力だ。

 それがくすぐったくて、彼の手に触れながら少し笑った。



 ガサ



 ほんの一瞬の小さな音でしかないはず。

 だがバイロンはその瞬間素早く私を抱きかかえ、他の木の実を包んでいた布を茂みに放り込み自分たちもそこへ滑りこんだ。その勢いに思考を置いて行かれた私はしばらく彼に覆い被されたまま固まってしまう。彼は地面と体の間に私を挟み、まるでただの昆虫に退化したかのように六つん這いになっていた。

「合図するまで声は出すな」

 耳元で囁かれた警告に、口を手で覆って応える。私にはまだ何も聞こえないが、きっと彼には聞こえているし見えているのだ。

 あるいは警戒するように空中を探る触角で何か感じているのかもしれない。

 私は、何も出来ずに横たわっていた。

 

調べていたら糞も食べるという美味しい設定を見かけたので。

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