坂の上のレストランとバイト初日
成り行きでこの坂の上にあるレストランでバイトをする事になった私は隆介さんに、"明日の朝7時にまた店に来て下さい"、と言われたため、時間通りに、いや、むしろ時間よりも早く店に着いた。
「おはようございまーす」
貰った合鍵を使って裏口から入りながら挨拶をしたが、声が返って来なかったため、厨房やホールを覗いてみた。
だが、隆介さんの姿はまだなかった。
「あれ? 時間合ってるよね…? 早すぎた…?」
少々不安がりながらも、私は真新しい制服に着替えて隆介さんが来るのを待った。
1時間後。
「ごめんごめんっ!」
と、謝りながら隆介さんが店に駆け込んできた。
「どうしたんですか…? 確か7時に出勤ですよね…?」
「寝坊しちゃって…」
「えっ!?」
オーナーが寝坊…!?
朝からうっかり…!
「すぐに支度してきますね」
そう言って隆介さんは更衣室に入っていった。
「………私服…」
制服の時よりも若々しく見えた。
27歳の男性が紺のパーカーを着るのは珍しいと思う…。
そして数分後、着替えてきた隆介さんが更衣室から気合いの入った顔で出てきた。
「よしっ、じゃあ仕込みを始めましょうか」
「オーナー、寝癖ついてます」
このレストランは正午に開店するため、仕込みは予想よりも早くし終わった。
仕込みまでなら不器用な私でもギリギリ出来た…。
本当よかった…。
「じゃあ開店まで暇ですし、この町の案内でもしましょうか?」
「えっ! いいんですかっ?」
隆介さんが案内してくれるって事は隆介さんと二人で町を歩けるってこと…!?
それってなんか…!
「勿論ですよ。麻理さんにこの町の事をもっと知ってもらいたいですし」
あ、そゆことね…。
「はい、私も知りたいです」
何故か少し残念な気持ちを感じつつ、私は満面の笑みで返答した。
「では、行きましょうか」
「はい」
私服に着替え直して隆介さんが裏口を施錠し、私達は店を出た。
現在9時。
開店まで3時間もある。
「まずはどこに行きましょうか。観光名所とかないですし…」
どこに行こうか考えている隆介さんについて行きながら、私はずっと隆介さんを見ていた。
直したはずの寝癖はまだついているし、白シャツの上に紺のパーカーを着て、下はベージュのチノパンという若い感じの服装が27歳とは思わせず、しかもかなり似合っている。
それに……綺麗な顔してる…。
顔のパーツが整ってるし、鼻もいいくらいに高い…。
「…でいいですかね?」
「へっ…!?」
な、何話してた!?
全っ然聞いてなかった!!
「あ、は…はい…」
「よし、じゃあ行きましょう」
何か分からないまま返事してしまったが、隆介さんは子どもみたいに嬉しそうな顔をした。
どこに行くか聞いてなかったけど喜んでくれてるようで何よりだ。
…でも…、
「…!」
私達が歩いている時にすれ違ったり見掛けたりする町の人々の視線に気付いた。
というか、気付いてしまった。
「………」
「…………」
「……」
誰もが…異様なものを見るかのように、冷めた奇異の目で私達を見ていた…。
何故…?
私の思い違いなのかな…?
隆介さんは気付いてるの…?
「楽しみだなぁ〜」
「………」
…気にしてないか。
あの天然な隆介さんだもんね。
「さあ、着きましたよ」
「………え?」
隆介さんに連れられてきた場所はなんと川。
「……あの…何で川…?」
「ん? この町のいい所を見てもらおうと思いまして」
「いい所?」
「こっちです」
隆介さんに言われるままついていくと…、
「ほら、あれですよ」
「わぁっ…!」
この位置から見える川は水面が太陽に照らされて生き生きと輝いていて、魚が何処にいるか分かるくらい透き通っていた。
「お魚たくさんいますねっ! ってあれ!?」
私が振り向いて話し掛けようとしたら、隆介さんはすでに川原に下りて川に向かいながらズボンを捲り上げていた。
「えっちょっ…!? 何してるんですか!?」
「え? 綺麗だし食材も取れるから一石二鳥ですよって言ったじゃないですか?」
そんな事言ってたのか!
てゆうか魚を素手で捕まえる気なの!?
どんだけ野性児なの!?
「おっ、とれた」
とれたの!?
「麻理さんもとりましょう?」
「わ、私はちょっと…、濡れちゃうし…」
「楽しいですよ? そんなに濡れないと思います」
「いやいや…すでに隆介さんびしょ濡れになってますし…」
「あ、本当だ。チノパンはやめとくべきでしたね〜」
問題はそこじゃないよ!?
何で大の大人が川で素手で魚とりしてるかって事だよ!?
「じゃあ麻理さんは楽しくないですね…。選択ミスでした…」
隆介さんが魚を手にしたままシュンとした顔をする。
「い、いえ…! 私も返事しましたので…!」
「あ、そうだっ」
私が慌てて返すと、隆介さんが何か閃いた顔をした。
「じゃあ、お店に帰ったらこの魚を使った美味しい料理をご馳走しますっ」
「わぁっ! 本当ですかっ!?」
「ムニエルなんかいいですね」
「はいっ!」
隆介さんのまかないのメニューが決まり、その後も数十分ほど食材を捕まえていた。
子どもみたいに無邪気に魚を追い掛ける隆介さんは何か可愛くて、とても同い年には見えなかった。
少年の心を忘れてないんだなぁ…。
「ふふっ…!」
そんな無邪気な隆介さんと、キラキラと輝く綺麗な川を、私は無意識のうちに写真に収めていた。
こんなに綺麗な場所があるのに、この町は知名度が低い。
隆介さんが大切にしているこの町を、私も活性化させたい。
色んな人にこの綺麗な川を見てもらいたい。
色んな人に古き良き町を堪能してもらいたい。
そして色んな人に来てもらって…隆介さんを喜ばせたい…。
何故か無意識のうちに、そんな思いまで抱いていた。
「結局びしょ濡れになってしまいました」
「夢中でしたしね」
現在10時。
開店まであと2時間。
獲った魚をたまたま持っていたビニール袋(乗り物酔いした時用)に入れ、私達は店に向かって歩いていた。
「そういえば、あのレストランって何ていう名前なんですか?」
ふと疑問に思った私は隆介さんに尋ねた。
「坂の上のレストラン?」
「はい」
「坂の上のレストラン」
「……はい?」
「"坂の上のレストラン"っていう名前です」
長っ!!
ってかネーミングセンス!!
「な…長くないですか…?」
「いい名前が思いつかなかったので」
だとしても名前が長い事には気付いてほしかったな…。
見たまんまの名前だし…。
…まあでも…、
「隆介さんらしい名前ですね」
「ありがとうございます」
レストランを褒めてもらえたからなのか、隆介さんが嬉しそうに目を細める。
裏のない笑顔はこちらまで笑顔になってしまう。
本当に…幼い子どものように素直な人だ…。
川から歩き始めて数十分後に店に着き、すぐに隆介さんがまかないの川魚のムニエルを作ってくれた。
川魚を使った料理は今までに何回か作ったらしいけど、ムニエルは初めてなんだそうだ。
現在11時。
私と隆介さんは少し早めの昼食にする事にした。
「ん〜っ! 美味しいですっ!」
シンプルな料理だけれど、しっかりと味がついていて、でもしつこくなくさっぱりしている。
「でも少し塩をかけすぎたかもしれません。それに焼く時間も長かったようで、少し身がパサパサしています」
隆介さんは自分の料理にとても厳しい。
私のような素人では分からないような微かな味の違いをきちんと把握し、それを次に活かしているようだ。
今のままでも十分美味しいのだから、次に作った時にはもっと美味しくなってるんだろうなぁ…。
「バターはもう少し…あ、いや…小麦粉を少なく…」
隆介さんはとても集中して味を確かめてメモをとっている。
あんなに子どものようにはしゃいでいたのが嘘のように、しっかりとした大人の顔をしている。
こうして見ていると、同い年なんだな、と実感する。
普段が子ども過ぎるからなんだろうけど…。
「………??」
私も参考にしてもらおうと食べてみるが……残念ながらよく分からない…。
塩、胡椒、バター、小麦粉の多さや、焼き加減…、今のままでも十分美味しいのに、ここからさらにどうすればいいのかなんて素人の私が分かるわけがない。
「…よしっ! これをメニューに追加しましょうっ!」
隆介さんが突然言い放った。
どうやら思い通りのものが出来上がったようだ。
「新メニュー誕生おめでとうございますっ」
「ふふっ…! ありがとうございますっ!」
隆介さん、凄く嬉しそう。
出来上がったレシピを満足そうな笑顔で見つめている。
子どもっぽい隆介さんに戻ってしまったみたいだ。
さっきまであんなに大人っぽかったのに…。
「あ、そういえば、もうすぐ開店ですね」
現在11時45分。
自然な流れで隆介さんに話し掛けた、はずだった。
「…そうですね」
あれ…?
隆介さんの表情は優しいままなのに……、何かが変わった…。
「さ、開店準備をしましょうか」
「あ、はい」
何が変わったのか分からないまま私達は開店準備を始めた。
さっきのは何だったんだろう…?
正午になった。
「私、入り口の鍵を開けてきますね」
入り口の鍵を開け、ついに"坂の上のレストラン"が開店した──……と思った瞬間、
「待って!!」
厨房から飛び出てきた隆介さんが焦った表情で叫んだ。
「え……、あ……まだ…でしたでしょうか……?」
その余裕の無い取り乱しように驚いた私はその場で固まって立っていた。
「あっ…………何でもないです。突然叫んですみません」
何かを確認したのか、隆介さんはすぐに表情を和らげた。
「そう…ですか…」
あんなに余裕が無くなった隆介さんは初めて見た。
確かに、まだ会ってから2日しか経っていないから、知らない顔があって当たり前なんだろうけど……でも…、少し…怖かった…。
「………」
「………」
さっきの出来事で少し気まずい雰囲気になってしまった。
お客さんも来ないし……、……ん…?
何か……忘れてる気がする…。
何だったかな……?
午後3時になった。
「………そろそろ閉めましょう」
静寂の中、隆介さんが口を開いた。
「えっ…もう…? でもまだ3時ですよ…?」
私が尋ねると隆介さんは答えないまま扉の方へ歩いて行き、鍵に手を掛けながら呟いた。
「………どうせ…誰も来ませんから…」
「…!!」
思い出した。
私がここに初めて来た時、隆介さんは"久しぶりのお客"と言って、水を出す事すら忘れていた。
だから…、待っていても…ここに……お客さんは来ない…。
…でも…、
「……分からないですよ」
「…?」
「私、ブログにこのレストランの事を書いたんです。もしかしたらブログを見てくれた人が来てくれるかもしれません」
「……そうですね」
私がそう言うと、隆介さんはまた優しいのに何かいつもと違う笑顔を見せた。
でも、今なら何が違うか分かる。
"笑顔"じゃなくて、"微笑み"。
そして、寂しそうなんだ。
開店してもお客が来ない事は十も承知している。
だから、悲しく微笑んでいたんだ。
私がここに来る前も、隆介さんは店の中でこんな顔をしていたんだろう。
誰も来ないレストランで…、誰にも注文される事のないメニューを考えながら…。
「さあ、オーナー。まだ待ちましょう」
「はい。ありがとうございます。麻理さん」
隆介さんは鍵から手を離し、こちらに歩いて来た。
その顔は、いつもの子どものような、無邪気な笑顔に戻っていた。
だが、隆介さんがこっちに向かって来た瞬間、店の外に人影が見えた。
「あっ…!!」
「え?」
思わず叫んでしまい、隆介さんが不思議そうな顔で止まった。
そして、その後ろの扉がゆっくりと開いた。
「すみませーん、まだやってますかー?」
男性2人が私達に向かって尋ねてきた。
これって…、あれだよね…?
まだ開店してますか…ってことだよね…?
…てことは……
お客…!
お客さんだ…!!
「は、はいっ…!!」
あまりに突然な出来事と嬉しさで私は勢いよく返事をした。
「いらっしゃいませ。ようこそ、坂の上のレストランへ」
隆介さんは私がここに来た時のように、オーナーとしてしっかりと振る舞っていた。
とても嬉しそうで幸せそうなその表情も、私が来た時と同じ顔をしていた。
やっぱりあの時も隆介さんは同じ事を思っていたんだな、と私は改めて確信を持った。
──お水運ばなきゃ…!
そう思い立った私は厨房に水を取りに行った。
私がバイトに来てから初めてのお客さん。
バイト初日にお客さんが入るという快調な滑り出しに、私の喜びは最高潮になっていた。