その4
数日後。
一平は繁華街からちょっと行ったところにある学習塾から出てくると、ふと、誰かに見られているような気がして立ち止まった。
振り返ると、流れていく車のヘッドライトを浴びて、道の脇に見覚えのあるシルエットがある。
「夏世ねーちゃん!」
「一平」
一平はすぐに夏世のほうへ駆けてきた。
「なんかこないだと全然服が違うから、一瞬わかんなかったよ」
「そう?」
そういう夏世の今日のいでたちは、たしかに数日前の夜とは違っている。
ラインストーンの入った白いチビTシャツに、カーキ色のワークパンツ、それにちょっとヒールのある、ビーズの刺繍されたミュール。髪は大きなバレッタでコンパクトにまとめている。化粧も、そんなに濃くはない。
「それにしても、よくここがわかったね」
「ああ、あんたここの塾のバッグ持ってたでしょ。だから、ここで張ってた」
「あ、そっか。でも、張ってたって、何で?」
一平が聞くと、夏世はちょっとばつが悪そうに目をそらした。
「・・・その、さ、外人さんに会いたくて・・・」
「蘇芳に?」
「だって、こないだ・・・その、悪いことしちゃったかなって、だから・・・」
いぶかしげな表情をしていた一平の顔がぱあっと明るくなる。
「そっか。ちょっと待って、連絡してみる」
一平はバッグから携帯を出してダイヤルした。
「一平、あんたは外人さんみたいにテレパシーとか使えないの?」
「全然ダメ。」
「携帯なんか使わないでもぱぱっと連絡できるのかと思った」
「んなことないよ、蘇芳だって、本当に必要なとき以外は能力は使わないよ。オレは・・・・あ、蘇芳?」
どうやら電話の向こうで蘇芳が出たらしい。一平はぐちゃぐちゃとしゃべっていたが、すぐに切断ボタンを押した。
「すぐ来るって。こないだの喫茶店で待ってろってさ」
「サンキュ」
繁華街の中を通り過ぎながら、夏世はちらっと例のビルを見た。あの男の姿は見えない。
「関わるなっていったじゃん」
一平が夏世に釘を刺す。
「あれからは行ってないよ。ちょっとみただけだよ」
「ならいいけどさ」
約束の喫茶店は繁華街を横切ってちょっとはずれにある。
一平と夏世は、外から良く見える席に陣取った。
一平がアイスココア、夏世はカプチーノを注文して待っていると、すぐに蘇芳が現れた。
「井原さん」
蘇芳は軽く手を上げて二人のほうへ近づいてきた。
席についてアイスティーを注文する。
「もう会って貰えないと思ってました」
「んなことないよ」
言いながら居住まいを正す。
「この間は、ごめん。すごく混乱してて・・・謝りたかったんだ」
「謝るだなんて、そんな」
「ううん、本当にごめんなさい」
改めて頭を下げる。蘇芳はにっこりと笑った。
「ありがとう」
「え?」
「気味悪がらないでいてくれたから」
「だって、あたしも同類なんでしょ?」
正直、何でかわからないけど、人と違う力をもっていたと教えられてもいやな気分はしなかった。自分が同類だと本能的に理解して、納得するのになぜか抵抗はなかった。
「・・・ありがとう」
もう一度言うと、蘇芳はジャケットの内ポケットからたたんだ紙を取り出した。
「余計なことかもしれませんが」
紙を夏世に差し出す。開いてみると、ワープロうちの字でなにやら書いてある。
「この間、井原さんが追いかけてた男のデータです。ビルの前で待ち伏せするくらいだから、ひょっとして何も知らないかと思って。」
「え?!」
目を通すと、男の名前や年齢、その他のプロフィールがきれいにまとめてあった。
『岡崎茂人 19歳 南郷大学2回生』
「岡崎・・・茂人」
「あまりいい噂は聞かないみたいですね。女性関係も派手みたいだし。井原さん・・・この人のこと、好きなんですか?」
「へ?」
あまり唐突な質問に一瞬頭が空白になる。
「ち、ちがうちがう!!そうじゃなくて・・・」
一週間前。
夏世は、真奈美の家に来ていた。
「夏世ちゃん、ごめんなさいね、わざわざ来てもらって」
真奈美の母は、心底申し訳なさそうに軽く頭を下げた。その表情には、心配がありありと見て取れる。正直、どうしようもなくなって、夏世を呼び出したのだろう。いつも暖かくやさしい雰囲気の女性なのに、今日は困り果て、焦燥しているようにすら見える。
「いいえ、おばさん、とんでもない。・・・で、真奈美は」
夏世にスリッパを勧めながら、はあ、とため息をつく。
「ええ・・・もう2日も部屋から出てこないの。中にもいれてもらえなくて・・・食事もろくに食べてないし、もう心配で・・・」
何があったかわからないが、2日前から真奈美が部屋に引きこもっているというのだ。いくら家族が呼びかけても、脅してもなだめても、鍵をかけて部屋から出てこないらしい。家族ではどうしようもなくなって、親友の夏世を呼び出したのだ。
夏世はまっすぐ2階の真奈美の部屋へ向かった。おばさんは階下で心配そうにこっちを見ている。
こんこん、と真奈美の部屋のドアをノックする。
「真奈美」
返事はない。
夏世はもう一度ノックをした。
「真奈美。あたしだよ、夏世だよ」
中でちょっと物音がした。
「ちょっと、顔だけでも見せてよ。せっかくきたんだからさ」
少しして、小さな、小さな声がした。
「・・・夏世だけ?」
「うん、そうだよ。おばさん、下にいるよ」
すると、中で動く気配がして、やがて少しだけ扉が開いて、パジャマ姿の真奈美が姿を見せた。
「・・・・!」
さっき、おばさんが焦燥していると思ったが、それは気のせいだ。真奈美の顔をみて、夏世は思わず息を呑んだ。『焦燥』というのは、こういう表情を言うのだ。そのくらい、真奈美は疲れてやつれきっていた。夏世は、それでもすぐに落ち着きを取り戻して、真奈美を見た。
「どーしたの。疲れてるじゃん」
真奈美は最初目をそらしていたが、普段どおりの夏世の言葉を聴いて、初めて夏世の目を見た。
それから、ぼろぼろと大粒の涙を流して泣き出した。
「夏世・・・・かよぉ・・・」
夏世は真奈美を抱きしめた。
「中に入ったほうがよさそうだね。入っていい?」
真奈美は泣きながらちいさくうなずいた。
部屋の中はきれいなものだった。おそらく、部屋にこもってからずっとベッドで横になっていたのだろう。ただ、乱雑に脱ぎ捨てられた洋服だけがあった。
二人は真奈美のベッドに腰掛けた。しばらく真奈美は泣き続けて、夏世は黙って隣にいた。
しばらくして、落ち着いたのだろう。真奈美はやっと泣き止んだ。
「どうしたの?何かあったの?」
夏世がきいた。真奈美は下を向いたまま答えない。
「うん、話したくないならいいよ、訊かないよ。」
真奈美は一瞬しゃべりそうになったが、すぐにぐっと言葉を引っ込めた。
「やっぱり・・・話せない・・・ごめんね、心配してくれてるのに」
「ううん」
「ごめん・・・」
「何があったかも心配だけど、真奈美、ほとんどご飯食べてないんでしょ?体のほうが心配だよ。」
「食べたくないの」
「そんなこといわないでさ、おなかがふくれたら少し気分が変わるかもよ。何か食べたいものない?」
「・・・・・」
真奈美は夏世のほうをみた。夏世はにっこりと笑って見せた。
「・・・桃、食べたい」
また来る、と約束して真奈美の家を辞した。
結局真奈美は、何があったかはしゃべらなかった。何かに怯えているようでもあり、深い悲しみに沈んでいるようでもあった。それでも、なんとか桃をひとつ食べて、それから思い切り泣いて、眠ってしまった。
帰り道、夏世は歩きながら頭の中を整理する。
(2日前・・・確か、真奈美、人と会う予定があるって言ってた)
その話をしているとき、真奈美が妙に緊張していたのを覚えている。
真奈美には彼氏はいなかった。ただ、ずっとあこがれている人がいたのは知っている。朝、通学途中に良く見かける大学生くらいの人だと言っていた。携帯で撮った写真を見せてもらったことがあるが、ジャニーズ系の、かっこいい感じの人だった。
(ひょっとして、あの人に告白しようとしてたのかな?)
真奈美は家族にも誰と会うかは話していなかった。親友の自分にも。だから、そんな想像がうかぶ。
(会って、告白するかしないかして・・・すごいショックなことがあったとか)
あくまで想像にしか過ぎない。でも、とりあえずそれしか思い当たらない。
何があったのだろう?あんなに、やつれるまでに・・・
ふう、とため息をついて見上げる夜空には星もない。
どんよりと曇った夜空に、繁華街のネオンだろう、オレンジ色の光が反射している。
なんだかとても汚い色に見えた。
でも、その色がなんだか今の自分の気分にあっている気がして、夏世はなんとはなしに繁華街のほうへ足を向けた。
「で、そのあと気分を変えようと思ってここにきたの。そうしたら、偶然岡崎があのビルから出てくるのを見て、それであとを追いかけたんだけど、やっぱり見失っちゃったんだ。だから、あのビルの前で待ち構えてて・・・」
夏世は、真奈美の名前は伏せておおまかなことを蘇芳に話して聞かせた。
夏世のカプチーノは、ちょっと冷めてきている。
じっと話を聞いていた蘇芳が静かに口を開いた。
「でも、お友達が言いたくないこと、そんな形で調べまわっちゃっていいんですか?」
「・・・」
そのとおりだ。夏世は二の句がつげない。
「すみません、ちょっときつい言い方ですよね。」
「・・・ううん、確かに外人さんの言うとおりだよ。」
カプチーノのカップを取って、一口すする。
ついてきたシナモンスティックでもう一度カプチーノをかき混ぜながら、夏世は少し黙っていたが、ふっと顔を上げた。
「でも、このままでいいわけがないよ。真奈美、こわれちゃうよ、きっと。・・・真奈美は、一番苦しかったときにあたしを助けてくれた。だから、真奈美の口からいえないなら、あたしがはっきりさせて、今度はあたしが真奈美を助けるの。」
夏世の目は真剣だ。てこでも動きそうにない。
「危ない真似、しちゃだめですよ。」
蘇芳がまっすぐに夏世の目を見る。夏世は素直にうなずいた。
「なあ蘇芳、その紙みせてよ」
今まで静かに二人の話を聴いていた一平が割り込んできた。夏世は素直に紙を渡す。
「南郷大学かあ。てっちゃんが何か知らないかな」
「てっちゃんて誰だ?一平」
「あ、オレのダチ。ちょっときいてくるよ」
言うが早いか、一平はぱっと席を立って店を出て行った。
「お、おい一平」
夏世と蘇芳もあわてて店を出る。一平の姿は既にみあたらないが、
「こっちです」
蘇芳には、一平がどこにいるかはわかるようだ。
繁華街のメインストリートから一本はずれた裏通り。夏世と蘇芳は、一平がそこでたむろしている若者に取り囲まれているのをみつけた。
「一平!」
夏世と蘇芳はあわてて一平に駆け寄る。と。
「あ、蘇芳、きたんだ」
一平は平然としている。絡まれているわけではなさそうだ。
囲んでいる若者のひとり、サングラスにドレッドヘアといういかにもレゲエなひとりが
「一平、ありゃ誰だ?」
と話している。
「うん、オレのアニキ」
「へえ!一平、おまえ外人だったのか?!」
「さあね~♪」
なんだか仲がいい。夏世は唖然とした。一平が「てっちゃん」と呼んでいるこの男は、このあたりでは有名なチームの頭だということを知っていたからだ。暴力的だったり、犯罪まがいのことをするチームではない。むしろ、彼らが幅を利かせているからこのあたりでは犯罪は少ない。
いったいどういう経緯でこのふたりが仲良くなったのか、知りたいものだ。
「蘇芳、てっちゃんはさ、このあたりのことで知らないことないんだよ。おまけに、南郷大学の生徒なんだよな」
「学生ってんだよ」
「そ、その学生」
それから改めてレゲエ男を振り返る。
「でさ、てっちゃん、さっきの話だけど」
「おう、岡崎、な。ありゃ、結構ヤバいことやってるらしいからな。おまえ、関わらないほうがいいぞ。いくらお前が強いって言っても、さすがにやくざに囲まれたらどうしようもないだろ?」
「やくざ?」
「なんでも、あいつ顔がいいからさ、女釣ってやくざに紹介してるって・・・あ、おまえにこんなこと言ってもわからねえか」
「やくざに・・・」
夏世は絶句してしまった。
「で、その岡崎って男、いまどこにいるか知りませんか」
「いや~、そこまではさすがになあ。」
「ありがとう」
蘇芳はそういうと、軽く夏世の肩をぽん、と叩いた。
「いや、俺と一平の仲だからな」
いいながら一平の頭をぐしゃぐしゃっとかきまわす。
彼らと別れてから、しばらく夏世は無言で歩いていた。
一平を先に帰して、蘇芳は夏世を送っていくといってついてきた。
人気のない裏通り。ただ、ふたりの靴音だけが響いている。
しばらく黙って歩いていたが、ぽつりと夏世が口を開いた。
「つまり・・・岡崎は、真奈美をやくざに”紹介”したってこと?」
「可能性は否定できません。でも、そう決まったわけでもないですよ。あくまで、推理の範疇です」
「でも、真奈美の様子を見ると、そのくらいのショックを受けた感じ・・・」
ぴた、と夏世が足を止めた。
「確かめなきゃ」
もし、それが真実だったら。
「あたし、岡崎ってヤツを許せない」
「井原さん、それでも君は女の子だ。危ないまねをしちゃいけない」
「じゃあ、ほっとけっていうの?!」
きっと蘇芳をみる。
「本当にそうだったら、ひどすぎる!真奈美がなにしたっていうの!あんなふうに傷つけて、どん底に叩き落して・・・」
そこまで言って、ふと目線をおとした。
「ごめん。外人さんにあたってもしょうがないよね」
「いいんですよ。・・・でも、そろそろその“外人さん”はやめてくださいよ」
蘇芳の声は穏やかで、なんだか顔を見ていなくても柔和な表情が想像できてしまう。夏世はもう一度、蘇芳を見た。
繁華街の喧騒はもう結構後ろのほうだ。駅前のにぎやかさにたどり着くまでの、ちょっとの間の静寂。
町の闇はどこか汚くて、それでいて深く感じる。普段だったら不安に感じるその闇も、蘇芳と一緒の今は何だか安心できる気がする。
すぐ目の前の交差点を飛ばしていく車のヘッドライトが、ときおり道を照らして、そして去っていく。そのたびに、はっきりと蘇芳の顔が見える。
出会ってほんの数日なのに、なぜ自分はこんなにこの人を信用しているんだろう。
こんなに自分の気持ちをぶつける相手なんて、今までろくにいなかったのに・・・
はっとして、目線をはずす。
「だめだよ」
「え?」
「もういいよ、ここまでで。真奈美の一件には、もう関わらないで」
「井原さん」
「とにかくさ、ここからはあたしがやるから。・・・またね、外人さん」
それだけいうと駆け出した。うしろで蘇芳が呼び止める声が聞こえたが、止まらないで走った。
おそらく、蘇芳は頼めば手を貸してくれるだろう。
でも、それでは自分の中の何かが変わってしまうような気がする。もともと、誰かに頼る気はなかったのだ。これでいい。
それから数日。
夏世は、岡崎をみつけようと躍起になっていた。
繁華街の例の雑居ビル、真奈美が通っている通学路、南郷大学。
あちこち見て回ったが、岡崎本人には出会えなかった。
今、時間は夜の8時。
夏世は、最初に一平と出会ったコーヒーショップで、雑誌を広げながら雑居ビルをながめていた。
連日こうやってここに座っていること自体が目立っていることはわかっている。でも、夏世はほかに手段を思いつかなかった。
眼下を、人が流れていく。
皆一様にしゃべったり笑ったりしているが、どことなくうわついていて、本当に漂っているように見える。
(だけど)
夏世はこの間、聞いてしまった。
そんなうわついた笑顔の下に、人間は怒りや、悲しみや、いろいろな感情をもっている。
蘇芳を通して、現実にこの耳で(?)聞いてしまったのだ。
そう思うと、この繁華街の一角が、人の心の溜まり場のように見えてくる。
沼のように、いろんな心が淀んでたまっているような・・・・
「隣、空いてますか?」
突然声をかけられ、急に現実に引き戻された。
声をかけた人物を振り返って、夏世はぎょっとした。
岡崎だ。
何だか初めて一平と会ったときと似た様なシチュエーションだが、相手が全然違う。
夏世は冷静に答えた。
「どうぞ」
岡崎は、どうも、とか会釈しながら、夏世のすぐ左に大きなアイスコーヒーの入ったプラスチックカップを置いた。
さて、こういうケースは想定していなかった。
まさかこんな人であふれかえる店内で岡崎を詰問するわけにも行かず、雑誌を眺めるふりをして逡巡する。
「ね、君ひとり?」
突然、岡崎のほうから声をかけてきた。振り返ると、夏世のほうを見て、まるでテレビで見る芸能人のようなさわやか系の笑顔を見せている。
(うわ、胡散くさっ)
内心思いながら、ちょっとびっくりしてみせる。
「え?」
「ごめんね、急に声かけてびっくりさせちゃった?君みたいな美人がこんなとこで一人でいるからさ、気になって。」
「・・・」
「彼氏と待ち合わせ?」
「そんなんじゃないよ・・・ただ、ここから外見てるのが好きなだけ」
「ふうん?じゃ、ひとりなんだ」
岡崎がぐいっと近づいてきた。
「ねえ、一人だったら、これからオレと飲みに行かない?」
「なによ、要するにナンパ?」
「きっついなあ、下心なんかないよ。オレもひとりで退屈だったからさ、どうせなら君みたいな美人と飲みたいなあって思っただけ」
「うまいこと言っちゃって」
ぱたん、と雑誌を閉じる。
「そっちのおごり?」
連れて行かれたのは、例の雑居ビルの裏手にあるカフェバーだった。
小さな店だが、シックな雰囲気だ。全体的に黒で統一された店内は、やはりカップルの客が多いのか、どのシートも少人数用になっている。特にカウンターは、黒の背の高いスツールが2つずつくっつけて並べてあり、ちょうどその2席ずつを照らすように、天井から小さなライトがさがっていた。
岡崎はカウンターには座らず、背後のボックス席に陣取った。ここは、一応4人くらいは座れるようになっているが、やはり黒の布張りのソファが円形に配置されている。座ってみると、クッションがかなり柔らかく、体が沈み込んだ。
とりあえず、ジュースを注文しようとすると、岡崎に止められた。
「飲まないの?」
「実はあんまり得意じゃないの、アルコール」
不得意どころか、未成年なのだからいけないのだが、なんとなくはぐらかす。第一、アルコールなんて飲んでへべれけになったりしたら、なんのためについてきたのか分からなくなる。
「最初の1杯だけつきあおうよ。じゃ、なんかアルコールの弱いカクテルでも持ってきて」
そういって無理やりウエイターにオーダーしてしまった。
正直、飲んだことがないわけじゃないのでいいのだが、警戒するべき相手を前にして飲むのは、ちょっといやだったのだ。
「趣味のいい店ね」
「だろ?」
いいながら岡崎はたばこをつけた。
夏世はちょっと上目遣いに眺めるように岡崎を見た。
「さっきの誘い方といい、居酒屋じゃなくてこういう店にくるあたり、ずいぶん慣れてるんじゃない?」
「いや、本当にきっついねえ、君」
岡崎は苦笑している。
「こうやって、何人も女の子連れてきてるんでしょ」
「そんなことないってば」
すぐにウエイターがビールと、きれいなオレンジ色のカクテルが入ったロンググラスを持ってきた。
「まあ、まずは乾杯しようよ」
チン、とグラスの触れるきれいな音が響く。
とりあえず、一口飲んでみる。スクリュードライバーのようだ。
「ねえ、カナちゃん」
岡崎が話しかける。さすがに実名を告げる気もなく、「カ」だけ似せて「カナ」と名乗ったのだ。
「カナちゃんと、どっかで会ったことがないかなあ?」
「ナンパの常套句ね」
「そんなんじゃないよ」
岡崎はいじわるそうな目つきでくくっと笑う。
「実を言うと、俺、カナちゃんみかけたことがあるんだよ」
「え?」
夏世の背中に、緊張が走る。
「昨日かな、大学で。誰かを待ってるみたいだったけど」
前に乗り出すようにして、夏世の目を覗き込んだ。
「ひょっとして、オレを待ってたりして」
「ま~さか」
一蹴して、表情を少し変える。
「でも、もしそうだったら、どうする?」
「そりゃ、光栄だね」
岡崎はさらに顔を近づけてきた。そのまま、唇が触れそうになる直前に、夏世がささやいた。
「真奈美も、こうやって口説いたの?」
岡崎の動きがぴたりと止まる。
「真奈美?真奈美って?」
「しらばっくれんじゃないよ、10日くらい前に会ってるはずよ」
岡崎の顔が離れた。柔らかいソファに座りなおす。
「さあ?10日前・・・ねえ」
さっきまでとはうってかわって、品定めするようないやらしい目つきでじろじろと夏世を見た。それから、わざとらしくぽん、と膝を叩いて見せた。
「ああ、ひょっとしてあの子かな?」
思わず夏世が身を乗り出す。それをみて、にやりと岡崎が哂う。
「どうやら場所を変えたほうがよさそうだね。」
岡崎が席を立った。夏世も後を追うように席を立ち・・・
「あ・・・?」
急にふらっとめまいがした。倒れこみそうになった夏世を、岡崎が支えた。
「どうしたの?酔っ払っちゃった?しょうがないなあ、どこかでちょっと休もうよ」
それから、爽やかさとはかけ離れた表情でにやりとわらった。
(しまった・・・飲み物に、何か入ってた?)
自分が油断していたことに気がつき、歯噛みする。岡崎が何かを飲み物に入れるところはみなかった。でも、ひょっとしたら店ごとグルなのかもしれない。
だが、体の自由が利かない。
「マスター、ちょっと上借りるよ」
岡崎が店の主人に言う。主人も、当然のようにうなずいた。やはり店ごとグルだ。
夏世は、岡崎に連れられるまま店の奥へ向かわされた。
店の奥、通用口を抜けるとすぐに階段があった。
岡崎は、夏世に肩を貸しながら殺風景で人気のない階段を上に上がる。
「最初っからオレに用があったなら、別に薬使うことなかったなあ」
ニヤニヤしながらそんなことを言った。
「ま、安心しなよ。悪いようにはしないからさ」
すぐ上の階のドアを開けると、そこはちょっとした撮影スタジオのような雰囲気だった。
奥のほうにライトで照らされた一角があり、5,6人のお世辞にも柄が良いとはいえない男たちが待っていた。
男の一人、どうやらこの場を仕切っているようなサングラスをかけた中年男が夏世のほうに近づいてきた。
「へえ、この間の乳臭いガキとはまたずいぶん違う雰囲気だな」
夏世のあごをもってぐいっと上へ向かせる。
「目星つけて声かけたのに、びっくりだよ。どうやら、こないだの子の知り合いらしいよ」
「へえ?そりゃまたおもしろい」
にやにやしながら、男は岡崎が抱えているのと反対側の肩を支えて、部屋の奥の明るいほうへ夏世を連れて行った。
そこには、撮影用のセットのような場所があった。
どこかの暗い部屋を再現したようなセット。真ん中に大きなベッドが置いてあるのが目に付く。
「あの子の友達?」
サングラスの男が夏世の顔を覗き込んで訊いた。夏世はきっと男を睨んだ。
「まあいいさ。仲良し同士で同じ目にあうんだ、ちょうどいいじゃないか」
「ま・・・なみ・・・に・・・何を・・・」
「何だ?聞いてなかったのか。」
男のいやらしいニヤニヤ笑いは続く。
「あの子はな、岡崎のやつに口説かれて何も知らないでここまで来たのさ。あんたと同じように一服盛られて・・・あ、薬は中毒性のあるもんじゃないから安心しな。あとはここでかわいがられて、記念にビデオまで撮ってもらったってわけさ」
「ビ・・・」
「撮影料はいらないぜ。かわりに、ビデオ売ってちょっとだけ稼がせてもらうけどな。それに、ちゃんと出演料だって渡したぜ。現金じゃないけどよ」
「何言ってんだ、服破いちゃったから着替えをやっただけだろうがよ」
「受け取ったものは受け取ったものだろうがよ」
部屋にいた男たちが一斉にいやらしい含み笑いをした。
夏世にも、やっと訳が飲み込めた。
つまり、岡崎達は真奈美をだまして連れ込んで、乱暴した挙句にその一部始終を裏ビデオとして売ろうとしているわけだ。
「最初・・・から、それが目的・・・だったの?」
「勘違いするなよ、あの子は自分のほうからオレに告ってきたんだから」
岡崎が言いながら夏世を大きなベッドの上に放り出す。
「何人か引っ掛けたけど、今までのアバズレとは違った雰囲気だったからな、急遽予定を組ませてもらったよ。なかなか新鮮でよかったぜ、あのネンネちゃんも」
それから夏世の体をまじまじと眺めた。
「なあ、この女、割といい女だし、、オトモダチのためにここまで乗り込んでくるなんていい度胸じゃないか。このまま帰すってテはないぜ」
「ああ、警察にでもタレ込まれたらまずいからな」
「いっそのこと、薬漬けにしてどっかにうっぱらっちまうか」
一斉にげらげらと下卑な笑い声を上げる。
「さ、じゃ撮影始めるか。」
男のうち一人が服を脱ぎ始めた。岡崎は、うしろでにやにや見ているだけだ。「女優」をスカウトする立場としては、あまり顔を出したくないのだろう。
服を脱いだ男はベッドにのぼり、夏世の横に座った。
カメラが回り始める。
男は、夏世の上に覆いかぶさるように座り、夏世のシャツの襟に手をかける。。
「や・・・やめ・・・っ」
背筋に悪寒が走る。体中がイヤだと叫んでいるようだ。のしかかっている人間の体重は重く、こんな近くに寄られる圧迫感と嫌悪感から何とか逃げようともがく。けど、まだ体の自由がきかない。
それでも逃れたい一心で、夢中で叫んでいた。
「いやあああ!蘇芳、蘇芳―――!!」
・・・と。
急に、自分の上から男の体重が消えた。
バキッ!
派手な音がして、男が殴り飛ばされる。
男はそのままカメラを回していた男にぶつかり、二人いっぺんに倒れこんだ。
あまり自由にならない体を起こしてみると、この場に似つかわしくないほどきれいな、プラチナブロンドが見えた。
「遅くなってすみません・・・大丈夫ですか?」
今、まさに必要としていた柔和な笑顔がそこにあった。
「が・・・外人さん?!」
「今ちゃんと名前で呼んでくれたじゃないですか。逆戻りしないでくださいよ」
そういいながらにっこりと笑った。。
「だ・・・誰だ?!」
部屋にいた男たちが、怒りに震える形相で蘇芳を取り囲んだ。
蘇芳は男たちには一瞥もくれず、夏世に自分のジャケットをかぶせると抱き起こしてベッドに座らせた。
「君が呼んだような気がして。探しましたよ。無事でよかった・・・この場を何とかしますから、ちょっとこのまま休んでてくださいーーーおい、一平」
「おう」
よく見ると、部屋の隅っこに一平もいる。
「派手にやっていいぞ。後始末は俺が引き受けた」
「ほんと?!ラッキー♪」
一平は嬉々として男たちの方へ駆け出した。
「なんだあ?相手は兄ちゃんじゃなくてこんなガキかあ?」
男たちはげらげら声を上げて哂っている。・・・が。
「ぐあっっ!」
蘇芳が殴り飛ばした男よりも恰幅のいい男が、一平のキック一蹴で派手に吹き飛び、泡を吹いてのびてしまった。
「な・・・?!」
「ほらほらおっちゃんたち、油断してると痛い目みるぜえ?」
挑発的な一平の台詞に、男たちは爆発した。
「こんの、ガキいいいい!」
一斉にとびかかる。一平はどれも紙一重ですいすいとかわし、ひとり、またひとりと蹴りやパンチを決めていく。
夏世は呆然としてその様子をながめていた。
「外人さん・・・加勢しなくていいの?」
「僕が手を出すと邪魔だそうです」
横に座った蘇芳が肩をすくめた。
「あれでも、一応空手の有段者なんで」
「・・・すごいんだ」
そのとき、最初に蘇芳が殴り飛ばした男が目を覚まし、どこから出したのか、拳銃を構えているのが目の端に見えた。銃口は、一平を狙っている。
「!!」
夏世が思わず声を上げようとした瞬間。
があぁぁぁん!!
耳の劈けるような轟音がした。
弾丸はかなり正確に一平に向かって飛び、―――――はずれた。
「ちっ!」
男はやけのように2発、3発と撃つ。だが、そのどれもが一平には当たらない。
「ば、ばかな・・・あたらねえ?!」
「なんだよ、へったくそ」
にやにやと一平がからかう。
(絶対撃たれたと思ったのに・・・?)
夏世も不思議に思っていると、頭の中に声が響いた。
<あれは、一平が弾道を曲げてるんですよ。いくら撃ってもあたるわけがない>
「え?」
蘇芳のテレパシーだ。慣れていないので、思わず声に出して返事をする。
<声にださなくていいですよ。一平はね、やっぱり僕らの同類です。僕とは違って、テレパシーの類は使えないけど、念動力っていうのかな、テレキネシスとかテレポートとかいいうやつが得意です。ここに来たときもね、一平にテレポートで運んでもらいました>
唖然とした。いつだか一平が「テレパシーなんかは全然ダメ」と言っていたのは、こういう意味だったのか。
<あいつは正々堂々、超能力なんか使わないで黒帯になったんですけどね、今は相手が相手ですから、能力を加味して使ってるみたいですよ。さすがにあの体格差じゃあ、一撃で吹っ飛ばせないですから>
そんな会話を心の中でしているうちに、男たちの中で無事なのはあと一人になった。
岡崎だ。
岡崎は、みっともないほどに震え上がっている。
一平が視線を合わせると、「ひっ」と悲鳴を上げてへたりこんでしまった。
さすがの一平も汗だくで少し息が上がっている。それを制して岡崎に近寄ったのは、蘇芳だった。
「彼女の友達のビデオはもう販売ルートにのせたのか」
脂汗を流しながら、岡崎は激しく頭を横に振った。
「い、いま、ダビングしてる最中で、に、に、2・3日中に、出荷する予定だって」
すっと蘇芳が目を細める。
「どうやら本当らしい」
目を細めるのは、力を使うときの癖らしい。
一平が夏世の横に戻ってきてベッドに座った。
「夏世ねえちゃん、大丈夫?」
「うん。一平、すごいんだ」
「まあな~♪」
いいながら蘇芳と岡崎のやり取りに目を向ける。
「・・・それにしても、怖ええ。あんなの、初めて見た」
「え?」
「蘇芳だよ。すんごい、怒り狂ってる。手加減忘れなきゃ良いけど」
夏世の目からは氷のように冷静に見えるが、どうやら違うらしい。いくつか岡崎に質問したあと、蘇芳は岡崎の襟首を掴んで立ち上がった。
「これは今までに泣かされた人の分」
言うが早いか、力一杯ばちっと横面をひっぱたいた。
「これは、彼女の友達の分」
もう一発。岡崎は口の端が切れ、血をにじませている。
「それからこれが、彼女を泣かせて怖がらせた分だ」
3発目は思い切り体重を乗せた拳をお見舞いした。岡崎は仰向けに倒れこみ、そのまま気絶してしまった。
その後、蘇芳は男たち全員の記憶操作を行った。真奈美を毒牙にかけた、その頃からの記憶をすっぱり消してしまったのだ。それから、同じ室内にあった真奈美のビデオをすべて回収し(幸いまだ作業はほとんど進んでいなかったので、数枚のCD-Rを回収し、パソコンのデータを消す程度で終わった)、夏世を撮るために回していたテープをやはり回収した。
「あとは警察の仕事だよ。僕たちは井原さんと、井原さんの友達のデータが消せればそれでいい」
その作業が終わる頃には夏世も薬がだいぶ抜けてきた。一平に荷物を運び出させ、蘇芳は夏世の手をとって立たせた。
「無茶しちゃダメだっていったのに」
「・・・結局迷惑かけちゃった」
歩き出そうとして、またよろける。蘇芳がそれを受け止め、腕に抱きしめられるような形になった。
「井原さん、大丈夫?まだふらくつみたいですね」
蘇芳の胸は、広くて頑丈だった。そして、暖かかった。人の温もりがこんなに心地よいものなんだと、初めて夏世は感じた。
その体温を感じた途端、急にぽとりと大粒の涙が落ちてきた。
「え、あ・・・」
なんだか、突然緊張の糸が切れてしまったようだった。最初は一生懸命押し殺していたが、やがて、声を上げて泣き出した。
「ど、どこか怪我でもしましたか?痛むんですか?」
おろおろと慌てる蘇芳に抱きとめられたまま、ただ首を横に振るしかなかった。
蘇芳は少しの間驚いたような困ったような顔をしていたが、やがて夏世をそっと抱きしめた。
あれから1週間がたった。
あのあと、蘇芳が警察と連絡を取り、岡崎達は逮捕された。どういうつてを使ったのか分からないが、警察は夏世には全くノータッチだった。
どうやら蘇芳は、最後に夏世と分かれたあと、独自に岡崎について調査していたらしい。あのカフェバーも、スタジオも、それを采配していた暴力団も、いっきに警察の手が入ったようだ。
この1週間のうちに、暴力団がらみの裏ビデオのルートが次々と摘発された。テレビのニュースも、最初の2~3日は盛大に報道していたが、そろそろ沈静化してきただろうか。扱いが小さくなってきた。
真奈美には、夏世が事情を説明した。岡崎達をこてんぱんにのしたこと、真奈美のビデオをすべて破棄してきたこと。最初は夏世の話が信じられず疑心暗鬼になっていたが、翌日岡崎達が逮捕されたニュースが全国に走り、それについて警察から何の連絡も来ないことでようやく安心したようだ。
蘇芳の手配で、内密に真奈美を医者に診せ、体のほうは回復してきたが、まだまだ心の傷が癒えた訳ではない。
夏世はまだ学校にはこられない真奈美のために、毎日彼女の家へ通っている。
真奈美も少しずつではあるが、笑顔を見せてくれるようになってきた。
この日も授業のノートを持って夏世は真奈美の家を訪れていた。
「ねえ、夏世、あなたを助けてくれた人って、誰なの?」
二人でベッドの下へ並んで座り、手土産に持ってきたアイスを食べながら真奈美が訊いた。真奈美には、心配かけないように、偶然岡崎につかまったところを見ていた蘇芳が助けに乗り込んできてくれたことにしてある。
「ああ・・・・うん、へんなやつだよ」
夏世は、なんとなく口ごもる。本当、極端なおせっかいとしか思えない。あれだけ夏世が何度も拒絶しているのに、次に会う度ににこやかな笑顔で助けてくれる。
「外人だって言ってたよね?」
「本人は日本人だって言ってたよ、見てくれはモロ外人だけど」
蘇芳の顔を思い出したら、急に抱きしめられたときのことがぱっと頭に浮かんできた。一気に頭に血が上り、かあっと頬が熱くなってきた。
「?どうしたの?」
「う、ううん、なんでもない。」
「ひょっとして、夏世、その人のこと・・・」
「ち、違うよ、違う・・・」
否定してみたものの、心のどこかで抵抗を感じている自分にちょっと驚く。
そのまま赤くなってうつむいた夏世を見て、真奈美はちょっと意外そうな顔をした。
でもすぐに穏やかな表情になって、横に座っている夏世のほうへ身を乗り出した。
「夏世・・・あたし、その人にお礼いいたい。夏世を助けてくれてありがとうって」
「真奈美」
「ね、今度その人に会ったら伝えてくれる?私からのお礼」
「う・・・うん」
そういえば、あれから蘇芳に会っていない。
「お礼・・・かあ・・・あたしも、お礼言いに行かなくちゃ」
真奈美のベッドにもたれて、ベッドの後ろの窓から空を見る。時間はもう4時過ぎだが、まだ外は全然明るい。空は爽やかに青く、ちぎれた小さな雲がぽっかりと浮かんでいる。
(空の色より青い色だったな)
ふと、思う。
なんとなくお礼を言いに行きそびれていたのは、それでおしまいになってしまいそうな気がしたから。能力者同士というつながりがあっても、今回の一件が終わってしまったから、ひょっとしたら蘇芳はもう自分とは会わないかもしれない。
(もう、会えなくなるかもなあ)
それがなんとなくイヤで、ずるずるとお礼を言いに行くのを引き延ばしていた気もする。
とはいえ。
(まあね、あたしみたいのが相手にしてもらえるとも思えないしね)
と、ちょっと開き直る。
「うん。真奈美、私、明日会いに行ってくるよ」
真奈美がにっこりと笑顔だけを返した。
とは言ったものの、蘇芳の自宅なんて夏世は知らなかった。
ただ、別れ際に一平と携帯の番号とメルアドだけは交換していたので、その晩一平に連絡をとってみた。
「ここんとこ、蘇芳、家に帰ってないんだよ」
電話の向こうで一平がちょっと不満そうな声を漏らす。
「あ、でもさ、明日は帰るって言ってたから、その頃にあわせて来てみなよ」
一平は住所と行き方を簡単に教えてくれた。
それをたよりに、次の日に夏世はとある高級住宅街を歩いていた。
途中、道が分からなくなり、たまたま通りかかった中年の女性に道を聞いた。
「あの、古川さんってお宅を探してるんですが」
「古川さん?あの古川さんよね?」
中年の女性は、しげしげと夏世をみて、それから道を教えてくれた。
お礼を言って分かれて、すぐに蘇芳の家はみつかった。
それをみて、どうしてさっきの人が自分をあんなにじろじろ見ていたのかわかった。
蘇芳の家は、高級住宅街のこのあたりでも、ひときわ大きく、豪華な屋敷なのだ。
対して、今日の夏世はかなりラフなファッション。白のクロップトパンツにベージュのTシャツ、上から着ているシフォン地のチュニックは茶系のパッチワーク柄だ。
(しまった~、もっとちゃんとした格好してくるんだった)
もう一度出直してこようかとくるりと反対を向くと、
「あ!夏世ねーちゃん」
一平にみつかってしまった。一平はどうやら庭先で待ち構えていたらしく、重たそうな門を開けて夏世のほうへ走ってくる。
「あ・・・あら一平」
「どーしたんだよ、ほら、入って!」
一平に指定された時間は午後4時。そういえば、小学生が帰っていてもおかしくない時間だ。
強引な小学生に連れられて通された部屋は、瀟洒な応接室だった。
「蘇芳、実はまだ帰ってないんだよ」
夏世に席を勧めながら一平が言った。
「でも、さっき帰るって連絡があったから、もうすぐ着くと思うよ・・・あ、ほら」
窓の外から、車の音がする。
「・・・ねえ一平、蘇芳って、どうしたの?ずっと家に帰ってないって」
ふと尋ねてみる。
「ああ、仕事だよ。結局今回の一件で騒いでるうちに、だいぶサボっちゃって、つけが回ったって言ってたよ。いろいろ忙しかったんだって。」
「仕事?バイト?」
「え?あ、聞いてなかった?ほら、昴グループってあるだろ?」
「よくテレビでCF流してる、あれ?」
「うん。蘇芳は、昴グループの会長なんだよ」
「会長?」
ゆるやかに、驚愕がのぼってきた。
「え、え、えええええ?!」
たしかに、そのくらいの規模と格式がこの屋敷にはあると思う。
昴グループといえば、日本でも最大級のコングロマリット。その新しい会長はおもてに顔を出さないので有名だと聞いたことはあったが、まだ高校生の夏世にはまったく興味のない話だった。でも、そのものずばりの本人であるという事実は、やはり驚愕に値する。
「じゃ、オレ、蘇芳呼んで来る」
目が飛び出しそうに驚いている夏世を残して、一平は部屋を出て行った。
ほどなく、応接室のドアが開いた。
「井原さん」
そういってニッコリ笑った蘇芳は、本当にくたびれて見えた。
上等そうな淡いグレーのスーツに紺地のネクタイをしているが、どれもちょっとよれよれだった。ネクタイにいたっては、金曜の夜の新橋のおじさんのようにゆるんでいる始末だ。
けだるそうにスーツの上を脱いで、扉の一番近くの椅子に置いた。
「なんか、本当に疲れてるんだ・・・帰ってきてないって一平が言ってたけど、ちゃんと寝てるの?」
「ん・・・7時間くらい・・・」
「1日7時間?」
「いや、4日で・・・」
いいながら体を投げ出すように夏世の向かいのソファに座る。夏世はそれをみて
「ごめん。またにするよ。ゆっくり寝てよ」
と、席を立った。
「え、いいですよ、大丈夫。なにか用があったんじゃないんですか?わざわざ会いに来てくれたのに」
そういって夏世を見る表情はやっぱりやさしい。夏世はなんだか見つめられているのがはずかしくなってきて、ちょっとそっぽを向いた。
「・・・その、まだちゃんとお礼を言ってなかったと思って・・・」
「え?」
改めて、蘇芳を見て、頭を下げた。
「本当に、ありがとう。真奈美も少しずつだけど元気になってきたよ。まだ学校には行ってないけど、だいぶ前向きになってきた。あたしも・・・一杯助けてもらったし・・・ちゃんと、お礼をいいたかったんだ」
蘇芳はちょっと驚いたような顔をした。
「とんでもない、いいですよ、お礼なんて・・・あ」
いいながら、ちょっとだけ口ごもる。それから何かを考えるように、座ってる膝に片肘をつき、口元を隠すように手にあごを乗せる。
「なに?何か私でできることがあったら・・・」
「・・・じゃ、お言葉に甘えちゃおうかな」
ちょっと蘇芳の顔が赤い。
「その、もうちょっと端っこのほうに座って」
「こっち?」
言われるがまま、ソファの一番端っこに座る。蘇芳は座っていた一人掛けのソファを立って、夏世の横に座ると、そのままごろん、と夏世の膝を枕にソファに横になった。
「が、外人さ・・・」
「じゃなくて」
「・・・蘇芳?」
にっと笑って眼鏡をはずす。
「ちょっとでいいから、このままでいてくれないか」
眼鏡をテーブルに置き、その手で軽く目をマッサージしながらあくびをした。もう、半分くらいは眠りに落ちているようだ。
「俺と一緒にいないほうが、君にとって平穏なんだってことはわかってる。君は人と違う能力を自覚しないで、普通に生活できるんだから」
真上から見下ろす夏世の胸まで届く長い黒髪を、左手でくるくるっと弄ぶ。
「でも・・・・それでも俺は・・・」
その髪を引っ張って、髪にそっと口付ける。
「夏世・・・好きだよ」
聞き取れるかどうかの小さな声でささやくと、そのまま蘇芳は眠ってしまった。
あとには顔から火を噴出しそうなほど真っ赤になった夏世が、その寝顔から目を離せずに固まっているだけ。
「もう・・・返事くらい、聞いてから寝てよ」
そっと寝ている蘇芳の頬に触れる。蘇芳は深く眠ってしまったらしく、起きる気配はない。
そのまま窓の外に目を転じると、昨日と同じように晴れ渡った青空が、揺れるカーテン越しに見えた。
夏世は、膝に乗った重さを幸せに感じながら、自分の居場所をやっとみつけたと思った。