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サイドストーリー 色褪せた栞、あるいは永遠の迷子

新しい学校の教室は、どこか消毒液のような冷たい匂いがした。

窓から見える景色は、前の学校とそう変わらないはずなのに、全てが彩度を失って灰色にくすんで見える。

私は、教室の隅の席で息を潜めるようにして座っていた。誰とも目を合わせないように、気配を消して。まるで、石ころか何かになったつもりで。


「ねえ、あの子。転校生の水瀬さんだよね」

「なんか暗くない? ずっと下向いてるし」

「前の学校で何かあったのかな?」


背後から聞こえるひそひそ話に、背筋が凍りつく。

心臓が嫌な音を立てて早鐘を打つ。

バレた? 私があの「事件」の女だって、もう知れ渡ってしまったの?

冷や汗が背中を伝う。指先が震えて、握りしめたシャープペンシルがカチカチと音を立てる。


違う。落ち着いて、咲良。

ここは県外の田舎町。あの学校からは遠く離れている。私の名前だって、ありふれた名前だ。ネットに晒された顔写真はモザイクがかかっていたし、鮮明な画像は削除要請が出されているはず。

だから、誰も私のことなんて知らない。

ただの「大人しい転校生」として振る舞えば、平穏な日常が手に入るはずなんだ。


でも、恐怖は消えない。

スマホを開くのが怖い。SNSを見るのが怖い。

そこには、私の過去が、恥部が、デジタルタトゥーとして永遠に刻み込まれているから。

『図書室のふしだら女』『勘違い文学少女』『教師を誘惑したビッチ』。

無数の悪意ある言葉が、画面の向こう側で私を嘲笑っている。

たとえ物理的に距離を置いても、私はネットという広大な海の中で、一生晒し者なのだ。


キーンコーンカーンコーン……。


放課後のチャイムが鳴った。

その音は、かつては解放の合図だった。蓮くんと一緒に図書室へ行き、静かな時間を過ごすための始まりの合図。

でも今は、ただの「逃走」の合図だ。


私は誰よりも早く鞄をまとめ、逃げるように教室を出た。

「さようなら」の一言も言わずに。

廊下を早足で歩く。すれ違う生徒たちの視線が、全て私を品定めしているように感じる。

「あの子だよ」「知ってる?」

そんな幻聴が鼓膜にこびりついて離れない。


私は校舎を出ると、足早に家路を急いだ。

寄り道なんてできない。クレープ屋も、本屋も、今の私には立ち寄る資格のない眩しい場所だ。

ただ、薄暗い自室の布団の中に潜り込むことだけが、唯一許された安息だった。


***


家に帰り、制服のままベッドに倒れ込む。

天井の染みを見つめながら、私はぼんやりとあの日々のことを反芻する。

それは、私の頭の中で繰り返される、終わりのない裁判のようなものだ。


堂島巧。

あの人の名前を思い出すだけで、胸の奥が焼けるように痛む。恋しさではない。恥辱と、嫌悪と、そしてどうしようもない後悔だ。


『君には才能がある。原石の輝きを感じるよ』

『本当の愛は、もっと痛みを伴うものだ』


あの時の私は、その言葉を魔法の呪文のように信じ込んでいた。

自分は特別なんだ。周りの高校生とは違う、高尚な魂を持っているんだ。だから、常識に囚われずに「本物の愛」を追求することが許されるんだ。

そう思い込むことで、蓮くんを裏切る罪悪感を麻痺させていた。


馬鹿だった。本当に、救いようのない馬鹿だった。

あれは魔法なんかじゃなかった。ただの、安っぽい手品だった。

私は知識を餌に釣られただけの、世間知らずな子供。

堂島にとって私は、文学のミューズなんかじゃなく、ただの性欲処理の道具であり、コレクションの一つに過ぎなかった。


全校集会でのあの光景が、フラッシュバックする。

スクリーンに映し出された、私の情けない表情。

スピーカーから流れた、蕩けたような自分の声。

『先生、好き……』

あんな声、私が発したなんて信じたくなかった。でも、紛れもなく私だった。

欲に溺れ、自分をヒロインだと勘違いし、蓮くんを「番犬」呼ばわりされてもヘラヘラと笑っていた、醜い私。


「う……っ」


吐き気が込み上げてくる。

私は口元を押さえ、涙を滲ませた。

汚い。私は汚い。

文学的? 美しい悲劇?

笑わせないで。ただの淫行じゃない。ただの裏切りじゃない。

蓮くんは、あの日、私にそう突きつけた。


『現実は小説みたいに綺麗じゃない。臭くて、汚くて、惨めなもんだよ』


彼の言葉は正しかった。

今の私は、まさにその「惨めな現実」の中を這いずり回っている。

小説のヒロインなら、最後には悲しくも美しい死を遂げたり、劇的な赦しを得たりするのかもしれない。

でも現実は違う。

ただ、淡々と続く日常の中で、誰にも同情されず、ひっそりと腐っていくだけだ。


ふと、枕元に置いてあったスマホが震えた。

ビクリとして画面を見る。

ニュースアプリの通知だった。


『元教育実習生、起訴へ。余罪の追及続く』


堂島の顔写真が小さく表示されている。

その顔を見ても、もう何の感情も湧かなかった。憎しみさえ希薄だ。

ただ、「この男のせいで私の人生は終わったんだ」という、冷めた事実確認があるだけ。

彼が刑務所に入ろうが、社会的に抹殺されようが、私の失ったものは戻らない。私の心についた泥は、一生落ちない。


私は通知をスワイプして消した。

そして、恐る恐るSNSのアイコンをタップした。

見てはいけないと分かっているのに、指が止まらない。自傷行為のような日課。

検索窓に、私の旧姓と名前、そして前の高校の名前を入力する。


『水瀬咲良 現在』

『水瀬咲良 転校先』


幸い、具体的な転校先までは特定されていないようだった。

でも、過去のスレッドはまだ残っていた。

私の顔写真が貼られ、好き勝手なコメントがついている。


『こいつ、清楚ぶってるけど中身ドロドロだよな』

『彼氏がかわいそうすぎる。俺なら人間不信になるわ』

『でも彼氏、最後に復讐してスカッとしたよな。ハッカーみたいですげえ』


彼氏。

蓮くん。

画面の中の文字を見るだけで、心臓が握りつぶされるような痛みが走る。


蓮くんは、今どうしているんだろう。

私は、別のアカウントを使って、こっそりと前の学校の生徒たちの投稿を探った。

蓮くんのアカウントは鍵がかかっていて見られない。でも、共通の友人や、図書委員の後輩のアカウントなら……。


見つけた。

図書委員の活動報告をしているアカウント。

そこには、新しい図書室の写真がアップされていた。


『今日は新刊の受け入れ作業! 委員長がすごいスピードでデータ入力してくれて助かりました〜』


写真の端に、蓮くんの後ろ姿が写っていた。

パソコンに向かい、真剣な背中で作業をしている。

その隣には、見知らぬ女子生徒がいた。一年生だろうか、小柄で、髪の短い子。彼女は蓮くんの画面を覗き込み、何か楽しそうに話しかけている。


『新入りの古都ちゃんも頑張ってます! 癒し系!』


古都ちゃん。

それが、新しいあの子の名前らしい。

写真の中の空気は、穏やかで、清潔で、光に満ちていた。

かつて、私がいた場所。私が一番好きだった場所。

でもそこには、もう私の居場所は1ミリも残されていない。

私の席には、別の誰かが座り、蓮くんと笑い合っている。


「……あぁ」


喉の奥から、乾いた音が漏れた。

嫉妬? 違う。そんな資格すらない。

これは、喪失だ。

私は自分で、あの場所を捨てたのだ。

堂島の甘い言葉に誘われて、自分からあの楽園を汚し、出て行ったのだ。

だから、これは当然の報い。


でも、涙が止まらない。

画面の中の蓮くんは、私といた時よりも、どこか頼もしく、そして晴れやかな背中をしていた。

彼はもう、私のことなんて思い出してもいないだろう。

ブロックされ、削除された連絡先。

彼の人生のログから、私は完全にパージされたバグデータなのだ。


私はスマホを放り投げ、布団を頭から被った。

暗闇の中で、目を閉じる。

まぶたの裏に、蓮くんとの思い出が蘇る。

放課後のクレープの甘さ。

一緒に本を読んだ時の、ページをめくる音。

『咲良らしい鋭い視点だと思うよ』と褒めてくれた、優しい声。


あの日々は、本当に幸せだった。

「子供っぽい」なんて見下していたけれど、あれこそが本物の幸せだった。

穏やかで、温かくて、傷つくことのない世界。

私はそれを、自らの手で壊した。

「もっと刺激が欲しい」「もっと大人の世界が見たい」なんて、愚かな欲望のために。


刺激的な世界は、確かにあった。

でもそれは、私を食い物にするだけの、冷酷なジャングルだった。

私はそこで食い散らかされ、ボロボロになって捨てられた。

そして今、温かかった巣箱には戻れず、寒空の下で凍えている。


「ごめんなさい……蓮くん……」


誰もいない部屋で、謝罪の言葉を呟く。

何度言っても届かない。届くはずがない。

私はもう、彼にとって「終わった物語の登場人物」ですらないのだから。


***


翌日。

私はまた、死んだような顔をして学校へ行った。

授業の内容は全く頭に入らない。先生の声が、遠い国のお経のように聞こえる。

休み時間、私は誰とも話さず、自分の席で文庫本を開いた。

活字を目で追うふりをする。

でも、物語の内容なんてどうでもよかった。ただ「本を読んでいる大人しい子」という記号を身にまとって、他人を拒絶したかっただけだ。


「あの、水瀬さん?」


不意に声をかけられ、私はビクリとして顔を上げた。

目の前に立っていたのは、クラス委員の女子だった。眼鏡をかけた、真面目そうな子だ。


「……はい」

「次の移動教室、場所分かる? もしよかったら一緒に行く?」


彼女は親切心で声をかけてくれたのだろう。屈託のない笑顔を向けてくれている。

普通なら、「ありがとう」と言って一緒に歩く場面だ。転校生として、友達を作るチャンスだ。

でも、私にはそれができなかった。


彼女の笑顔が、怖かった。

もし、彼女が私の正体を知ったら?

「あの事件の女だ」と知ったら、その笑顔は一瞬で軽蔑に変わるんじゃないか?

そう思うと、喉が詰まって声が出なかった。


「……あ、私、ちょっとトイレ行くから。先に行ってて」


私は震える声でそう言い捨てて、席を立った。

逃げたのだ。また。

彼女の「あれ?」という戸惑った顔を背中で感じながら、私は廊下へ飛び出した。


トイレの個室に駆け込み、鍵をかける。

狭い空間に閉じこもり、荒い息を吐く。

無理だ。私にはもう、普通の人間関係なんて築けない。

誰の顔を見ても、疑心暗鬼になってしまう。

「知ってるんじゃないか」「笑ってるんじゃないか」。

その恐怖が、私を孤独な檻に閉じ込める。


これは、一生続くのだろうか。

私はこれから先、どこの学校に行っても、社会に出ても、ずっとこの恐怖に怯えながら生きていくのだろうか。

誰かと恋をすることも、結婚することも、もう二度とないだろう。

だって、私の名前を検索すれば、あの忌まわしい過去がすぐに出てくるのだから。

私の体には、見えないけれど消えない「汚点」が刻まれているのだから。


「……自業自得、か」


トイレの鏡に映る自分を見る。

やつれた顔。虚ろな目。

かつて「文学少女」を気取っていた頃の、小綺麗な私はどこにもいない。

そこにいるのは、ただの「裏切り者の残骸」だ。


放課後。

私はまた一人で下校した。

ふと、駅前の書店が目に入った。

吸い寄せられるように、中に入る。

新刊コーナーには、話題の小説が平積みされている。

色とりどりの表紙。帯に書かれた煽り文句。

『感動の純愛!』『涙が止まらない!』


以前なら、ワクワクしながら手に取っていただろう。

でも今は、それらの言葉が白々しく見えた。

純愛? 感動?

そんなものは、フィクションの中にしかない。

現実には、裏切りと、欲望と、破滅しかない。


私は文学の棚の前まで歩いた。

そこには、かつて堂島が私に勧めた作家たちの本も並んでいた。

谷崎、太宰、バタイユ。

背表紙を見るだけで、あの時の図書室の匂い――カビ臭さと、堂島の甘い香水の匂い――が蘇り、吐き気がした。


私は逃げるようにその場を離れようとして、ふと一冊の本に目が止まった。

それは、蓮くんが好きだったSF小説のシリーズ最新刊だった。

ハードボイルドな探偵が、宇宙を旅する物語。

『感情に流されるな。事実は一つしかない』

帯には、主人公の決め台詞が書かれていた。


私は震える手でその本を手に取った。

蓮くんは、今頃この本を読んでいるだろうか。

新しい図書室で、あの古都という女の子と一緒に、「これ面白いよね」なんて言いながら。

そこには、私の入る隙間なんてない。

私がかつて軽蔑していた「子供っぽいエンタメ」の世界で、彼は正しく、幸せに生きている。

そして、高尚ぶっていた私は、泥沼の中で溺れている。


どちらが愚かで、どちらが賢かったのか。

答えは明白だ。


私は本を棚に戻した。

私には、その本を読む資格さえない気がした。

蓮くんの世界に触れることさえ、許されない気がした。


店を出ると、冷たい風が吹いていた。

空は茜色に染まりかけている。

美しい夕焼けだ。

でも、その美しさを共有できる人は、もう誰もいない。


「……さようなら」


私は誰に向かってでもなく呟いた。

それは、蓮くんへの別れであり、かつての自分への別れでもあった。

「悲劇のヒロイン」を気取っていた私は、もう死んだのだ。

これからは、名前のないモブキャラとして、ひっそりと生きていくしかない。

物語の舞台袖で、誰にも気づかれないように息をして、ただ終わりの時間を待つだけの存在として。


私はマフラーに顔を埋め、雑踏の中へと歩き出した。

すれ違う人々は、誰も私を見ない。

それが今の私にとって、唯一の救いであり、そして最大の罰だった。


ポケットの中でスマホが震えた気がしたけれど、私はもう確認しなかった。

どうせ、ろくな通知じゃない。

私の人生にはもう、心躍るような通知なんて届かないのだから。


一歩、また一歩。

私は重い足取りで、私のいない、誰も私を待っていない家へと帰っていく。

その背中には、一生消えない「裏切り」というレッテルが、冷たく張り付いていた。

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