サイドストーリー 傷跡の告白、あるいは解放の歌
テレビの画面に映し出されたその男の顔を見た瞬間、私が持っていたマグカップが床に落ちた。
陶器が砕ける乾いた音と、熱いコーヒーがフローリングに広がる音。それらが遠くの出来事のように感じられるほど、私の意識は画面の一点に釘付けになっていた。
『――県内の私立高校で教育実習を行っていた堂島巧容疑者を、児童福祉法違反および県青少年保護育成条例違反の疑いで逮捕しました』
無機質なアナウンサーの声が、その名前を読み上げる。
堂島巧。
その名前は、私の青春を彩った甘美な響きであり、同時に私の人生を長年縛り付けてきた呪いの言葉でもあった。
画面の中の彼は、ジャケットで顔を隠し、うつむき加減で警察車両に乗り込もうとしていた。かつて私が知っていた、自信に満ち溢れ、世界の全てを見下ろすような傲慢な輝きは、そこには微塵もなかった。ただの、薄汚れた犯罪者としての姿があるだけだった。
「……嘘」
唇から漏れた声は震えていた。
心臓が早鐘を打つ。恐怖か、驚きか、それとも――。
私、篠原美月は、震える手でスマートフォンの画面をタップした。ニュースアプリ、SNS、掲示板。どこもかしこも、この話題で持ちきりだった。
『名門高校の実習生、図書室で教え子を洗脳』
『過去の余罪多数か。押収されたPCから大量の画像データ』
『全校集会で生徒により告発される。前代未聞の公開処刑』
流れてくる情報の奔流に、私はめまいを覚えた。
図書室。洗脳。過去の余罪。
その単語一つひとつが、私の心の奥底に封印していた記憶の蓋を、無理やりこじ開けていくようだった。
これは、私の話だ。
正確には、かつて彼に弄ばれた「私たち」の話だ。
***
あれは五年前。私が高校一年生だった頃のことだ。
当時の私は、人付き合いが苦手で、本の世界に逃げ込むだけの地味な少女だった。放課後の図書室だけが、私の居場所だった。
そこで出会ったのが、当時三年生で図書委員長を務めていた堂島先輩だった。
『君、いい本読んでるね』
声をかけられた時のことは、今でも鮮明に覚えている。
逆光の中で微笑む彼は、まるで小説の中から飛び出してきた王子様のように見えた。知的で、大人びていて、私の知らない世界をたくさん知っていた。
私は一瞬で恋に落ちた。それは、生まれて初めての恋だった。
彼は私に、たくさんの本を教えてくれた。
授業では扱わないような、少し過激で、背徳的な香りのする文学作品。
『愛とは、常識を越えることだよ』
『君には特別な才能がある。僕だけがそれを見抜けるんだ』
彼の甘い言葉は、孤独だった私の心に染み渡る麻薬のようだった。私は彼に認められたくて、彼が勧める本を読み漁り、彼の価値観に染まっていった。
そして、あの日。
人気のない図書室の奥、郷土資料コーナーの暗がりで、私は彼にファーストキスを捧げた。
怖かった。いけないことだと思った。
でも、彼が『これは文学的な儀式なんだ』と囁くたびに、私の理性は溶かされていった。
私は彼の人形になった。彼が望む言葉を言い、彼が望む表情を作り、彼が望むままに体を許した。
それが「大人の愛」だと信じて疑わなかったからだ。
しかし、その「愛」は唐突に終わった。
彼が卒業した日。
『じゃあね。元気で』
それだけだった。
特別な別れの言葉も、将来の約束もなかった。彼はまるで、読み終えた本を棚に戻すように、あっさりと私を切り捨てたのだ。
私は泣いてすがったけれど、彼は困ったような、少し冷めた目で私を見ただけだった。
『美月ちゃん、重いよ。物語は終わったんだ。現実に戻りな』
その言葉で、私はようやく理解した。
私はヒロインなんかじゃなかった。ただの暇つぶしの相手だったのだと。
それ以来、私は恋ができなくなった。男性の甘い言葉を聞くと吐き気がするようになり、本を読むことさえ苦痛になった。
私は大学に進学してもなお、あの図書室の暗い影に囚われ続けていたのだ。
***
私は床に散らばったコーヒーを拭き取ることも忘れ、スマホの画面をスクロールし続けた。
ネット上では、事件の詳細が次々と特定されていた。
告発したのは、現役の図書委員長の男子生徒らしい。彼が堂島のパソコンや貸出履歴をハッキングし、全校生徒の前で証拠を晒したというのだ。
「すごい……」
思わず声が出た。
私にはできなかったことだ。私はただ泣き寝入りし、自分を責めることしかできなかった。
「私が軽かったからだ」「私が誘惑に乗ったからだ」と、ずっと自分を呪い続けてきた。
でも、この男子生徒は違った。堂島の悪意を見抜き、正面から戦い、そして勝ったのだ。
さらに読み進めると、ある掲示板のスレッドにたどり着いた。そこには、流出したとされる堂島の「コレクションリスト」の一部が貼られていた。
もちろん名前は伏せられているが、日付や特徴が記されている。
『No.08:高1、黒髪ロング、大人しい、S4-B2の隠し場所に手紙あり』
息が止まった。
No.08。
時期も、特徴も、私と一致する。
そして「S4-B2」というのは、第四書架の下から二段目という意味だろう。あそこは、私たちが秘密の手紙を交換するために使っていた隠し場所だ。
「手紙……残ってたんだ……」
私が書いた、恥ずかしいポエムのような恋文。
『先生のためなら何でもします』『一生愛しています』。
あんな痛々しい手紙を、彼は捨てずに持っていたのか。
愛おしかったから? 違う。
「戦利品」としてだ。
彼は自分が堕とした女たちの記録を、番号をつけてコレクションしていたのだ。
怒りが、ふつふつと湧き上がってきた。
悲しみでも、恥ずかしさでもない。純粋で、熱い怒りだ。
私は彼にとって、人間ですらなかった。ただのナンバー。ただの標本。
その事実を突きつけられた瞬間、私の中で何かが弾けた。
「……ふざけんな」
私は吐き捨てるように言った。
今まで、心のどこかで彼を美化していた自分がいた。「ひどい別れ方だったけど、あの時の恋は本物だったかもしれない」と、淡い幻想にしがみついていた。
でも、それは間違いだった。
あれは搾取だ。暴力だ。
私の純情を、未来を、踏みにじっただけの悪行だったのだ。
私はSNSで「堂島巧」を検索した。
そこには、彼を罵倒する言葉が溢れかえっていた。
『キモい』『性犯罪者』『一生刑務所から出てくんな』。
世間の人々が、私の代わりに彼を石打ちにしてくれている。
そして、今回の事件の被害者である女子生徒(彼女もまた、私と同じように騙されていたのだろう)に対しては、同情の声とともに「洗脳が解けてよかった」という安堵の声が多く見られた。
告発した男子生徒――佐伯くんというらしい――に対しても、賞賛の嵐だった。
『彼女を守るためにここまでやるとか、男の中の男だな』
『最高のざまぁ展開。スカッとした』
私は泣いていた。
悲しくて泣いているのではない。
救われた気がしたからだ。
私が五年間抱え続けてきた「誰にも言えない秘密」「汚れた自分への嫌悪感」。それらが、佐伯くんの行動によって肯定され、浄化されていくような感覚だった。
「ありがとう……」
会ったこともない、名前しか知らない彼に向かって、私は呟いた。
あなたが堂島を断罪してくれたおかげで、過去の亡霊となっていた私まで救われた。
堂島はもう、誰も傷つけられない。
彼の社会的地位は抹殺され、教員免許も剥奪され、一生「性犯罪者」の烙印を背負って生きていくことになる。
ざまぁみろ。
心からそう思った。
私の青春を返せとは言わない。でも、お前が奪ったものの代償は、これからの人生すべてを使って支払うべきだ。
***
数日後。
私は大学の講義をサボって、電車に乗っていた。
向かう先は、母校のある街だ。
もう二度と行くことはないと思っていた場所。でも、どうしても自分の目で確かめたいことがあった。
駅を降りると、懐かしい風景が広がっていた。
通学路の並木道、買い食いしたクレープ屋、古びた書店。
記憶の中ではモノクロだった景色が、今日は鮮やかに色づいて見えた。
私はゆっくりと歩き、高校の校門の前まで来た。
もちろん、部外者である私が中に入ることはできない。
私は校門の柵越しに、校舎を見上げた。
三階の角部屋。あそこが図書室だ。
あそこで私は彼に出会い、恋をし、そして壊された。
でも、今の図書室に彼の気配はない。
報道によれば、学校側は図書室を一時閉鎖し、全ての蔵書を点検、消毒し、さらにあの忌まわしい「死角」をなくすために書架の配置換えを行う予定だという。
彼の痕跡は、物理的にも消去されるのだ。
放課後のチャイムが鳴った。
生徒たちが昇降口から出てくる。楽しそうな笑い声。
あの中に、今回の事件の当事者たちがいるのだろうか。
被害者の女の子は、傷ついているかもしれない。でも、きっと大丈夫だ。
彼女には、守ってくれる人がいたから。私とは違う。彼女は一人じゃない。
ふと、一人の男子生徒が校門を出てくるのが見えた。
少し背が高く、真面目そうな眼鏡の少年。手には分厚い本を持っている。
彼が「佐伯くん」なのかどうかは分からない。ただの通りすがりの生徒かもしれない。
でも、彼はふと立ち止まり、校舎の方を――図書室の方を振り返った。
その表情は、どこか晴れやかで、誇らしげに見えた。
私は心の中で彼に頭を下げた。
名も知らぬヒーローへ。
あなたが守ったのは、今の彼女だけじゃない。過去に泣いていた私のような「No.08」たちも、あなたの勇気によって呪縛から解き放たれたのです。
私は踵を返した。
もう十分だ。確認したかったことは確認できた。
堂島巧は消えた。私の過去から、未来から、完全に消滅した。
帰り道、私は駅前の書店に立ち寄った。
五年間、避けてきた文学のコーナーへ足を向ける。
棚に並ぶ背表紙たち。
かつては、それを見るだけで堂島の顔がちらつき、吐き気がした。
でも今は、ただの本だ。紙とインクの束だ。
そこには何の罪もない。
私は一冊の文庫本を手に取った。
それは堂島が「子供っぽい」と馬鹿にしていた、現代作家のエンターテインメント小説だった。
パラパラとめくってみる。
読みやすそうな文章。ワクワクするような冒険の予感。
堂島の歪んだ解釈など必要ない、純粋に物語を楽しむための本。
「……読んでみようかな」
私はその本を持ってレジへ向かった。
財布からお金を出す手が、もう震えていないことに気づく。
店を出ると、夕日が街を茜色に染めていた。
風が髪を揺らす。
私は大きく深呼吸をした。
空気が美味しい。
こんな当たり前のことに気づくのに、五年もかかってしまった。
スマホを取り出し、連絡先リストを開く。
そこには、大学のサークルの同期で、何度か食事に誘ってくれていた男の子の連絡先があった。
ずっと「怖い」と思って無視していたけれど、彼はとても誠実そうで、私のペースに合わせてくれる優しい人だった。
堂島とは正反対の、不器用だけど温かい人。
『久しぶり。この前の映画の話、まだ有効かな?』
私は短いメッセージを打ち込み、送信ボタンを押した。
すぐに既読がつき、返信が来た。
『もちろん! 今度の週末、空いてる?』
画面の向こうの彼が、慌ててスマホを操作している姿が目に浮かんで、私は思わず吹き出した。
笑ったのはいつぶりだろう。
自然な、心からの笑い。
私はスマホをポケットにしまい、軽やかな足取りで駅へと歩き出した。
カバンの中には、新しい本。
胸の中には、新しい予感。
さようなら、堂島巧。
さようなら、私の惨めだった初恋。
あなたは檻の中で一生、自分の犯した罪と向き合って腐っていけばいい。
私は生きる。
あなたのいない、自由で美しい世界を。
思いっきり楽しんで、幸せになってやる。
それが、私にできる最大の復讐だ。
駅のホームに電車が滑り込んでくる。
ドアが開く。
私は一歩、前へと踏み出した。
その足取りは、もう過去に引きずられることなく、力強く未来へと続いていた。




