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サイドストーリー 愚者の檻、あるいは道化の独白

教育とは、無知な石ころを拾い上げ、自分好みの宝石に磨き上げる崇高な遊びだ。

母校の正門をくぐりながら、俺、堂島巧どうじま たくみは、湧き上がる高揚感を抑えるのに苦労していた。

初夏の風が心地よい。スーツの襟を正し、ショーウィンドウに映る自分の姿を確認する。完璧だ。知性と若さを兼ね備えた、理想的な教育実習生。誰もが俺を歓迎し、尊敬の眼差しを向けるだろう。


だが、俺がここに来た真の目的は、教員免許という紙切れを得ることではない。

かつてこの学舎で味わった、あの甘美な征服感を再び味わうためだ。

未成熟な精神、無垢な肉体。それらに「文学」という名の毒を注ぎ込み、常識という殻を破らせる。その瞬間に立ち会うことこそが、俺にとっての至上の快楽なのだ。


「さて、今回はどんな原石が転がっているかな」


俺は足取り軽く、職員室へと向かった。

今回のターゲットは、すでに決めている。俺の聖域であり、狩場でもあった場所――図書室にいるはずだ。


***


放課後の図書室は、記憶の中の景色と何一つ変わっていなかった。

静寂、埃の匂い、そして整然と並ぶ書架。

俺は懐かしさを噛み締めながら、獲物を物色するように視線を巡らせた。

そして、窓際の席に座る一組の男女を見つけた。


男の方は、地味で特徴のない顔立ち。眼鏡をかけていないのに、なぜか「ガリ勉」という言葉が似合うような退屈な男だ。

そして、その向かいに座る少女。

黒髪のロングヘア、清楚な制服の着こなし、伏し目がちに本を読む姿。

俺のセンサーが激しく反応した。


(ビンゴだ)


水瀬咲良。それが彼女の名前だった。

図書委員の名簿を確認した時、一番ありふれた、しかしどこか儚げな響きに惹かれたのだが、実物は予想以上だった。

彼女は「文学少女」という枠に自分を押し込めているが、その実、中身は空っぽだ。本を読んでいる自分が好きなだけで、本質的な理解には達していない。そういう手合いは、少し難しい言葉で煙に巻いてやれば、簡単に落ちる。


俺は満面の笑みを作ると、彼らのテーブルに近づいた。


「おっ、ここが図書室か。懐かしいなあ」


わざと大きな声を出して、静寂を壊す。

彼らが驚いて顔を上げる。男の方は不快そうに眉をひそめたが、少女の方はきょとんとしていた。

俺は彼女の瞳に、俺への好奇心が宿るのを見逃さなかった。

勝負は、この瞬間に決まっていたのかもしれない。


俺は自己紹介をし、OBであることをアピールし、そして彼らの読書傾向を探った。

男――佐伯蓮といったか――は、SF小説などを好む、いわゆる理系脳のようだった。論理的でつまらない。俺の最も嫌いなタイプだ。

一方、咲良は明治の文豪を読んでいた。

『こころ』か。高校生が読みがちな、そして誤読しがちな作品だ。


「先生の解釈は興味深いですが、それはあくまで一つの可能性ですよね」


佐伯が生意気にも反論してきた時、俺は心底呆れ果てた。

民主主義的な多様性? 読む人の数だけ解釈がある?

ちゃんちゃらおかしい。芸術には明確なヒエラルキーがあるのだ。高尚な解釈と、低俗な解釈。それらを同列に語ること自体が、教養のなさを露呈している。


俺は佐伯を無視し、咲良だけに語りかけた。

「経験が必要だ」「大人の痛みを知れ」。

ありきたりな誘い文句だが、この手の「背伸びしたい少女」には劇薬となる。

案の定、咲良の瞳は熱を帯び、頬は紅潮した。

彼女は今の退屈な日常に飽き飽きしているのだ。佐伯のような刺激のない男との「おままごと」に満足できていないのだ。


(チョロいな)


俺は心の中で嘲笑しながら、彼女の手の甲にそっと触れた。

彼女は拒まなかった。

これで第一段階はクリアだ。


***


実習が始まって数日後、俺は咲良を完全に支配下に置いていた。

手口はいつもと同じだ。

まずは、彼女の知的好奇心を刺激するような、少し背徳的な文学作品を薦める。サド、バタイユ、谷崎。

そして、「これを理解できる君は特別だ」と選民意識を植え付ける。

彼女は喜んでその毒を飲み干し、自分を「高尚な理解者」だと錯覚し始めた。


「佐伯くんには内緒だよ。彼は子供だから、こういう芸術は理解できない」


そう囁くことで、彼女と佐伯の間に壁を作る。共犯関係の構築だ。

彼女は佐伯を見下すようになり、俺への依存度を高めていった。


そして、あの日。

俺は彼女を図書室の死角、郷土資料コーナーへ連れ込んだ。

そこは俺が高校時代、何人もの女子生徒を「指導」した思い出の場所だ。

埃っぽい空気の中で、俺は彼女の耳元で愛を囁き、その未熟な体を開発した。


「いっ……!」


彼女が痛みに顔を歪めた時、俺の征服欲は頂点に達した。

彼氏がいる女を、知識と地位で奪い取る。

その彼氏がすぐ近くのカウンターで仕事をしている最中に、だ。

これ以上のスパイスがあるだろうか?


「声を出したら、佐伯くんにバレるよ?」


その一言で、彼女はさらに体を強張らせ、そして同時に興奮した。

彼女の中にもあるのだ。背徳を悦ぶ、淫らな本性が。

俺はそれを引きずり出したに過ぎない。俺はただの解放者だ。感謝してほしいくらいだ。


情事の後、乱れた制服を直しながら、咲良は言った。


「私、文学のヒロインになれたかな」


俺は笑いを堪えるのに必死だった。

ヒロイン? 違うな。君はただの挿絵だ。俺という主人公の人生を彩る、数ページ分の挿絵に過ぎない。

だが、口では甘い言葉を吐いてやる。


「ああ、なれたよ。君は誰よりも美しい悲劇のヒロインだ」


その言葉に酔いしれる彼女の顔は、滑稽で、そして惨めだった。


唯一の誤算だったのは、佐伯という男の存在だ。

最初はただの空気のような存在だと思っていたが、意外としぶとい。咲良の変化に気づいているはずなのに、騒ぎ立てることもなく、淡々と図書委員の仕事を続けている。

鈍感なのか、それとも諦めているのか。

どちらにせよ、目障りだ。


ある日、俺は彼を利用することを思いついた。

研究発表の資料作りが面倒だったのだ。引用文献のリストアップや、スライドの体裁を整える作業。クリエイティブな俺がやるべき仕事ではない。

そこで、佐伯に押し付けることにした。

咲良を使って頼ませれば、断れないだろう。


「彼、パソコン得意なんでしょ? 番犬みたいで役に立ちそうじゃないか」


俺がそう言うと、咲良は少し戸惑った顔をしたが、すぐに同意した。彼女もまた、佐伯を便利な道具として見るようになっていたのだ。

佐伯は文句も言わず、俺のUSBメモリを受け取った。


「ご依頼のデータ、全て挿入しておきました」


翌日、彼が恭しくUSBを返してきた時、俺は勝利を確信した。

こいつは完全に負け犬だ。

自分の女を寝取った男のために、せっせと資料を作るなんて。

プライドはないのか? 男としての矜持は?

まあいい。おかげで俺は楽ができた。

俺は彼の肩を叩き、「ご苦労さま」と労ってやった。その時の彼の、感情の読めない能面のような顔が、今思えば不気味だったのだが、その時の俺はただの「服従の証」だと解釈していた。


***


そして迎えた、研究発表会当日。

体育館のステージ袖で出番を待ちながら、俺は完璧な未来予想図を描いていた。

この発表を成功させ、校長や指導教官にアピールする。教員採用試験への推薦をもらい、来年からは正式な教師としてこの学校に戻ってくる。

そしてまた、新たな咲良を見つけ、秘密の指導を繰り返すのだ。


「堂島先生、お願いします」


司会の声に促され、俺はスポットライトの中へ歩み出た。

眩しい光。六百人の視線。

最高だ。世界が俺を中心に回っている。

客席には咲良がいるはずだ。彼女もまた、俺の雄姿に濡れた瞳を向けていることだろう。


「皆さん、こんにちは。国語科実習生の堂島です」


マイクを通した自分の声が、心地よく響く。

俺は流暢にスピーチを始めた。文学の重要性、感性の育成、そして教師としての使命。

口から出る言葉は全て美辞麗句だが、嘘ではない。俺なりの真実だ。

生徒たちは静かに聞き入っている。俺のカリスマ性に圧倒されているのだ。


「私は今回の実習で、ある一人の生徒と深く向き合い……」


クライマックスだ。

ここでスライドを切り替え、感動的なフィナーレへ向かう。

俺は手元のクリッカーを押した。

カチッ。


その瞬間だった。

背後のスクリーンから、ノイズのような音がしたかと思うと、会場の空気が一変した。

「え?」「うわっ」「何これ」

ざわめきが広がる。感嘆の声ではない。動揺と、困惑の声だ。


何が起きた?

スライドの順番を間違えたか?

俺は振り返った。

そして、そこに映し出されているものを見て、思考が停止した。


それは、俺の記憶の中にある映像だった。

数年前、この図書室で撮影した、当時の「彼女」との情事の写真。

なぜ?

なぜこれがここにある?

これは俺のプライベートなコレクションのはずだ。クラウドの奥深くに隠していたはずの……。


「おい、どうなってる!」


俺が叫ぶと同時に、スピーカーからあの声が流れた。


『……先生、これ、誰かに見られたら……』

『大丈夫だと言っただろう? 佐伯くんはカウンターで大人しくしてるよ。彼は従順な番犬だからね』


俺の声だ。

そして、咲良の声だ。

数日前の会話。


血の気が引いた。全身の毛穴が開くような恐怖。

バレている。

全部、記録されていた?


『んっ……先生、好き……』


甘ったるい喘ぎ声が大音量で体育館に響き渡る。

悲鳴が上がる。咲良の声だ。

俺の視界がぐらりと揺れた。

これは悪夢だ。そうだ、夢に違いない。こんなことが現実にあっていいはずがない。俺は堂島巧だぞ? 選ばれた人間だぞ? こんな、こんな三流ポルノみたいな晒し者にされるなんて!


「や、止めろ! 放送係! 何をしてるんだ!」


俺はPCの方へ走った。

そこにいたのは、佐伯蓮だった。

あの地味で、退屈で、無能だと思っていた「番犬」。

彼はタブレットを片手に、氷のような冷たい目で俺を見下ろしていた。


「機材トラブルではありませんよ、堂島先生」


その声を聞いた瞬間、俺は全てを理解した。

嵌められたのだ。

こいつは、最初から気づいていた。俺が咲良を奪ったことも、俺の過去も、全てを知った上で、泳がせていたのだ。

俺が有頂天になって、彼にUSBを渡すその瞬間を、虎視眈々と待っていたのだ。


「貴様……!」


怒りで目の前が真っ赤になる。

殺してやる。俺の完璧な人生を台無しにしたこの虫けらを、捻り潰してやる。

俺は彼に掴みかかろうとした。


「堂島! 貴様、何ということを……!」


しかし、その手は届かなかった。

屈強な体育教師たちに取り押さえられ、俺は床に顔を押し付けられた。

冷たい床の感触。埃の味。

見上げると、佐伯が俺を見下ろしている。

その表情には、怒りも憎しみもなかった。ただ、汚いゴミを見るような、絶対的な軽蔑だけがあった。


「キャリア? そんなもの、最初からありませんよ。あなたは教育者じゃない。ただの犯罪者です」


その言葉が、俺の心臓にくさびのように打ち込まれた。

犯罪者。

俺が? この俺が?

文学を愛し、才能ある若者を導いてきたこの俺が?


「デタラメだ! 捏造だ!」


俺は叫んだ。叫ぶしかなかった。

だが、スクリーンには次々と証拠が映し出されていく。

貸出履歴。変態的な手紙。

俺の隠してきた「真実」が、醜悪なデータとして垂れ流されている。

会場中の視線が、ナイフとなって俺を刺す。

嘲笑。侮蔑。嫌悪。


ああ、終わった。

俺の教師としての未来も、社会的地位も、プライドも。

全てがこの瞬間、粉々に砕け散った。


俺は抵抗する力を失い、だらりと力を抜いた。

遠くで、咲良の泣き叫ぶ声が聞こえる。

うるさいな。静かにしてくれ。

俺は今、人生で初めての「挫折」という文学的体験を味わっているんだ。

皮肉なものだ。俺が教えようとしていた「大人の痛み」とやらを、まさか自分自身が、しかも教え子の手によって教わるとは。


***


「……おい、起きろ。取り調べの時間だ」


無機質な声で起こされ、俺は狭い独房のベッドから身を起こした。

逮捕されてから、何日が経っただろうか。

時間の感覚が曖昧だ。

あの輝かしいステージから、一転してこのコンクリートの壁に囲まれた空間へ。

天国から地獄へというのは、まさにこのことだ。


取り調べは過酷だった。

俺のスマホやPCから押収されたデータについて、事細かに追及される。

余罪はボロボロと出てきた。俺が「コレクション」として保存していたデータが、全て仇となった。

弁護士は「情状酌量を求めるしかない」とさじを投げている。

実刑は免れないだろうと言われた。

性犯罪者としてのレッテル。教員免許の欠格事由。

俺の人生は、もう詰んでいる。


「堂島、面会だ」


看守に告げられ、俺は面会室へ連れて行かれた。

親か? それとも弁護士か?

だが、アクリル板の向こうにいたのは、意外な人物だった。


佐伯蓮。

あの男だ。


「……何の用だ。笑いに来たのか?」


俺は力なく嘲った。今の俺には、彼を威圧する覇気など残っていない。

佐伯は椅子に座り、無表情で俺を見た。


「笑うつもりはありません。ただ、確認しに来ただけです」

「確認?」

「あなたが、自分の罪を本当に理解しているかどうか」


佐伯は淡々と言った。


「あなたは文学を言い訳にして、自分の欲求を満たしていただけだ。作品への冒涜であり、教育への裏切りだ。その自覚はありますか?」


俺は鼻で笑った。


「冒涜? 違うな。俺は誰よりも文学を愛していた。常識に縛られた凡人には、俺の高尚さは理解できないだけだ」


まだ、俺は自分の正当性を主張しようとした。

それが最後のプライドだったからだ。

だが、佐伯は憐れむような目で俺を見た。


「……まだ、そんなことを言っているんですね。やっぱり、あなたは愚かだ」

「なんだと?」

「『こころ』の先生は、自分の罪に苦悩し、死を選んだ。でもあなたは、苦悩すらせず、言い訳ばかりしている。あなたは文学の登場人物ですらない。ただの、欲に溺れた俗物ですよ」


俗物。

その言葉が、一番効いた。

俺が最も忌み嫌い、見下していた人種。俺はそれと同じだと言われたのだ。


「二度と、咲良や他の生徒に関わらないでください。もっとも、これだけの証拠があれば、一生出てこられないかもしれませんが」


佐伯は立ち上がり、背を向けた。


「待て! 佐伯!」


俺は叫んだ。

なぜか、彼に行かないでほしかった。彼だけが、今の俺の「敵」として、俺という存在を認識してくれている気がしたからだ。

他のみんなは、俺をゴミとして処理しようとしている。でも彼は、俺を人間として断罪してくれた。


「……一つだけ、教えてやる」


佐伯は振り返らずに言った。


「咲良が最後に言ってたよ。『蓮くんの言う通りだった』って。彼女も気づいたんだ。お前の言葉が、ただの虚飾だったってことに」

「……っ」

「それだけだ。さようなら、堂島さん」


扉が閉まり、佐伯の姿が消えた。

面会室に残された俺は、アクリル板に映る自分の顔を見つめた。

無精髭が生え、目が落ち窪み、生気のない顔。

そこには、かつての「知的なエリート」の面影は微塵もなかった。


「……虚飾、か」


俺は呟いた。

その言葉が、空虚な部屋に吸い込まれていく。

俺が積み上げてきたものは、全て嘘だったのか?

俺の才能も、愛も、哲学も。


俺は両手で顔を覆った。

指の隙間から、乾いた笑い声が漏れた。

ハハッ、ハハハハ……。

道化だ。俺はただの道化だったんだ。

観客だと思っていた佐伯に、舞台の上で踊らされ、最後は奈落へ突き落とされたピエロ。


愚者の檻の中で、俺は初めて「文学的な絶望」というものを知った。

だが、それを表現する言葉は、もう俺の中には残っていなかった。

あるのは、ただみっともない嗚咽だけだった。

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