第6話 紙切れの恋
あの日から、一週間が経った。
季節は初夏へと移ろい始め、窓の外の街路樹は鮮やかな緑色に染まっている。だが、この学校を覆う重苦しい空気は、未だに晴れる気配がない。
連日、テレビのニュース番組やネットニュースでは、ある事件がトップで報じられていた。
『名門私立高校の教育実習生、わいせつ行為で逮捕』
『教え子を洗脳か? 押収されたPCから多数の余罪証拠』
『「文学的指導」と称し犯行に及ぶ。歪んだエリートの素顔』
画面には、モザイク越しではあるが、連行される堂島巧の姿が映し出されていた。かつてあれほど自信に満ち溢れ、背筋を伸ばして歩いていた男は、今はジャケットで頭を覆い、逃げるようにパトカーに乗り込んでいく。
ネット上の掲示板やSNSでは、彼の実名はもちろん、卒業アルバムの写真や出身大学、過去のSNS投稿などが特定され、徹底的な「祭り」状態になっていた。
特に、俺が全校集会で晒したあの音声データや手紙の文面は、ネットのおもちゃとして拡散され、無数のコラ画像や嘲笑のネタとなっていた。
「文学の深淵を知るには大人の経験が必要だ(笑)」
「これ言った直後に逮捕とか、最高にロックだな」
「ナルシストここに極まれり。キモすぎて吐いた」
世間の反応は冷酷だ。彼が築き上げてきた(と信じていた)知的なブランドイメージは、汚物まみれの笑い話へと転落した。
もちろん、教員免許の取得など夢のまた夢。それどころか、執行猶予がつくかどうかすら怪しいほどの余罪が明らかになりつつあるらしい。被害者は今回の件だけでなく、彼が家庭教師をしていた先の中学生や、大学の後輩など、多岐に渡っていたのだ。
そして、もう一人。
この騒動の中心にいた水瀬咲良については、報道では「女子生徒A」として伏せられている。だが、学校内という狭い社会において、匿名性など無意味だった。
「ねえ、聞いた? 水瀬さん、退学するらしいよ」
「マジ? まあ、あんな音声流されちゃったら、もう学校来れないよね」
「てか、あの子も同罪じゃん? 被害者ぶってるけど、ノリノリだったんでしょ?」
「うわー、エグいわ。清楚ぶってたのにね」
教室のあちこちで、そんな会話が聞こえてくる。
かつて図書委員として大人しく真面目に過ごしていた咲良への評価は、完全に地に落ちていた。人間というのは残酷なもので、一度レッテルを貼った相手にはとことん冷淡になれる。
彼女の机は空席のままだ。机の上には誰かが悪戯で置いたのか、枯れた花が一輪、ポツンと置かれていた。
俺、佐伯蓮は、そんな喧騒をどこか他人事のように眺めていた。
俺に対する周囲の反応は複雑だった。「あいつが暴露したんだろ?」「すげえハッカーらしいぜ」「怒らせたらヤバい」といった畏怖と好奇の視線を感じる。だが、誰も直接話しかけてくる者はいなかった。
それでよかった。俺はヒーローになりたいわけでも、同情されたいわけでもない。ただ、自分の聖域を守りたかっただけなのだから。
放課後。
俺はいつものように図書室へ向かった。
騒動の影響で、図書室の利用者は激減していた。顧問の先生も管理責任を問われて謹慎処分となり、今は臨時の教員がカウンターに座っているが、ほとんど仕事もせずにスマホをいじっているだけだ。
俺は慣れた手つきで返却本を棚に戻し、乱れた書架を整理していく。
静かだ。
あの、甘ったるくて不快な香水の匂いも、耳障りな文学談義も、もうここにはない。あるのは、紙とインクの匂いだけ。
俺が求めていた平穏が、ようやく戻ってきたのだ。
「……ふう」
一通りの作業を終え、俺は窓際の席に座った。
そこは、堂島と咲良がいつも座っていた「特等席」だ。今は誰も座る者がおらず、ただ西日が長く影を落としている。
俺は持ってきた文庫本を開いた。昔から好きな、ハードボイルド小説だ。
主人公は、どんなに傷ついても、裏切られても、決して自分の美学を曲げない探偵。彼の生き様は、今の俺には少し眩しく、そして心地よく感じられた。
ガララッ……。
静寂を破る音がして、俺は顔を上げた。
また誰か野次馬が来たのかと思ったが、違った。
入り口に立っていたのは、見覚えのある、しかし以前とはまるで別人のような少女だった。
水瀬咲良。
一週間ぶりに見る彼女は、酷くやつれていた。
自慢だった黒髪は艶を失い、ボサボサに乱れている。目の下には濃い隈があり、頬がこけている。制服ではなく、地味な私服姿だ。パーカーのフードを目深に被り、まるで世界から隠れるように背を丸めている。
彼女は恐る恐る図書室の中を見渡し、俺の姿を見つけると、ビクリと肩を震わせた。
そして、迷うように視線を泳がせた後、ゆっくりと、足を引きずるようにこちらへ歩いてきた。
俺は本を閉じることもなく、ただ無表情で彼女の接近を待った。
何の用だ。まだ何か言い訳があるのか。
咲良は俺の前の席――かつて堂島が座っていた椅子――に、力なく座り込んだ。
「……久しぶりだね、蓮くん」
声はカサカサに乾いていた。喉が潰れているようだった。
「……何の用? 部外者は立ち入り禁止だよ」
俺は本から視線を外さずに答えた。冷たい言葉だが、今の彼女にかける情けなど持ち合わせていなかった。
「今日、退学の手続きに来たの。荷物の整理もあって……最後に、ここだけはどうしても見ておきたくて」
「そう。用が済んだなら、早く出て行ってくれないかな。他の生徒の迷惑になる」
「……誰もいないよ」
「俺がいる。俺にとって迷惑だ」
俺が本を閉じて彼女を直視すると、咲良は泣きそうな顔で唇を噛んだ。
その表情は、以前なら俺の庇護欲をかき立てただろう。だが今は、ただの演技に見える。あるいは、自分を憐れんでほしいという甘えに見える。
「……私ね、転校することになったの。県外の、誰も私を知らない学校に行くの」
「いいことじゃないか。リセットできて」
「うん……でも、怖いよ。ネットに私の写真とか名前とか、いっぱい流れてて……どこに行っても、白い目で見られるんじゃないかって」
咲良は震える手で自分の腕を抱いた。
自業自得だ。そう言って切り捨てるのは簡単だが、俺は黙って聞いていた。これが最後の「精算」だと思ったからだ。
「堂島先生……ううん、あの人のこと、ニュースで見た。酷い人だったんだね。私以外にも、あんなにたくさんの人を騙して……」
「今さら気づいたのか」
「うん……私、馬鹿だった。自分だけが特別だと思ってた。文学のミューズだなんて言われて、舞い上がって……ただの、コレクションの一つだったなんて」
咲良の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
それは後悔の涙だろう。だが、その涙の中にはまだ、「騙された可哀想な私」という自己憐憫が混じっているように見えた。
「蓮くんの言った通りだった。現実は小説みたいに綺麗じゃなかった。……ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」
咲良はテーブルに突っ伏して泣き出した。
震える背中。嗚咽。
俺はその姿を冷ややかに見下ろしながら、かつて彼女と過ごした日々を思い出していた。
一緒に本を読み、笑い合い、クレープを食べた日々。
あの時間は確かに楽しかった。幸せだった。
だが、それはもう「過去のログ」でしかない。上書き保存された汚れたデータによって、完全に破損してしまったファイルだ。
「……謝って、何になるの?」
俺が静かに問うと、咲良は顔を上げた。涙で濡れた顔は、化粧も崩れて酷い有様だった。
「許してほしいなんて言わない。でも、私……蓮くんのこと、本当は好きだったの。あの人といる時も、心のどこかで蓮くんのこと考えてた。蓮くんなら、こんな時どう言うかなって……」
「嘘をつくな」
俺は遮った。
「君は俺のことなんて考えていなかった。君が見ていたのは、堂島というフィルターを通した『悲劇のヒロインとしての自分』だけだ。俺はただの、君の物語を引き立てるための『退屈な日常』という背景に過ぎなかった」
「ち、違う! そんなことない!」
「違わないよ。君は俺を見下していた。『子供っぽい』『話が合わない』って。あれが本音だろ? 堂島がいなくなったからって、また都合よく『やっぱり蓮くんが好き』なんて言われても、虫が良すぎるんだよ」
俺の言葉は鋭利な刃物となって、彼女の最後のプライドを切り裂いた。
咲良は口をパクパクとさせ、何か反論しようとしたが、言葉が出てこない。図星だからだ。
彼女は今、寄る辺を失って、ただ縋れるものに縋ろうとしているだけだ。それがたまたま、過去に自分を愛してくれた俺だったというだけで。
「……じゃあ、私はどうすればよかったの? あの人の言葉は魔法みたいだったの。普通の高校生の私じゃ、抗えなかったのよ!」
「選択できたはずだ。違和感を持った時点で、俺に相談することも、拒絶することもできた。でも君はしなかった。楽な方へ、気持ちいい方へ流されたんだ。それを『魔法』とか『不可抗力』なんて言葉で誤魔化すな。君自身の弱さが招いた結果だ」
俺は立ち上がり、彼女を見下ろした。
「君が恋していたのは、文学でも堂島でもない。堂島の言葉によって彩られた『虚構の自分』だ。紙切れに書かれた薄っぺらい物語に酔っていただけなんだよ」
「紙切れ……」
「そう。だから、もう終わりだ。その本は閉じられたんだ。……さようなら、水瀬さん」
俺は彼女を「咲良」ではなく「水瀬さん」と呼んだ。他人行儀な響きが、二人の関係の完全なる断絶を告げる。
咲良はその呼び名にショックを受けたように目を見開き、そして力が抜けたように項垂れた。
「……そっか。そうだよね。私、最低だもんね」
彼女は乾いた笑い声を漏らした。
それは諦めと、ようやく現実を受け入れた絶望の笑いだった。
「ありがとう、蓮くん。最後に、本当のことを言ってくれて。……私、行くね」
咲良はふらりと立ち上がった。足取りはおぼつかないが、もう俺に縋ろうとはしなかった。
彼女は最後に一度だけ振り返り、何か言いたそうに口を開いたが、結局何も言わずに背を向けた。
図書室の扉が開く音。そして閉じる音。
彼女の姿が消え、図書室には再び静寂が戻った。
俺は大きく息を吐き、椅子に座り直した。
胸の奥にあった黒い塊が、ようやく溶けて消えていくような感覚があった。
復讐は終わった。そして、未練も断ち切った。
俺はもう、過去を振り返らない。
窓の外を見ると、西日が傾き、空が茜色に染まり始めていた。
美しい夕暮れだ。
俺は読みかけの文庫本を再び開いた。
文字を追う。物語の世界が、俺を優しく包み込む。
だが、以前とは読み方が変わっていた。
文字の向こう側にある、作者の意図や、登場人物の痛みが、少しだけリアルに感じられるようになった気がする。
「……経験、か」
俺は苦笑した。
堂島の言っていたことは、ある意味で正しかったのかもしれない。
この痛みを知ったことで、俺は少しだけ大人になった。皮肉な話だが。
「でも、俺は君みたいな汚い大人にはならないよ」
俺は誰に言うでもなく呟いた。
俺は俺のやり方で、本を読み、世界を理解し、生きていく。
誰かの言葉に踊らされることなく、自分の足で。
ふと、カウンターの方から声がした。
「あ、あの……すみません」
顔を上げると、一人の女子生徒が立っていた。一年生だろうか、まだ着慣れない制服姿の、小柄な少女だ。
「はい、貸出ですか?」
「いえ、あの……図書委員の募集って、まだしてますか? 私、本が好きで……ここで活動してみたいなって」
彼女は不安そうに、でも真っ直ぐな瞳で俺を見ていた。
その瞳は、かつての咲良――まだ純粋に本が好きだった頃の彼女――によく似ていた。
一瞬、胸がちくりとしたが、俺はすぐにそれを振り払った。
「ああ、募集中だよ。今は人手が足りなくて困ってたんだ」
「本当ですか! よかったぁ」
「仕事は地味だし、埃っぽいけど、大丈夫?」
「はい! 私、本の匂いが好きなんです。この場所の空気も、すごく落ち着くし」
少女は嬉しそうに笑った。
その笑顔は、何の汚れもなく、ただ純粋な喜びに満ちていた。
図書室に、新しい風が吹き込んできた気がした。
「じゃあ、歓迎するよ。俺は委員長の佐伯。君の名前は?」
「えっと、古都です。よろしくお願いします、先輩!」
「よろしく、古都さん」
俺は微笑んで答えた。
作り笑いではない、自然な笑みがこぼれた。
物語は終わった。
そしてまた、新しいページがめくられる。
今度の物語は、きっとハッピーエンドとはいかなくても、少なくとも誠実で、嘘のない物語になるだろう。
俺はこの場所を守り続ける。
ページをめくる指先に、確かな未来を感じながら。




