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第5話 断罪のエンターキー

体育館は、独特の熱気と微かな退屈に満ちていた。

全校生徒約六百人がパイプ椅子に座り、ざわめきながら開演を待っている。ステージ上のスクリーンには「教育実習生 研究発表会」という味気ないタイトルが映し出されていた。


俺、佐伯蓮は、図書委員の席ではなく、放送・機器係としてステージ袖の薄暗いスペースに待機していた。「機材に詳しいから」という理由で、堂島自身が顧問に推薦してくれた配置だ。

皮肉なものだ。彼は自分を守るための「番犬」として俺をここに置いたつもりだろうが、実際には処刑執行人を自らの背後に招き入れたようなものだ。


「それでは、国語科実習生、堂島巧先生による発表です。『高校生における文学的感性の育成』。よろしくお願いします」


司会の先生のアナウンスと共に、まばらな拍手が起こる。

堂島が颯爽とステージ中央に進み出た。仕立ての良いスーツに身を包み、自信に満ちた笑顔で会釈をする。その姿は、いかにも「優秀で爽やかな若手教師」そのものだった。


生徒席の前方には、咲良の姿が見える。彼女は両手を胸の前で組み、祈るような、熱っぽい瞳で堂島を見つめていた。まるで自分のことのように緊張し、そして誇らしげだ。


「皆さん、こんにちは。国語科実習生の堂島です。今日は、私がこの母校での実習を通じて感じた、文学教育の可能性についてお話ししたいと思います」


堂島が手元のクリッカーを押すと、スライドが切り替わった。

よく通る、魅力的な声だ。生徒たちの私語が少し止み、視線がステージに集まる。彼は人を惹きつける話術を持っている。それは認めよう。だからこそ、その才能を悪用する罪は重い。


俺は手元のタブレットを確認した。画面には、ステージ上のプロジェクター用PCのデスクトップがミラーリングされている。堂島がUSBメモリから起動したパワーポイントファイル。その裏で、俺の仕込んだスクリプトが静かにカウントダウンを刻んでいる。


『Execution ready. Waiting for trigger...』


トリガーは、発表のクライマックス。彼が最も得意になり、観衆の注目が最高潮に達する瞬間だ。


「……昨今の高校生は、活字離れが進んでいると言われます。しかし、それは決して君たちに感性がないからではありません。ただ、大人が『本当の読み方』を教えていないだけなのです」


堂島は身振りを交えて熱弁を振るう。


「文学とは、単なる文字の羅列ではありません。そこには、人間の生々しい感情、血の通った叫びが込められています。それを理解するには、教室で教科書を読むだけでは足りない。もっと実践的で、心と体を揺さぶるような体験が必要なのです」


「心と体を揺さぶる体験」。

美しい言葉だが、その実態を知っている俺には、反吐が出るような詭弁にしか聞こえない。

彼はチラリと咲良の方を見た。咲良が小さく頷くのが見えた。二人の間だけで通じる、秘密の合図だ。


「私は今回の実習で、ある一人の生徒と深く向き合い、共に文学の深淵を探求しました。彼女の感性が開花していく様は、まさに劇的でした」


会場が少しざわつく。「ある一人の生徒」という言葉に、生徒たちが反応したのだ。「誰だ?」「もしかして……」と囁き合う声が聞こえる。

堂島はそれを楽しむように、少し間を置いた。


「彼女との対話を通じて、私は確信しました。教育とは、魂の共鳴であると」


ここでスライドが切り替わり、本来なら「教育=共鳴」という大きな文字と、抽象的なイメージ画像が出るはずだった。

だが、俺はタブレット上の「実行」ボタンに指を置いた。


今だ。


俺が指をタップした瞬間、スクリーン上の映像が一瞬ノイズのように歪んだ。

そして、次の瞬間。

会場にいた全員が息を呑んだ。


スクリーンに映し出されたのは、教育論のスライドではない。

薄暗い図書室の書架の奥で撮影された、一枚の鮮明な写真だった。

制服姿の女子生徒が、男に抱きつき、口づけを交わしている写真。

顔ははっきりと写っていた。

若き日の堂島巧と、当時の女子生徒だ。


「……え?」

「何これ……?」


ざわめきが波紋のように広がる。

ステージ上の堂島は、背後のスクリーンが見えていないため、まだ異変に気づいていない。


「このように、教師と生徒が真剣に向き合うことで……ん? どうかしましたか?」


生徒たちの視線が自分ではなく、背後のスクリーンに釘付けになっていることに気づき、堂島が怪訝な顔で振り返った。

その瞬間、彼の表情が凍りついた。


「な……っ!?」


堂島は絶句し、クリッカーを持つ手が震えた。

慌ててスライドを送ろうとボタンを連打するが、画面は変わらない。俺が操作をロックしているからだ。


「おい、これ……どうなってるんだ!?」


堂島が焦ってPCの方へ駆け寄ろうとした時、スピーカーから大音量で音声が流れ始めた。


『……先生、これ、誰かに見られたら……』

『大丈夫だと言っただろう? 佐伯くんはカウンターで大人しくしてるよ。彼は従順な番犬だからね』


会場の空気が、一瞬にして凍りついた。

それは過去の音声ではない。つい数日前、この学校の図書室で録音された、堂島と咲良の声だ。

あまりにも鮮明で、生々しい会話。


『んっ……先生、好き……』

『僕もだよ、咲良。君は本当に素晴らしい。歴代のどの子よりも、感度が良い』


「きゃあああああっ!」


客席から悲鳴が上がった。

声の主は、咲良だった。彼女は顔を真っ赤にして両手で耳を塞ぎ、震えている。

周囲の生徒たちが、一斉に咲良と堂島を見る。

軽蔑、嫌悪、好奇心。無数の視線が矢のように二人を突き刺す。


「や、止めろ! 放送係! 何をしてるんだ!」


堂島が顔面蒼白になりながら叫ぶ。

俺は袖からゆっくりと姿を現した。タブレットを片手に持ち、冷徹な視線で堂島を見下ろす。


「機材トラブルではありませんよ、堂島先生。これはあなたがUSBに入れていた『特別資料』です」

「な、なに……!?」

「あなたが『実体験を通した深化』と仰っていたので、その実例を皆さんに分かりやすく提示させていただきました」


俺はマイクを通さず、しかしよく通る声で言った。静まり返った体育館には、その声が隅々まで響き渡る。


スクリーン上の画像がスライドショーのように切り替わる。

次は、堂島が過去の女子生徒に送った手紙のスキャン画像だ。

『君の体は僕のものだ』『常識なんて捨てろ』といった、おぞましい文言が次々と映し出される。


さらに、図書システムの貸出履歴画面。

『サド公爵の性哲学』『未成年心理操作』『完全犯罪』……。

彼の異常性が、動かぬ証拠として白日の下に晒されていく。


「これらは全て、あなたがこの学校の図書室に残していった『遺産』です。そして、今回の実習中に行った行為の記録です」

「で、デタラメだ! 捏造だ! 俺を陥れる気か!」


堂島はPCに飛びつき、強制終了しようと電源コードを引き抜いた。

スクリーンが暗転する。

だが、一度流れた映像と音声は、六百人の記憶に深く刻み込まれた。もう消すことはできない。


「陥れる? 自分の声も分からないんですか?」

「だ、黙れ! 黙れ黙れ黙れ!」


堂島は錯乱したように叫び、俺に掴みかかろうとした。

しかし、その前にステージの袖から数人の教師が飛び出してきた。


「堂島! 貴様、何ということを……!」


生活指導の鬼と呼ばれる体育教師が、堂島の腕をねじ上げ、床に押さえつけた。

校長先生が震える手でマイクを握り、叫ぶ。


「ただちに集会を中止します! 生徒は教室へ戻りなさい! 教師は生徒の誘導を!」


体育館はパニック状態になった。

怒号、悲鳴、そしてヒソヒソという嘲笑。

その混沌の中心で、堂島は無様に床に這いつくばりながら、俺を睨みつけていた。


「佐伯ぃぃぃぃ! 貴様ぁぁぁ! よくも、よくも俺のキャリアを!」

「キャリア? そんなもの、最初からありませんよ。あなたは教育者じゃない。ただの犯罪者です」


俺は冷たく言い放ち、彼を見下ろした。

かつてあれほど大きく、脅威に見えた男が、今はただの哀れな肉塊にしか見えなかった。


「警察には通報済みです。過去の余罪も含めて、たっぷりと『大人の責任』を取ってくださいね」


俺がそう告げると、堂島は絶望に顔を歪め、力が抜けたようにぐったりとした。


一方、客席では咲良がその場に崩れ落ちていた。

周囲の女子生徒たちは彼女から距離を取り、汚いものを見るような目で見ている。

男子生徒たちは気まずそうに目を逸らしている。


咲良は涙でぐしゃぐしゃになった顔で、ステージ上の俺を見た。

その目には、「助けて」という懇願の色があった。

かつて俺が愛した、無邪気な瞳。

だが、今の俺には何も響かない。


俺は咲良と目が合うと、一瞬だけ口角を上げ、そしてすぐに無表情に戻って背を向けた。

助けはしない。

君が選んだ「文学的な恋」の結末だ。最後まで味わうといい。


***


騒動の後、堂島は別室に連行され、駆けつけた警察官に引き渡された。

証拠は明白だった。俺が提供したデータに加え、堂島の私物から押収されたスマホやPCからも、同様の画像や動画が大量に見つかったらしい。

彼は教員免許取得どころか、実刑判決を受ける可能性が高いだろう。


咲良は保健室に運ばれた後、早退させられた。

親が呼び出され、学校側からの厳しい聴取が行われることになるはずだ。


放課後。

俺は再び図書室にいた。

生徒たちは騒動の噂話で持ちきりで、図書室には誰も寄り付かない。

静寂が戻ってきた。

かつての、埃と紙の匂いだけが漂う、俺の聖域。


「……終わったな」


俺はカウンターに座り、深く息を吐いた。

達成感と、虚脱感が同時に押し寄せてくる。

やった。やり遂げた。

俺の大切な場所を汚した奴らに、相応の報いを受けさせた。


ガララッ。


扉が開く音がした。

俺は顔を上げた。

そこに立っていたのは、咲良だった。

制服は乱れ、目は赤く腫れ上がっている。髪もボサボサだ。

親に連れられて帰ったはずなのに、戻ってきたのだろうか。


「……蓮くん」


掠れた声で名前を呼ばれた。

咲良はふらふらと歩み寄り、カウンター越しに俺を見た。


「どうして……どうしてあんなことしたの?」

「どうして?」

「あんな皆の前で……恥かかせて……私、もう学校にいられないよ」


咲良は被害者ぶって泣き出した。

自分が何をしたのか、まだ理解していないのか。それとも、理解したくないのか。


「恥をかかせた? 違うな。俺はただ事実を公表しただけだ。恥ずかしいことをしていたのは君たちだろう?」

「で、でも! 堂島先生とのことは、真剣だったの! 文学的な、魂の結びつきだったの! それを、あんな風に汚すなんて……ひどいよ!」


咲良は叫んだ。

まだ言っているのか。「文学的」「魂の結びつき」。

堂島という教祖を失ってもなお、洗脳は解けていないらしい。いや、自分を守るために、その幻想にしがみつくしかないのだろう。


俺はため息をつき、立ち上がった。

そして、カウンターを出て、咲良の正面に立った。


「咲良。目を覚ませ」

「……え?」

「文学的? 魂? 笑わせるな。あれはただのセクハラだ。グルーミングだ。君は知識を餌に釣られて、性欲の処理に使われただけなんだよ」


俺は残酷な真実を、ナイフのように突きつけた。


「嘘よ! 先生は私を愛してくれた! 私の才能を認めてくれた!」

「才能? 君に特別な文才なんてないよ。堂島は君の『承認欲求』と『背伸びしたい心』を利用しただけだ。君じゃなくてもよかったんだよ。大人しくて、ちょっと知的なフリをしている女子なら、誰でも」

「やめて……言わないで……」

「証拠は見ただろ? 『歴代のどの子よりも』って言ってたじゃないか。彼は過去にも何人も同じことをしてる。君はその中の一人に過ぎない。No.12とか、そんな番号で管理されるコレクションの一つだ」


俺はスマホを取り出し、スキャンした写真のデータを画面に表示して見せた。

過去の女子生徒たちの写真。

そして、その中に混じって、咲良の写真もあった。堂島のクラウドから見つけたものだ。図書室の死角で、恍惚とした表情を浮かべる咲良。


「……あ……あぁ……」


咲良は自分の写真を見て、絶句した。

そこには「文学的な美しさ」なんて微塵もなかった。

ただの、欲に溺れただらしない顔。

薄汚れた欲望の記録。


「これが君の言う『高尚な愛』の正体だ。現実は小説みたいに綺麗じゃない。臭くて、汚くて、惨めなもんだよ」


俺はスマホをしまい、冷たく告げた。


「君はヒロインなんかじゃない。ただの被害者で、そして共犯者だ」


咲良の膝から力が抜け、その場に崩れ落ちた。

幻想という名のガラスが、音を立てて砕け散った瞬間だった。

彼女は床に突っ伏し、獣のような声で泣き叫び始めた。


「いやぁぁぁぁぁ! 嘘よ、嘘よぉぉぉぉ! 私、汚くない! 私は……私はぁぁぁ!」


慟哭が図書室に響く。

それは後悔の叫びか、それとも現実を受け入れられない拒絶の叫びか。

どちらにせよ、もう俺には関係のないことだ。


俺は泣き崩れる咲良を見下ろしながら、不思議なほど心が静まり返っていくのを感じた。

かつて愛した少女は、もうどこにもいない。

ここにいるのは、自分の愚かさに殺された、抜け殻のような他人だ。


「さよなら、咲良」


俺は彼女に背を向け、出口へと歩き出した。

背後から聞こえる泣き声は、まるで壊れたレコードのように繰り返されていた。


図書室を出ると、廊下には夕日が差し込んでいた。

赤く染まる校舎。

その光景は、第一話の冒頭と同じはずなのに、全く違って見えた。

世界が、少しだけ鮮やかに、そしてクリアに見えた。


俺は大きく深呼吸をした。

冷たい空気が肺を満たす。

重荷を下ろしたような、清々しい解放感。

これで本当に終わった。


俺はポケットからスマホを取り出し、咲良の連絡先を表示した。

「ブロック」そして「削除」。

迷いなくタップした。


画面から「水瀬咲良」の名前が消える。

俺の人生からも、彼女は消えた。


「さて、帰って本でも読むか」


俺は呟き、歩き出した。

今日はSF小説の続きを読もう。

遠い宇宙の、感情のない機械たちが織りなす、論理的で静かな物語を。

今の俺には、それが一番心地よさそうだった。

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