第4話 愚者を演じる観客
実習期間も残りわずかとなった放課後。図書室の空気は、以前とは決定的に異質なものに変質していた。
かつてここにあったのは、本のページをめくる音だけが響く静謐な空間だった。だが今は、甘く腐った果実のような、むせ返るような気配が漂っている。
俺、佐伯蓮は、カウンターの中で淡々と返却本の処理を続けていた。
視線の先、窓際の特等席には、今日も堂島巧と水瀬咲良の姿がある。
「――だから、この詩人は『死』を甘美な救済として描いているんだ。生きる苦しみからの逃避ではなく、生を全うした先にあるご褒美としてね」
「素敵……。死ぬことがご褒美だなんて、普通の人には思いつかない発想です」
「そうだろう? 凡人は死を恐れるだけだ。だが、選ばれた人間だけが、その美しさを理解できる」
二人の会話は、周囲に聞こえることを全く気にしていないようだった。むしろ、自分たちの高尚な世界を見せつけているかのようだ。
咲良は堂島の言葉にいちいち感嘆し、熱っぽい瞳で見つめ返している。その様子は、もはや教師と生徒の距離感ではない。恋人同士、あるいはそれ以上に濃密な共犯関係に見えた。
俺は手元のバーコードリーダーを強く握りしめた。
怒りは通り越していた。今はただ、滑稽な喜劇を見せられているような、冷めた感情が胸を占めている。
「蓮くん」
不意に声をかけられ、俺は顔を上げた。
いつの間にか、咲良がカウンターの前に立っていた。手には数冊の本を抱えている。
「あ、これ返却? 受け取るよ」
俺は努めて普段通りの声を出した。咲良は少し躊躇うように本を差し出す。その指先が微かに震えているのに気づいた。
「ねえ、蓮くん。今日の帰りなんだけど……」
「うん、久しぶりに一緒に帰れる?」
俺が期待を込めたふりをして尋ねると、咲良は気まずそうに目を逸らした。
「ごめん。今日も、堂島先生のお手伝いがあるの。実習のまとめレポートを作るの手伝ってほしいって頼まれちゃって」
「そっか。……最近、毎日だね」
「仕方ないじゃない。先生、一人で大変そうだし。それに、私にとっても勉強になるから」
咲良は早口で言い訳を並べた。その言葉の端々に、「あなたには分からないでしょうけど」というニュアンスが含まれているのが分かった。
「勉強か。……咲良、最近すごく楽しそうだね。堂島先生と話してるとき」
「えっ?」
「いや、いいことだと思うよ。ただ、俺たちの時間が全然なくなっちゃったなと思って」
俺が寂しそうに笑ってみせると、咲良の表情がふっと曇った。それは罪悪感というよりは、憐憫の色に近いものだった。
「……蓮くん。あのね」
咲良は意を決したように、俺の目を真っ直ぐに見た。その瞳には、かつて俺に向けられていた親愛の情はなく、冷ややかな理性の光が宿っていた。
「私、気づいちゃったの。今まで私たちが読んでた本とか、話してたことって、すごく子供っぽかったんだなって」
「子供っぽい?」
「うん。表面的なストーリーを追って、面白いとか感動したとか、それだけ。でも、文学ってもっと深いものなの。人間の業とか、汚い部分も含めて愛することとか……そういうのを理解しないと、本当の意味で読んだことにはならないの」
咲良は堂島の受け売りを、さも自分の言葉のように語った。まるで新しい宗教にハマった信者が、未信者を啓蒙しようとする時の目だ。
「蓮くんは優しいけど、優しすぎるの。毒がないっていうか……物足りないんだよね。今の私には」
「……そう」
「だから、しばらく距離を置きたいの。私、もっと成長したいから。蓮くんに合わせて立ち止まっていたくないの」
決定的な言葉だった。
「距離を置きたい」。それは事実上の別れ話だ。しかも、「お前はレベルが低いから相手にできない」という、これ以上ないほど残酷な理由での。
俺は深く傷ついたふりをして、俯いた。
心の中では、「よく言った」と拍手を送っていた。
これで完全に踏ん切りがついた。君はもう、俺の知っている咲良じゃない。堂島によってインストールされた、別の価値観で動く操り人形だ。
「分かった。……咲良がそう思うなら、止めないよ」
「分かってくれてありがとう。蓮くんなら、そう言ってくれると思った」
咲良はほっとしたように微笑んだ。自分が傷つけた相手に対する配慮よりも、自分の正当性が認められたことへの安堵が勝っている。
残酷なほどに純粋で、愚かだ。
「あ、そうだ。これ、先生に渡しておいてくれる?」
咲良はカウンターに置いた本の上に、一枚のメモ用紙を乗せた。
「何これ?」
「明日の発表会で使う資料のリスト。先生、忙しくて探す時間ないみたいだから、図書委員長として協力してあげてって言われたの」
「……俺が?」
「うん。蓮くん、パソコンとか得意でしょ? そういう事務的な作業は蓮くんに任せるのが一番効率的だって、先生が」
事務的な作業。
咲良の口から出たその言葉に、俺は思わず失笑しそうになった。
要するに、「知的な創造活動は私たちがやるから、お前は下働きをしてろ」ということだ。
堂島め、どこまで俺を舐めれば気が済むんだ。
「分かった。やっておくよ」
「ありがとう! じゃあ、私行くね」
咲良は軽い足取りで、再び堂島の待つ窓際の席へと戻っていった。堂島が彼女を笑顔で迎え入れ、何かを囁く。咲良が恥ずかしそうに、でも嬉しそうに身をよじる。
その光景は、もはや俺にとって不快なノイズでしかなかった。
俺はメモ用紙を手に取った。
そこには、堂島が明日の発表で引用したいという書籍のリストが走り書きされていた。
『愛の不条理』『背徳の美学』……相変わらずのラインナップだ。
だが、そのメモの下に、小さくこう書かれていた。
『追伸:データ整理が終わったら、USBメモリを職員室の僕の机に置いておくこと。』
俺は小さく息を吐き、口角を上げた。
チャンスが向こうから歩いてきた。
堂島は、俺を完全に「無害で便利な道具」だと思い込んでいる。だからこそ、自分の発表データを他人に触らせるなんていう、セキュリティ上の自殺行為を平気で犯すのだ。
「承知しましたよ、堂島先生。完璧に整理させていただきます」
俺はメモを握り潰し、ゴミ箱に放り込んだ。
***
その日の夕方。
俺は一人、図書室の管理用PCに向かっていた。
手元には、堂島から預かったUSBメモリがある。中には、彼が明日の全校集会で行う研究発表のパワーポイント資料が入っていた。
俺はそのファイルをダブルクリックして開いた。
タイトルは『高校生における文学的感性の育成 ~実体験を通した深化~』。
ご大層なタイトルだが、中身をざっと見ると、薄っぺらい内容だった。「最近の生徒は読解力が低下している」「もっと情動に訴えかける指導が必要だ」といった、ありきたりな批判と抽象的な理想論が並んでいる。
「……こんな発表で、よくもまあ偉そうに」
俺は鼻で笑いながら、作業を開始した。
堂島の依頼通り、引用文献のデータを挿入し、レイアウトを整える。表向きは、完璧な仕事をする従順な下僕だ。
だが、俺の本当の仕事はここからだ。
俺は別のウィンドウを開き、昨日までに収集した「証拠データ」を呼び出した。
堂島の過去の貸出履歴。
女子生徒とのわいせつな往復書簡のスキャン画像。
そして、咲良との情事を記録した音声ファイル。
それらを、一つの隠しフォルダにまとめる。
次に、パワーポイントのマクロ機能を悪用したスクリプトを組み込む。
スライドショーが特定のページに進んだ瞬間、あるいは特定のアクション(例えば「次へ」ボタンの長押しなど)が行われた瞬間に、本来のスライドが強制的に終了し、俺が用意した「特別資料」が全画面で再生されるように仕掛けを作る。
「トリガーは……これだな」
俺はスライドの最後にある「ご清聴ありがとうございました」のページに目を付けた。
発表が終わり、堂島がドヤ顔で締めくくる瞬間。そのタイミングで、地獄の蓋が開くように設定する。
さらに念には念を入れる。
堂島のUSBメモリ自体にも、オートラン機能を仕込む。このメモリをPCに挿した時点で、バックグラウンドで俺のスクリプトが常駐するように。もし堂島が発表直前にスライドを修正しようとしても、俺の仕掛けは消えない。
カチャカチャ、ッターン。
静まり返った図書室に、キーボードを叩く音だけがリズミカルに響く。
この音は、俺にとっての復讐のファンファーレだ。
「よし、組み込み完了」
俺はUSBメモリを抜き取った。
見た目は何の変哲もない、ただの記憶媒体。だがその中身は、堂島の社会的地位を粉々に破壊する爆弾だ。
その時、図書室の扉が開いた。
入ってきたのは、堂島だった。咲良はいない。先に帰したのだろうか。
堂島は俺を見ると、にこりと爽やかな笑みを浮かべて近づいてきた。
「やあ、佐伯くん。まだやっててくれたのか。ご苦労さま」
「あ、堂島先生。……はい、今ちょうど終わったところです」
俺は立ち上がり、殊勝な態度でUSBメモリを差し出した。
「ご依頼の文献データ、全て挿入しておきました。レイアウトも見やすいように少し調整しています」
「へえ、気が利くねえ。ありがとう」
堂島はUSBを受け取ると、ポケットに放り込んだ。中身を確認しようともしない。俺を完全に信用しているのか、それとも興味がないのか。
「しかし、君も大変だね。彼女に振られかけてるのに、その相手の男の手伝いをするなんて」
堂島は残酷な言葉を、世間話のように投げかけてきた。
「……え?」
「気づいてないふりをしてるのかい? 水瀬さん、君のこと『子供すぎて話にならない』って言ってたよ。まあ、無理もないかな。彼女は今、急速に大人の階段を上っているからね」
堂島は俺の肩に手を置き、ポンポンと軽く叩いた。その手は、哀れな敗者を慰めるようでいて、明確に見下していた。
「悔しいかい?」
「……それは」
「悔しいなら、君ももっと勉強することだね。教科書に書いてあることだけじゃなく、人生の裏側にある真実を。ま、君みたいな真面目ちゃんには一生無理かもしれないけど」
堂島はクスクスと笑った。その顔は、昼間の爽やかな好青年とは別人の、醜悪な歪みを帯びていた。これがこいつの本性だ。
俺は拳を握りしめたい衝動を抑え、深呼吸をした。そして、ゆっくりと顔を上げ、精一杯の「負け犬の表情」を作ってみせた。
「……先生のおっしゃる通りです。僕には、咲良が何を考えているのか、先生が何を教えているのか、さっぱり分かりません」
「正直でよろしい」
「だから、明日の発表を楽しみにしています。先生の『教育』の成果を、全校生徒の前で見せていただけるんですよね?」
俺の言葉に、堂島は満足げに頷いた。
「ああ、期待していてくれ。きっと君にとっても、衝撃的な授業になるはずだよ」
衝撃的。
ああ、間違いなくそうなるでしょうね。
俺は心の中で冷たく同意した。
「では、僕はこれで失礼します。明日の準備がありますので」
「うん、気をつけて帰ってね。……ああそうだ、佐伯くん」
去り際に、堂島が呼び止めた。
「君、パソコン詳しいんだよね? 明日の発表、機材トラブルとかあったら困るから、もしもの時はサポート頼むよ」
「もちろんです。万全の体制で見守らせていただきます」
俺は深く一礼した。
顔を上げた時、俺の目にはもう、彼に対する怒りはなかった。あるのは、死刑台に上る囚人を見るような、冷ややかな慈悲だけだった。
「お疲れ様でした」
俺は図書室を後にした。
背後で、堂島が鼻歌交じりに帰り支度をしている音が聞こえた。
楽しそうで何よりだ。その鼻歌が、明日には悲鳴に変わることも知らずに。
***
家に帰った俺は、最後の仕上げに取り掛かった。
自分の部屋のPCに向かい、明日の作戦シミュレーションを行う。
発表会場となる体育館のプロジェクターは、ステージ袖の操作卓にあるPCに接続されている。そのPCは校内LANに繋がっている。
俺は自分のタブレット端末から、そのPCにリモートアクセスできる経路を確保していた。
万が一、堂島がUSBを使わず、自分のノートPCを持ち込んだ場合でも対応できるように、予備のプランも用意する。
堂島が使いそうなクラウドストレージのアカウント(過去の貸出履歴からメールアドレスを特定し、パスワード解析ツールで突破済み)にも、同じ「特別資料」をアップロードしておいた。
「逃げ道は全部塞いだ」
時計の針は深夜零時を回っていた。
窓の外は深い闇だ。
咲良は今頃、何をしているだろうか。堂島との甘い未来を夢見て、眠りについているのだろうか。
それとも、まだ彼と連絡を取り合っているのか。
ふと、机の上に置いてあった写真立てが目に入った。
去年の夏、咲良と二人で行った海での写真だ。
麦わら帽子を被り、満面の笑みでピースサインをする咲良。その隣で、少し照れくさそうに笑う俺。
あの頃の笑顔は、もう二度と戻らない。
彼女自身がそれを捨てたのだ。
俺は写真立てを伏せた。
感傷に浸るのはこれで終わりだ。
明日は、俺にとっても、彼らにとっても、終わりの始まりの日になる。
ベッドに横たわっても、興奮でなかなか寝付けなかった。
天井を見つめながら、俺は何度も明日の光景を思い描いた。
スクリーンに映し出される証拠。
静まり返る体育館。
堂島の絶望的な表情。
咲良の悲鳴。
「……ざまぁみろ」
暗闇の中で、俺は一人呟いた。
その言葉は、甘美な毒のように俺の心を痺れさせた。
かつて堂島が咲良に言った言葉を思い出す。
『痛み、苦しみ、そして大人の快楽』。
皮肉なことに、俺もまた、復讐という名の「大人の快楽」を知ってしまったのかもしれない。
翌朝。
抜けるような青空が広がっていた。
決戦の朝に相応しい、清々しい天気だ。
俺は制服に着替え、鏡の前でネクタイを締めた。
鏡に映る自分の顔は、昨日のような疲弊した表情ではない。
瞳には強い光が宿り、口元は固く引き結ばれている。
それは、断罪者の顔だった。
「行くか」
俺は鞄にタブレットを入れ、家を出た。
通学路の桜並木は、すでに葉桜に変わりつつあった。
花は散り、あとは踏みしだかれるだけ。
咲良という名の花も、今日、散ることになる。
校門をくぐると、すでに生徒たちが登校してきていた。
「今日の集会、ダルいよなー」「教育実習生の話とか寝るわ」といった会話が聞こえてくる。
安心していい。今日は絶対に眠らせない。
全校生徒が一生忘れられないような、極上のエンターテインメントを提供してやるから。
昇降口で靴を履き替えていると、向こうから咲良が歩いてきた。
俺と目が合うと、彼女は一瞬ビクッとして、すぐに気まずそうに目を逸らした。
「……おはよう、咲良」
「あ……おはよう、蓮くん」
挨拶を交わす声はよそよそしい。
咲良の隣には、友人の女子生徒がいた。彼女は俺と咲良の微妙な空気を察してか、不思議そうな顔をしている。
「今日、発表会だね。楽しみにしてるよ」
「う、うん。……先生、すごく頑張って準備してたから。きっと素晴らしい発表になると思う」
咲良は自分に言い聞かせるように言った。
その表情には、盲目的な信頼と、一抹の不安が混在していた。もしかしたら、心のどこかで警鐘が鳴っているのかもしれない。だが、もう遅い。
「そうだね。俺も、すごく期待してる」
俺はニッコリと笑って見せた。
咲良はその笑顔に、何か不吉なものを感じ取ったのか、小さく身震いをした。
「じゃあ、あとで」
俺は彼女の横を通り過ぎ、教室へと向かった。
背後で咲良が見送っている気配を感じたが、俺は一度も振り返らなかった。
教室に入ると、俺は自分の席に座り、タブレットを取り出した。
画面には、体育館のPCとの接続待機状態が表示されている。
『Connection Ready...』
緑色の文字が点滅している。
あとは、開演のベルを待つだけだ。
俺は目を閉じ、静かにその時を待った。
教室の喧騒が遠ざかり、俺の中にある冷たい炎だけが、静かに、激しく燃え上がっていた。
「さあ、授業の時間だ。堂島先生」




