第3話 ログは嘘をつかない
夜の図書室は、昼間とは全く異なる顔を見せる。窓の外は漆黒の闇に包まれ、校庭の水銀灯だけがぼんやりと光っている。静寂はより深く、重く、空気そのものが冷たく沈殿しているようだ。
俺、佐伯蓮は、閉館作業を終えた後の誰もいない図書室に残っていた。手元には、昨日拾った咲良のヘアピンと、管理者権限でログインしたノートパソコンがある。画面の明かりだけが、暗闇の中で俺の顔を青白く照らし出していた。
「……やっぱり、間違いない」
画面に表示されているのは、堂島巧の在学中の貸出履歴だ。通常、卒業生の個人情報は一定期間でアーカイブ化され、一般の教職員や生徒にはアクセスできなくなる。だが、システムの保守を担当する俺の権限ならば、深層データベースから引っ張り出すことは造作もなかった。
リストをスクロールする指が震える。そこに並ぶ書名は、一般的な高校生が読むような代物ではなかった。
『サド公爵の性哲学』
『未成年心理操作のメカニズム』
『グルーミング:信頼を利用した支配』
『完全犯罪における証拠隠滅の心理学』
『禁断の愛:教師と生徒の悲劇的結末』
……異常だ。
単なる知的好奇心で片付けるには、あまりにも偏りすぎている。特に『心理操作』や『グルーミング』に関する書籍を繰り返し借りている点が、俺の背筋を寒くさせた。彼は高校生の頃から、すでに「支配する側」への強い興味、あるいは願望を持っていたのだ。
さらに履歴を遡ると、ある時期を境に、特定のジャンルの本を頻繁に借りていることが分かった。それは古いフランス文学や、耽美主義の詩集などだ。一見すると高尚な文学趣味に見えるが、これらは全て「背徳」や「不義密通」を美化した作品ばかりだ。
「……咲良に勧めていた本と同じ傾向だ」
堂島の手口が見えてきた。
彼はまず、ターゲットとなる女子生徒の知的好奇心を刺激するような「高尚な本」を勧める。そして、「文学的理解」という名目で、徐々に過激な性愛や背徳的な価値観を刷り込んでいく。相手がその価値観に染まり、現実の倫理観が麻痺したところで、自分自身を「物語の登場人物」として介入させるのだ。
まさに、咲良が今されていることそのものだ。
「クソッ……!」
俺は机を拳で叩いた。鈍い音が静寂に響く。
悔しかった。もっと早く気づいていれば。咲良があんな男に毒される前に、止めることができたかもしれないのに。
だが、後悔している時間はない。堂島の実習期間はあと一週間。このままでは、咲良は完全に壊されてしまう。
俺はさらにデータを掘り下げた。貸出履歴だけでは、彼の「悪意」を証明することはできても、決定的な「罪」を暴くことはできない。もっと直接的な、彼を社会的に抹殺できるほどの証拠が必要だ。
ふと、リストの備考欄に記された奇妙な文字列が目に入った。
『Ref: Old_Archive_S4_B2_F12』
これは、図書システムの正規のコードではない。歴代の図書委員長が、個人的なメモや、システムに登録できない非公式な資料の場所を記録するために使っていた「隠しコマンド」のようなものだ。俺も先輩から教わったことがある。
『S4』は第四書架。『B2』は下から二段目。『F12』は……ファイル番号12? いや、これはおそらく本の並び順か、あるいは……。
俺はパソコンをスリープ状態にし、立ち上がった。スマホのライトを点け、暗い書架の間を歩く。靴音がコツコツと響く。
第四書架は、古い全集や辞書が並ぶ、あまり人気のないエリアだ。
その下から二段目。そこには、背表紙が日焼けしてボロボロになった、古い文芸雑誌のバックナンバーがぎっしりと並んでいた。
「ここか……」
俺はスマホの明かりを頼りに、左から12番目の雑誌を引き抜いた。
昭和初期の、分厚い文芸誌だ。埃が舞い上がる。
ページをパラパラとめくってみるが、特に変わった様子はない。ただの古い雑誌だ。
だが、違和感があった。この雑誌だけ、妙に背表紙が分厚い。そして、ページとページの間に微妙な隙間がある。
俺は雑誌を裏返し、製本されている背の部分を指で探った。
……あった。
背表紙の内側に、カッターで切り込みが入れられている。そこが袋状になっていて、何かが隠されているようだ。
心臓が高鳴る。
俺は慎重にピンセットを取り出し(図書委員の修理道具として常備している)、切り込みの中に差し込んだ。何かが引っかかる感触。ゆっくりと引き出すと、古びた茶封筒が出てきた。
「……ビンゴだ」
封筒には何も書かれていない。だが、その中身が普通の代物でないことは、直感が告げていた。
俺は作業机に戻り、封筒の中身をぶちまけた。
出てきたのは、数十枚の便箋と、数枚の写真だった。
写真は、少し色褪せているが、写っている人物ははっきりと分かった。
一人は、若き日の堂島巧。高校生の頃の彼だ。今と変わらぬ、人を小馬鹿にしたような薄ら笑いを浮かべている。
そしてもう一人は、当時の女子生徒だ。セーラー服を着た、大人しそうな少女。
二人は図書室の死角で、体を密着させていた。堂島が少女の顎を持ち上げ、キスをしている写真。少女が虚ろな目で堂島の胸に顔を埋めている写真。さらに過激な、服を乱された状態の写真もあった。
「うわ……」
吐き気がした。これは自撮りだ。堂島が自分でカメラをセットして撮影したに違いない。戦利品として記録に残すために。
そして便箋。そこには、堂島と少女の間で交わされた「往復書簡」が綴られていた。
『先生、今日はありがとうございました。あんなこと、いけないことだと分かっているのに、先生の言葉を聞くと、自分が特別な存在になれた気がして……』
『君は美しいよ。普通の高校生には理解できない、高潔な魂を持っている。だから、世間の常識なんて気にしなくていい。僕と君だけの世界で、愛の真理を探究しよう』
『はい、先生。私、先生のためなら何でもします。体も心も、全部先生のものです』
手紙の日付は、堂島が高校三年生の頃のものだった。相手は後輩の女子生徒だろうか。「先生」と呼ばせているあたり、当時から彼の歪んだ性癖と支配欲は完成されていたようだ。
この手紙と写真は、堂島が卒業する時に隠していったものだ。なぜ持ち帰らなかったのか?
おそらく、彼にとってこれは「トロフィー」であり、同時に「タイムカプセル」だったのだろう。いつか母校に戻ってきた時、かつての自分の「偉業」を再確認し、悦に浸るための。
あるいは、見つかるスリルを楽しんでいたのかもしれない。
「最低だ……」
怒りで視界が歪む。こいつは、昔からこうやって言葉巧みに女子生徒を食い物にしてきたんだ。そして今、同じ手口で咲良を……。
俺は写真と手紙をスキャナーにセットし、最高解像度でデータ化した。
原本は元に戻しておく必要があるかもしれないが、今は証拠保全が最優先だ。
スキャンが終わると、俺はそのデータを暗号化し、クラウドサーバーと自分のUSBメモリに二重にバックアップを取った。
これで、堂島の過去の罪は暴ける。
だが、これだけでは足りない。
これはあくまで「過去」の出来事だ。堂島は「若気の至りだった」「捏造だ」としらばっくれるかもしれない。時効を持ち出すかもしれない。
今の彼を確実に断罪するためには、「現在」の証拠が必要だ。咲良との関係を示す、決定的な証拠が。
俺は再びPCに向かい、あるプログラムを起動した。
それは、図書室のカウンターに設置されている業務用PCのマイクとカメラを、遠隔操作するためのスクリプトだ。本来は防犯目的で導入された機能だが、管理者の俺なら自在に操れる。
さらに、咲良たちがよく使う「死角」の近くにある検索用端末。あれにもマイクが内蔵されている。
「……ごめん、咲良。君を守るためだ。プライバシーを侵害することを許してくれ」
俺は検索用端末のマイクを「高感度録音モード」に設定し、音声検知トリガーをセットした。図書室で一定以上の音量が検知されると、自動的に録音が開始され、俺のスマホに転送される仕組みだ。
準備は整った。
あとは、彼らが「ボロ」を出すのを待つだけだ。
いや、待つだけじゃない。彼らを油断させ、増長させ、自ら証拠を残すように仕向けるんだ。
翌日。
放課後の図書室は、相変わらず堂島と咲良の世界だった。
「水瀬さん、昨日の続きをしようか」
「はい、先生……」
咲良は昨日よりもさらに堂島に依存しているように見えた。俺と目が合っても、すぐに逸らしてしまう。その首筋には、ファンデーションで隠しきれない赤い痕があった。
俺は胸が張り裂けそうになるのを必死で堪え、平静を装ってカウンター業務をこなした。
「佐伯くん、今日も真面目だねえ」
堂島がニヤニヤしながら話しかけてきた。
「君のおかげで、俺たちは心置きなく文学談義ができるよ。感謝してる」
「……仕事ですから」
「ハハッ、つまらない男だなあ。もっと肩の力を抜けばいいのに。ま、君にはその『便利屋』がお似合いか」
堂島は俺を挑発し、優越感に浸っている。俺が何も気づいていないと思っているのだ。
いい気なものだ。お前のその慢心が、命取りになるんだぞ。
俺は無表情で本を整理しながら、心の中で冷たく笑った。
(笑っていられるのも今のうちだ。堂島先生、あなたの声は、もう全て記録されているんですよ)
その時、俺のスマホが短く振動した。
音声検知のアラートだ。
俺は素早くイヤホンを取り出し、片耳に装着した。カウンターの陰に隠れ、再生ボタンを押す。
ノイズ混じりの音声が流れてくる。
場所は、昨日の死角になっている郷土資料コーナーだ。
『……先生、これ、誰かに見られたら……』
『大丈夫だと言っただろう? 佐伯くんはカウンターで大人しくしてるよ。彼は従順な番犬だからね』
堂島の声だ。鮮明に聞こえる。
『番犬……そんな言い方、ひどいです』
『事実だよ。彼のおかげで、僕たちはこうして誰にも邪魔されずに愛し合える。感謝しなきゃね』
衣擦れの音がする。そして、湿った水音。
『んっ……先生、好き……』
『僕もだよ、咲良。君は本当に素晴らしい。歴代のどの子よりも、感度が良い』
『歴代……?』
『あ、いや、言葉の綾だよ。それより、もっと奥を見せてごらん……』
決定的な言質だ。
「愛し合える」「歴代のどの子よりも」。
これは教育的指導の範疇を完全に超えている。淫行の証拠だ。
さらに、俺を「番犬」呼ばわりした侮辱。
俺の手が震えた。怒りでスマホを握り潰しそうになる。
だが、同時に冷静な部分が「これで勝てる」と告げていた。
過去の証拠と、現在の証拠。この二つが揃えば、言い逃れは不可能だ。
しかし、俺はまだ満足していなかった。
ただ事務的に告発するだけでは、俺の気は済まない。
俺を、そして咲良を愚弄し、踏みにじった罪。その報いを、最も効果的で、最も屈辱的な形で受けさせてやる。
実習期間はあと3日。
最終日には、全校集会を兼ねた「教育実習生の研究発表会」が予定されている。全校生徒と教職員が集まり、実習生たちが成果を発表する場だ。
堂島もそこで、偉そうに教育論をぶつに違いない。
「……最高の舞台じゃないか」
俺はイヤホンを外し、ポケットにしまった。
あの日、あの場所で。
堂島巧の化けの皮を剥ぎ、その醜悪な本性を白日の下に晒す。
そして、幻想に酔いしれる咲良にも、現実という冷や水を浴びせてやる。
「佐伯くん、どうかした? 怖い顔して」
不意に声をかけられ、ハッと顔を上げた。
そこにいたのは、咲良だった。少し心配そうに、でもどこか後ろめたそうに俺を見ている。
「……いや、なんでもないよ。ちょっと頭が痛くて」
「そっか。無理しないでね」
咲良の言葉は優しい。でも、その優しさはもう俺には届かない。彼女の唇が、さっきまで堂島と何をしていたかを知ってしまった今では。
「咲良」
「なに?」
「……文学って、残酷だよね」
「え?」
「悲劇のヒロインは、最後には必ず破滅する。それが美学だとしても、現実はもっと泥臭くて、救いがない」
「……何言ってるの、急に」
咲良は戸惑ったように笑ったが、その目は笑っていなかった。俺の言葉に、何か不穏なものを感じ取ったのかもしれない。
「別に。ただの独り言だよ」
俺はカウンターに戻り、PCのキーボードを叩き始めた。
断罪の準備を進めるために。
スライド資料の作成、音声データの編集、そして一斉送信のプログラム。
やることは山積みだ。
堂島、そして咲良。
残りの3日間、せいぜいその「文学的な恋」とやらを楽しむがいい。
エンドロールは、俺が書いてやる。
俺は画面に映る堂島の顔写真を見つめ、静かにエンターキーを叩いた。
カチッ、という硬質な音が、宣戦布告の合図のように図書室に響いた。
その夜、俺は家に帰ってからも作業を続けた。
スキャンした過去の手紙と写真を、時系列順に整理する。
録音した音声から、特に悪質な発言を切り出し、ノイズを除去してクリアにする。
そして、それらを一つのプレゼンテーションファイルにまとめる。
タイトルは『文学教育における実地的アプローチの検証 ~堂島巧氏の実践例~』。
一見すると真面目な研究発表のようだが、中身を開けば地獄が待っている。
作業を進めるうちに、俺の心からは悲しみや未練が消え失せ、代わりに冷徹な達成感が満ちていった。
これは復讐ではない。浄化だ。
汚された図書室を、そして俺自身の尊厳を取り戻すための、必要な儀式なのだ。
深夜2時。
全ての準備が整った。
俺は完成したファイルを、学校のサーバーの「共有フォルダ」の深層に隠した。
そして、発表会当日の特定の時間に、自動的にプロジェクター用PCのデスクトップに展開されるよう、スクリプトを仕込んだ。
「チェックメイトだ」
俺は椅子に深くもたれかかり、天井を見上げた。
疲れ果てていたが、不思議と眠気はなかった。
頭の中では、3日後の光景が鮮明に描かれていた。
どよめく生徒たち。青ざめる堂島。泣き叫ぶ咲良。
ああ、楽しみだ。
文学よりもスリリングで、どんな小説よりもスカッとする結末。
それを見届けるためなら、俺は悪魔にでもなれる気がした。
ふと、スマホが鳴った。咲良からのLINEだ。
『今日は先に帰っちゃってごめんね。明日はちゃんと話そうね』
スタンプ付きの、可愛らしいメッセージ。
以前なら舞い上がっていただろう。でも今は、ただの欺瞞にしか見えない。
俺は既読をつけずに画面を閉じた。
話すことなんて、もう何もない。
言葉は無力だ。データだけが真実を語る。
そう、ログは嘘をつかないのだから。




