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第2話 書架の裏の秘密授業

教育実習生の堂島巧が来てから、一週間が過ぎようとしていた。

たった数日で、図書室の空気は一変していた。以前のような、埃と静寂が支配する穏やかな空間はもうそこにはない。代わりに漂うのは、どこか浮ついた、甘ったるく粘り気のある空気だ。


その中心にいるのは、間違いなく堂島だった。


「――つまり、この作家が描きたかったのは倫理観の欠如ではなく、倫理を超越した先にある美意識なんだよ。分かるかな、水瀬さん」

「はい……なんとなく、分かります。常識に囚われているうちは、本当の美しさは見えないってことですよね」

「その通り。君は飲み込みが早いな。スポンジが水を吸うように、俺の言葉を吸収してくれる」


放課後の図書室。いつもの窓際の席には、堂島と咲良が向かい合って座っている。二人の間にあるテーブルには、分厚いハードカバーの本が何冊も積み上げられ、まるで二人だけの城壁を作っているようだった。


俺、佐伯蓮は、そこから少し離れた貸出カウンターの中で、返却された本のバーコードを読み取っていた。ピッ、という電子音が虚しく響く。本来なら、今は図書委員の活動時間であり、咲良と一緒に書架の整理やカウンター業務をするはずだった。


けれど、堂島は「彼女の感性を磨くための特別指導だ」と言って、連日こうして咲良を独占している。顧問の先生も、OBであり教員志望の堂島に全幅の信頼を置いているため、俺には止める権限がなかった。


「……はあ」


ため息をつきながら、俺は二人の様子を盗み見た。

咲良の表情は、俺といる時とは明らかに違っていた。頬を上気させ、瞳を潤ませ、堂島の一挙手一投足に熱っぽい視線を送っている。それはまるで、憧れのアイドルを前にしたファンのようであり、同時に、教祖を崇める信者のようでもあった。


堂島が何か冗談を言ったのか、咲良が口元を押さえてコロコロと笑う。その仕草一つとっても、俺には見せたことのない色気が混じっている気がして、胸の奥が焼けるように痛んだ。


「佐伯くん」


不意に名前を呼ばれ、俺は顔を上げた。堂島が、眼鏡の奥の冷ややかな瞳でこちらを見ていた。


「君、暇なら地下の書庫に行って、古い文学全集の在庫確認をしてきてくれないか? 授業で使いたいんだが、何冊あるか把握しておきたくてね」

「……在庫確認なら、ここの端末で検索すれば分かりますけど」

「現物だよ、現物。保存状態も見たいんだ。データだけじゃ分からないこともあるだろ?」


堂島は、先日俺が言った言葉を皮肉るように唇を歪めた。地下書庫は湿気が多く、埃っぽい場所だ。確認作業には小一時間はかかるだろう。つまり、邪魔者は消えろということだ。


俺はちらりと咲良を見た。彼女なら「私も手伝うよ」と言ってくれるかもしれない。そんな淡い期待を抱いた。

しかし、咲良は申し訳なさそうに眉を下げるだけだった。


「ごめんね、蓮くん。私、今ちょうどいいところなの。この章の解説、すごく重要だから……」

「……分かった。一人で行ってくる」


俺は努めて感情を押し殺し、カウンターを出た。背後から「悪いね、助かるよ」という堂島の乾いた声と、すぐに再開される二人だけの甘い会話が聞こえてきた。


重い鉄の扉を開け、地下への階段を降りる。ひんやりとした冷気が肌にまとわりつく。

俺は逃げたかったのかもしれない。目の前で繰り広げられる、恋人が他の男に染まっていく光景から。


しかし、俺が地下書庫で埃にまみれて作業をしている間、地上の図書室では、俺の想像を遥かに超える「授業」が行われていたことを、その時の俺は知る由もなかった。


***


蓮が図書室を出て行くと、堂島はふっと表情を緩めた。それは安堵の笑みではなく、獲物を追い詰めた肉食獣が、ようやく食事にありつける時のような獰猛な笑みだった。


「さて、邪魔者は消えたね」

「堂島先生、そんな言い方……蓮くんは真面目に仕事をしてくれてるんですから」


咲良は一応の抗議を口にしたが、その声には以前のような蓮を庇う強さはなかった。むしろ、堂島と二人きりになれたことへの微かな期待と緊張が滲んでいた。


「ごめんごめん。彼の実直さは評価しているよ。ただ、これからの話は、彼のような堅物には少し刺激が強すぎると思ってね」

「刺激……ですか?」


堂島は積み上げられた本の中から、一冊の古びた洋書を取り出した。革張りの表紙には、金色の文字でタイトルが刻まれている。


「18世紀のフランス文学だ。当時は発禁処分になったほどの、スキャンダラスな内容だよ」

「発禁……そんな過激なんですか?」

「過激、というよりは人間の本質を突きすぎたんだよ。愛とは何か。快楽とは何か。社会的な道徳を剥ぎ取った時、そこに残る獣のような情熱こそが真実の愛だと、この作者は説いている」


堂島はページをめくり、ある一節を指差した。フランス語で書かれていて咲良には読めないが、挿絵の版画が目に入った。

それは、貴族風の男性が女性の衣服を乱し、木陰で情事に耽っている絵だった。


「っ……!」


咲良は思わず顔を背けた。心臓が早鐘を打つ。図書室という神聖な場所で、こんな絵を見せられるとは思っていなかった。


「汚らわしいと思ったかい?」

「い、いえ、汚らわしいとは……ただ、少し驚いて」

「ならいい。これは芸術だ。だが、言葉や絵を見るだけでは理解できない領域がある。……水瀬さん、少しあっちへ行こうか」


堂島が顎でしゃくったのは、図書室の一番奥。電動書架が並ぶエリアのさらに奥にある、郷土資料コーナーだ。そこは普段生徒がほとんど立ち寄らず、カウンターからも完全に死角になる場所だった。


「え、あそこは……」

「静かに読みたいんだよ。ここはカウンターから丸見えで落ち着かない。それに、君にだけ教えたい『読み方』があるんだ」


堂島は立ち上がり、咲良の手を取った。

その手は大きく、温かく、そして強引だった。拒絶する隙を与えないまま、堂島は咲良を奥へと誘う。咲良の足は、迷いながらも彼に従った。蓮への罪悪感がちくりと胸を刺したが、それ以上に「先生に選ばれた」「特別なことを教えてもらえる」という優越感が勝ってしまったのだ。


死角に入ると、堂島は書架に背を預け、咲良を自分の正面に立たせた。周囲は高い本棚に囲まれ、薄暗い。埃と古書の匂いが濃厚に漂い、まるで世界から切り離された密室のようだった。


「先生、読み方って……」

「さっきの絵、覚えてるか?」


堂島は本を開き、再びあの挿絵を咲良に見せた。


「この女性の表情を見てごらん。恥じらっているように見えるか? それとも、悦んでいるように見えるか?」

「えっと……両方、でしょうか。拒んでいるようで、受け入れているような……」

「正解だ。彼女は理性の部分では拒絶している。だが、本能の部分では、男の情熱に呼応して歓喜しているんだ。この矛盾こそが、文学における官能の極致なんだよ」


堂島が一歩、咲良に近づく。咲良は後ずさろうとしたが、背中が書架に当たり、逃げ場がないことに気づく。


「理屈で理解しようとするな。想像するんだ。君がこの女性だとしたら、どんな感情が湧き上がる?」

「そ、そんなの……分かりません」

「嘘だ。君には才能があると言っただろう? 君の中にも眠っているはずだ。日常の退屈を破壊してくれる、劇的な何かを求める心が」


堂島の指先が、咲良の髪を掬い上げた。

ゾクッとした戦慄が咲良の背筋を走る。それは恐怖なのか、期待なのか、自分でも判別がつかなかった。


「蓮くんとのキスは、どんな味がする?」

「えっ……?」


唐突な質問に、咲良は目を見開いた。


「優しいだけの、おままごとのようなキスだろう? 相手を傷つけないように、嫌われないように、恐る恐る触れるだけの。……それは愛じゃない。ただの依存だ」


堂島の言葉は、鋭利な刃物のように咲良の心の隙間を切り裂いていく。蓮との関係に感じていたマンネリ、物足りなさ。それを的確に言い当てられ、咲良は反論できなかった。


「本当の愛は、もっと痛みを伴うものだ。相手の全てを奪い尽くし、自分だけのものだという刻印を刻むような……こういう風にね」


堂島の顔が近づいてくる。

咲良は目を閉じた。拒まなければいけない。蓮がいる。私は蓮の彼女だ。

でも、声が出ない。体が動かない。

堂島の大人の香水の匂いが、思考を麻痺させていく。


「んっ……」


唇が重なることはなかった。

代わりに、堂島の唇が触れたのは、咲良の敏感な耳元だった。


「あ……」


甘い吐息が鼓膜を震わせ、咲良の膝から力が抜ける。崩れ落ちそうになる彼女の腰を、堂島の腕が強く抱き留めた。


「感じただろう? これが、言葉を超えたコミュニケーションだ」


堂島はそのまま、唇を首筋へと滑らせた。濡れた舌が白い肌を這う感触に、咲良は小さな悲鳴を上げた。


「先生、だめ……ここは学校……」

「誰も来ないよ。佐伯くんは地下で埃と格闘中だ。ここには俺と君、二人しかいない」

「でも……!」

「静かに。……声を出すと、見つかるよ?」


堂島は意地悪く囁くと、咲良の制服の襟を少しだけ寛げた。そして、鎖骨の少し上の、ブラウスで隠れるか隠れないかというギリギリの場所に、強く唇を吸い付けた。


「いっ……!」


鋭い痛みが走り、その後にじんわりとした熱が広がる。

肌が吸われる感触。所有権を主張するかのような強い吸引。

咲良の頭の中が真っ白になった。

背徳感。

ここでこんなことをしているという異常事態。

教師と生徒。彼氏がいるのに、別の男に抱きすくめられている自分。


その全てが、堂島の言う「文学的な体験」という免罪符によって、肯定されていく。


(私は今、小説のヒロインになってる……)


悲劇的で、背徳的で、誰よりも特別なヒロインに。

蓮といる時の「平凡な女子高生」の自分は消え失せ、堂島によって「女」としての価値を引き出されている。そう錯覚した瞬間、咲良の腕から抵抗の力が消えた。


彼女は震える手で、堂島のシャツの背中を掴んだ。

それは、共犯の合図だった。


「いい子だ。その表情、すごく綺麗だよ、咲良」


名前を呼ばれた。苗字ではなく、名前で。

その事実に、咲良の心は完全に陥落した。

書架の影で、二人の吐息が重なる。本のページをめくる音の代わりに、衣擦れの音と、押し殺したような甘い声が、古い本たちに吸い込まれていった。


***


「……ふう、ひどい埃だったな」


一時間後。

俺は制服についた埃を払いながら、地下書庫から戻ってきた。

結局、堂島が言っていたような「授業で使えそうな全集」は見当たらなかった。大方、俺を遠ざけるための方便だったのだろうとは察していたが、それでも真面目に探してしまった自分が情けない。


図書室に戻ると、窓際の席に咲良が一人で座っていた。堂島の姿はない。

俺は少しほっとして、彼女に近づいた。


「ただいま、咲良。終わったよ」

「あ……お帰り、蓮くん」


咲良が顔を上げた。

その瞬間、俺は違和感を覚えた。

いつもなら真っ直ぐに俺を見てくれる彼女の瞳が、どこか虚ろで、焦点が定まっていない。頬は不自然に赤く、呼吸が少し荒いように見える。

それに、整っていたはずの髪が少し乱れている。


「大丈夫? 顔が赤いけど、熱でもあるの?」


心配して手を伸ばそうとすると、咲良はビクリと体を震わせて、俺の手を避けた。


「だ、大丈夫! ちょっと本の世界に没頭しすぎちゃって……頭がボーッとするだけ」

「……そう? ならいいけど」


拒絶された手に、行き場のない寂しさを感じる。

ふと、咲良が首元を気にするように、ブラウスの襟を指で直す仕草をした。その時、微かに甘い香りが漂った。

それは咲良が普段使っているシャンプーの香りではない。

ムスク系の、男物の香水の匂いだ。


堂島の匂いだ。


心臓が嫌な音を立てて跳ねた。

俺の視線が、無意識に彼女の首筋に向かう。咲良はそれに気づき、慌てて髪を下ろして首元を隠した。


「な、なに? ジロジロ見ないでよ」

「いや……ごめん」


隠された。

直感的に、見てはいけないものがあるのだと悟った。

さっきまで、俺がいないこの一時間で、二人は何をしていた?

「特別指導」とは、一体何だ?


疑念が黒いインクのように心の中に広がっていく。

だが、今の俺には証拠がない。問い詰めたところで「考えすぎだ」「失礼だ」とはぐらかされるのがオチだろう。咲良は今、完全に堂島に心酔している。俺の言葉など届かないかもしれない。


「堂島先生は?」

「……職員室に戻ったわ。今日はもう終わりだって」

「そっか。じゃあ、俺たちも帰ろうか」

「ううん、私、今日は一人で帰る」


咲良は立ち上がり、鞄を抱きしめるように持った。


「え、どうして?」

「ちょっと……考えたいことがあるの。今日教わったこと、忘れないうちに整理したくて。だから、ごめんね」


咲良は早口でまくし立てると、俺の返事も待たずに図書室を出て行ってしまった。その背中は、逃げるようでもあり、どこか上の空で夢を見ているようでもあった。


残された俺は、呆然と立ち尽くすしかなかった。

夕闇が迫る図書室は、以前よりも一層暗く、冷たく感じられた。

二人が座っていたテーブルに近づく。そこには、堂島が残していった一冊の洋書が置かれていた。


俺は何気なくその本を手に取り、パラパラとめくった。

フランス語は読めない。だが、あるページに挟まっていた栞が滑り落ちた。

それを拾おうとして、俺の手が止まった。


床に落ちた栞。いや、それは栞ではなかった。

使い捨ての、ウェットティッシュの空き袋だ。

口元や、手を拭くのに使ったのだろうか。


そして、ふと見上げた書架の奥。死角になっているコーナーの床に、何かが落ちているのが見えた。

近づいて拾い上げる。

それは、咲良が大切にしていたヘアピンだった。

朝、彼女がつけていたものだ。

それがなぜ、こんな誰も来ないような奥まった場所に落ちているのか。

しかも、金具の部分が少し歪んでいる。何かに押し付けられたか、強い力で引っ張られたかのように。


「……まさか」


最悪の想像が脳裏をよぎる。

首元の赤み。男の香水。乱れた髪。拒絶された手。そして、このヘアピン。


点と点が繋がり、吐き気がするような線を描き出す。

俺の知らないところで、俺の大切な場所が、大切な人が、土足で踏み荒らされたのだ。


「許さない……」


俺はヘアピンを握りしめた。金具が掌に食い込み、痛みをもたらす。だが、その痛みが俺の意識を冷徹に研ぎ澄ませていく。


堂島巧。お前はただの教育者気取りの狼だ。

そして咲良。君も、その毒に自ら進んで口づけをしたのか。


俺はポケットからスマホを取り出した。

もう迷いはない。

俺は、図書管理システムの管理者ページにアクセスする。

以前、堂島は言った。「データだけじゃ分からないこともある」と。

だが、データは嘘をつかない。

感情や言い訳で歪められる記憶とは違い、ログは冷酷なまでに事実だけを記録する。


奴がこの学校のOBだというなら、必ず痕跡が残っているはずだ。

どんな本を借り、どんな傾向を持ち、そして「何をしてきたか」。


俺は震える指で、管理者パスワードを打ち込んだ。

画面が切り替わり、膨大なデータベースへのアクセスが許可される。

これは復讐の序章だ。

俺の聖域を汚した代償は、高くつくぞ。


「検索開始……対象、堂島巧」


エンターキーを押すと同時に、画面には検索結果のリストが滝のように流れ始めた。その中の一つに目が止まった時、俺の全身から血の気が引くと同時に、暗い歓喜が湧き上がってきた。


そこには、異常なまでの貸出履歴とともに、備考欄に奇妙なコードが記されていたのだ。それは歴代の図書委員長だけに口伝で受け継がれる、ある「隠し場所」を示すコードだった。


俺は顔を上げ、図書室の天井を見上げた。

戦いのゴングは、静かに鳴らされた。

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