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第1話 知識という名の毒

放課後の図書室には、特有の匂いがある。古びた紙とインク、そして微かに漂う埃の匂いが混じり合った、静寂の香りだ。窓から差し込む夕日が、整然と並ぶ書架を黄金色に染め上げ、空気中を舞う塵がきらきらと光っている。


俺、佐伯蓮さえき れんにとって、この場所は学校の中で唯一、心から落ち着ける聖域だった。


「ねえ、蓮くん。ここの解釈なんだけど、どう思う?」


静寂を破らないよう、控えめな声量で問いかけてきたのは、向かいの席に座る水瀬咲良みなせ さくらだ。彼女は俺の恋人であり、共に図書委員を務めるパートナーでもある。


窓際から差し込む光が、彼女の黒髪を透かして柔らかい輪郭を描いている。長いまつ毛が伏せられ、視線は手元の文庫本に落とされていた。華美な装飾を好まない彼女は、制服の着こなしも真面目そのものだ。けれど、その清楚な佇まいこそが、俺にとってはどんな着飾った女子よりも魅力的に映る。


「どれ?」


俺は自分が読んでいたハードカバーのSF小説に栞を挟み、身を乗り出した。咲良が指差しているのは、明治時代の文豪が書いた有名な純文学作品だった。


「主人公が先生に『月が綺麗ですね』って言うシーンあるでしょ? これ、やっぱり告白なのかな」

「有名な逸話だよね。直訳すれば『I love you』だけど、日本人の慎ましさを表現したってやつ」

「うん、それは知ってるんだけど……。でも、この主人公の性格からして、もっとドロドロした独占欲みたいなものも隠れてる気がして」


咲良は顎に手を当てて、真剣な表情で思案している。彼女はいわゆる「文学少女」だ。本を読むのが好きで、物語の背景や登場人物の心理を深読みすることに喜びを感じている。ただ、彼女の場合、純粋な知的好奇心というよりは、「難しい本を読んでいる自分」や「大人びた解釈ができる自分」への憧れが強いように見えた。背伸びをしている子供のような危うさが、たまらなく可愛くもあるのだが。


「なるほどね。確かにその前後の文脈を見ると、綺麗な言葉の裏に執着心が見え隠れしてるかも。咲良らしい鋭い視点だと思うよ」

「えへへ、そうかな? 蓮くんに褒められると嬉しいな」


咲良は花が綻ぶように笑った。その笑顔を見るだけで、一日の疲れが吹き飛ぶようだ。俺たちはこうして、放課後の図書室で本を読み、感想を言い合い、静かな時間を共有する。派手なデートなんてなくても、この穏やかな時間が永遠に続けばいいと思っていた。


ガララッ――。


静寂な空気を切り裂くように、図書室の引き戸が乱暴に開かれた。

反射的に入り口を見ると、一人の男が立っていた。


「おっ、ここが図書室か。懐かしいなあ」


男はズカズカと土足で静寂に踏み込んでくるような足取りで、カウンターの方へ歩いてきた。背が高く、仕立ての良いスーツを着こなしている。整えられた髪に、理知的な細フレームの眼鏡。一見すれば爽やかな好青年だが、その口元にはどこか人を見下したような薄ら笑いが張り付いている。


「あ、あの……入室の際は静かにお願いします」


咲良が慌てて立ち上がり、委員としての務めを果たそうと注意した。だが、男は悪びれる様子もなく、むしろ面白がるように咲良を見下ろした。


「ごめんごめん。あまりに懐かしくて、つい声が出ちゃったよ。君、図書委員?」

「は、はい。水瀬咲良です」

「水瀬さんか。いい名前だ。俺は堂島巧どうじま たくみ。今日からここに教育実習に来たんだ。担当は国語。実は俺、この高校のOBでね。元図書委員長だったんだよ」

「えっ、先輩……なんですか?」


咲良の声色が、警戒から驚き、そして微かな敬意へと変わるのを俺は見逃さなかった。堂島と名乗った男は、満足げに頷くと、今度は俺の方へと視線を向けた。


「そっちの彼は?」

「佐伯蓮です。現図書委員長です」

「ほう、今の委員長か。頼りなさそうだが、まあ真面目そうではあるな」


堂島は値踏みするように俺を一瞥すると、すぐに興味を失ったように視線を咲良に戻した。その無礼な態度に苛立ちを覚えたが、俺は感情を表に出すのが得意ではない。無言で彼を観察することにした。


堂島は、俺たちのテーブルに近づくと、無造作に咲良が読んでいた本を覗き込んだ。


「へえ、漱石か。高校生にしては渋いチョイスだね。感心感心」

「あ、ありがとうございます。その、古い文学が好きで……」

「いいことだ。最近の高校生は、スマホ小説みたいな薄っぺらい文章ばかり読んでるからね。君みたいな子がいてくれて嬉しいよ」


堂島はそう言いながら、チラリと俺の手元にあるSF小説に目をやった。


「……ま、男の子はそういうエンタメが好きだよね。ロボットとか宇宙とか。夢があっていいんじゃない? 俺は卒業してから一度も読んでないけど」


明らかに馬鹿にした口調だった。「それは子供の読み物だ」と言外に告げている。俺は眉をひそめたが、反論するよりも先に、咲良が反応した。彼女は少し恥ずかしそうに、俺の方をちらりと見たのだ。まるで、俺と一緒にいることが少し気恥ずかしいとでも言うように。


「それで、水瀬さん。さっき『月が綺麗ですね』の話をしてたみたいだけど」

「あ、はい。聞こえてましたか?」

「地獄耳でね。……君、あれを『独占欲』と解釈してたね?」

「は、はい。間違ってますか?」


咲良が不安そうに上目遣いで堂島を見る。堂島は眼鏡の位置を指で直しながら、教壇に立つ教師のような顔つきを作った。


「間違ってはいない。だが、浅いな」

「浅い……ですか?」

「そう。高校生の限界、と言ってもいい。君の解釈は、あくまで『文字の上だけ』での理解だ。教科書的な優等生の回答だよ」


堂島の言葉に、咲良の顔から血の気が引く。彼女にとって「文学的センス」を否定されることは、何よりも屈辱的なはずだ。


「あの時代の男の情念というのは、もっと生々しく、粘着質なものなんだよ。独占欲なんて綺麗な言葉で片付けられるものじゃない。所有欲、性欲、そして相手を自分だけの世界に閉じ込めたいという加虐性。それらが渾然一体となって、あえて『月が綺麗』なんて美しい言葉に昇華されているんだ」


堂島は身振り手振りを交えて熱弁を振るう。その言葉の選び方は巧みで、聞く者を引き込む引力があった。だが、俺にはそれがただの知識のひけらかしにしか聞こえなかった。


「……先生の解釈は興味深いですが、それはあくまで一つの可能性ですよね。読む人の数だけ解釈があっていいのが文学の良さだと、僕は思いますが」


俺が口を挟むと、堂島は面白くなさそうに目を細めた。


「佐伯くん、だったか。君の言うことは正論だ。民主主義的で、平和で、とても高校生らしい意見だね」

「何が言いたいんですか」

「芸術において、多数決は無意味だと言ってるんだよ。より深く、より本質に近づいた解釈こそが『正解』なんだ。そして、その深淵に辿り着くためには何が必要か分かるか?」


堂島は俺を無視して、咲良の瞳を真っ直ぐに覗き込んだ。その距離は、初対面の教師と生徒にしては近すぎる。


「……分かりません。教えてください、先生」


咲良が、吸い寄せられるように問い返す。その瞳には、すでに堂島への憧憬の色が混じり始めていた。堂島は口角を吊り上げ、獲物を罠にかけた狩人のような笑みを浮かべた。


「経験だよ、水瀬さん」


低く、甘い声が図書室に響く。


「痛み、苦しみ、そして大人の快楽。それらを肌で感じ、心と体に刻み込んだ人間だけが、文学の行間に隠された本当の意味を理解できる。温室育ちの子供のままじゃ、一生かけても表面的な文字面をなぞることしかできないんだ」


堂島の手が、咲良の読んでいた本の上に重ねられた。その指先が、偶然を装って咲良の指に触れる。咲良はビクリと肩を震わせたが、手を引っ込めようとはしなかった。


「君には才能がある。原石の輝きを感じるよ。ただ、磨き方が分かっていないだけだ。……もし良かったら、俺が実習期間中、特別に君にレクチャーしてあげようか? 授業では教えない、本当の文学というものを」

「本当の……文学……」


咲良の頬が紅潮していく。それは恥じらいでもあり、未知の世界への興奮でもあった。俺は胸の奥がざらつくのを感じた。これは教育じゃない。もっと別の、不純な何かが混じっている。


「咲良、そろそろ下校時刻だ。帰ろう」


俺は努めて冷静な声を出し、会話を断ち切ろうとした。咲良はハッとして我に返り、俺と堂島を交互に見た。その瞳が一瞬、迷うように揺れた。


「あ、うん……そうだね」


咲良は名残惜しそうに本を閉じ、鞄を手に取った。堂島は余裕たっぷりに一歩下がり、道を開ける。


「じゃあ、また明日。図書室には毎日顔を出すつもりだから。楽しみにしてるよ、水瀬さん」

「はい! ……あの、堂島先生。さよなら」

「さよなら」


堂島は咲良には極上の笑顔を向け、俺には冷ややかな視線を投げてきた。「お前には理解できない世界だ」と嘲笑うかのような目だった。


帰り道、俺たちの間には重苦しい沈黙が流れていた。いつもなら、その日にあった些細な出来事を話し合い、笑い合う時間だ。だが、今日の咲良は心ここにあらずといった様子で、時折ぼんやりと空を見上げている。


「……あの先生、なんか変わった人だったな」


俺が探りを入れるように呟くと、咲良は少しむっとしたように口を尖らせた。


「そうかな? 私は、すごく知的な人だと思ったけど。あんなに深く作品を読み込んでるなんて、やっぱり大人は違うなって」

「そうかもしれないけど、ちょっと押し付けがましくないか? 俺たちの読み方を否定しなくてもいいのに」

「否定じゃなくて、教えてくれたんでしょ。私たちがまだ子供だから、見えてない景色があるって」


咲良の言葉に、俺は言葉を詰まらせた。「私たちが子供だから」。その言葉には、明らかに俺を含めた「現状」への不満が含まれていた。


「ねえ、蓮くん。私たち、このままでいいのかな」

「えっ?」

「ただ漫然と本を読んで、楽しいねって笑ってるだけで。それって、堂島先生の言う通り、すごく浅いことなんじゃないかなって……私、もっと成長したい。本物の感動を知りたいの」


西日に照らされた咲良の横顔は、いつになく真剣で、そしてどこか遠かった。俺の手の届かない場所へ、一歩踏み出そうとしているような危うさがあった。


「咲良、それは……」

「ごめん、今日はちょっと考え事したいから、ここでバイバイするね。また明日」


俺の返事を待たずに、咲良は足早に角を曲がって行ってしまった。残された俺は、伸びた自分の影を見つめながら、拳を強く握りしめた。


胸のざわつきが収まらない。

あの堂島という男、ただの教育実習生ではない。あの目、あの話し方、そして咲良を見る粘着質な視線。

俺の直感が警鐘を鳴らしていた。奴は危険だ、と。


「……経験、か」


俺は一人呟き、鞄からスマートフォンを取り出した。そして、慣れた手つきで学校のサーバー管理画面へのショートカットをタップする。俺は図書委員長として、図書室の貸出システムや蔵書データベースの保守管理を一任されていた。表向きはただの管理だが、実際にはシステムの脆弱性を指摘し、パッチを当てることができる管理者権限(root権限)に近いアクセス権を持っている。


教師たちは俺を「パソコンに詳しい便利な生徒」程度にしか思っていないが、俺はこの学校のデジタルな裏側を誰よりも把握していた。


画面には、無機質なログインプロンプトが表示されている。

もし、堂島がこの学校のOBだというなら、過去のデータが残っているはずだ。彼が在学中、どんな本を読み、どんな痕跡を図書室に残していったのか。


「堂島巧……」


俺は検索窓にその名前を打ち込もうとして、指を止めた。まだだ。まだ何も起きていない。疑心暗鬼でプライバシーを暴くのは、俺の信条に反する。

だが、もし咲良に何かあろうものなら。その時は手段を選ばない。


俺はスマホをポケットにしまい、夕闇が迫る通学路を一人歩き出した。

明日からの図書室が、もう二度と以前のような平穏な聖域には戻らないことを、この時の俺は予感していた。

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