第2話 自殺ではない声
第一夜を越えてから、私は眠れませんでした。
眠ろうとすると、瞼の裏にあの片目が開くのです。前髪の奥から、こちらを覗くように、あるいはこちらの奥を見透かすように、濡れた黒い目がゆっくりと広がっていく。その目は、昨夜見たものと同じでありながら、私の記憶の中では少しずつ別の意味を帯び始めていました。
最初、私はあれを怨霊だと思っていました。
二時に現れるもの。鏡に映るもの。床下から声を返すもの。見た者の骨の内側へ叫びを残すもの。
ですが、夜が明け、笹倉さんの部屋を出て、自分の作業場へ戻るまでのあいだに、私はひとつの嫌な疑念を抱くようになりました。
あれは、本当にただの怪異だったのか。
もし笹倉美澄さんの死が、自ら選んだものではなかったとしたら。もし彼女が、あの浴室で誰かに殺されたのだとしたら。もしその場に、昨夜私と夜明けまで同じ部屋にいた笹倉芙美さんがいたのだとしたら。
私は、怨霊のいる部屋にいただけではありません。
殺人の現場に最も近い場所で、殺した者、見ていた者、隠した者の息づかいを聞いていたのかもしれない。
これから記すのは、朝になってから私が知ったことです。
夜の怪異よりも、朝の現実の方が冷たいことがあります。
どうか、そこだけは覚えておいてください。
恐ろしいものは、必ずしも暗闇から来るとは限りません。
人の声で、電話越しに名乗り、書類の中に残り、遺影の黒目の奥で、じっとこちらを待っていることもあるのです。
絶叫は、ある瞬間を境に唐突に途切れた。
それは声が遠ざかったというより、音そのものが世界から切り落とされたような終わり方だった。つい今しがたまで部屋の空気を震わせ、壁紙の裏側や床板の隙間にまで染み込んでいたはずの叫びが、何の余韻も残さず消えたのである。耳の奥にはまだ鈍い振動が残っていたが、それは音ではなく、骨が勝手に覚えてしまった記憶のようなものだった。私はしばらく床に片手をついたまま、自分がどこにいるのか、今が何時なのか、立ち上がるべきなのかさえ判断できずにいた。
窓の外は白み始めていた。夜明けだった。
その事実を認識した途端、身体の奥から遅れて震えが来た。夜が終わったという安堵ではなく、夜が終わってしまったことによって、逆に自分が見たものを一人で抱えなければならなくなったような、そんな冷たい孤独だった。怪異の最中、人間は恐怖のすべてを理解しているわけではない。理解してしまえば動けなくなるからだ。だから脳は都合よく感覚を切り落とし、目の前で起きていることの一部だけを処理する。けれど終わったあと、切り落とされたものは戻ってくる。戻ってきて、欠けていた恐怖を補完する。
私はようやく顔を上げた。
昨夜、割れたはずの窓ガラスは割れていなかった。カーテンは裂けていない。テレビの画面にも、ステンレスのポットにも、写真立てのガラスにも、あの顔は映っていなかった。床には水も残っていない。爪の跡も、髪の束も、黒い手形も見えない。あまりに何も残っていないので、私は一瞬、自分の記憶の方を疑いそうになった。だが疑い切ることはできなかった。足首に残るあの感触、耳の奥で鳴った爪の音、瞼の薄皮に触れた冷たい唇の気配だけは、証拠のように身体の内側へ残っていたからだ。
笹倉芙美は玄関の近くに座り込んでいた。
彼女は膝を抱えているわけでもなく、泣いているわけでもなかった。ただ、夜が通り過ぎるのを何度も経験した人間のように、力の抜けた姿勢で床を見ている。疲弊しているのは間違いない。頬は削げ、唇は乾き、目の下には眠れない者特有の濁った影があった。それでも私は、その姿を見た時、どうしても奇妙なものを感じた。被害者の顔に見える。恐怖に耐えてきた人間の顔に見える。だがそれと同時に、彼女はどこか、夜明けを確認した者の顔をしていた。今夜も終わった。今夜も来た。今夜も帰った。そんな、慣れてはいけない手順に慣れてしまった者の静けさがあった。
「……一度、戻ります」
私がそう言うと、笹倉はゆっくり顔を上げた。返事はすぐにはなかった。彼女の視線は私ではなく、私の鞄の方へ落ちた。遺影が入っている。昨夜撮影したデータの入ったカメラもある。その視線の動きが妙に正確で、私は一瞬だけ、彼女が何を心配しているのか分からなくなった。私の身を案じているのか。妹の遺影を案じているのか。それとも、自分の部屋から何かが持ち出されることを気にしているのか。
「お願いします」
やがて彼女は言った。
ひどく小さな声だった。けれど、その声には私を引き留めようとする響きがなかった。普通なら、もう一度来てほしいとか、どうすればいいのかとか、次の夜が怖いとか、何かしら言葉があってもよかったはずだ。だが彼女はそれを言わなかった。彼女は、私が戻ってくることを知っている人間のように、ただ「お願いします」とだけ言った。
私は鞄を持ち上げ、玄関へ向かった。途中、廊下の壁に目が止まった。昨夜のような黒い手形はない。爪で削った文字もない。そこには古い団地特有のくすんだ白壁があるだけだった。けれど、よく見ると壁紙の一部だけがわずかに浮いていた。湿気を含んで膨らんだような浮き方で、その下に何か細いものが入り込んでいるように見える。私は触れなかった。触れれば、そこから髪が出てくる気がした。
玄関のドアノブは、拍子抜けするほど簡単に回った。昨夜、何度回しても開かなかった金属が、朝になるとこんなにも軽くなる。そのことが、かえって不快だった。閉じ込められていたという事実までもが、夜の中だけのものとして片づけられようとしている。朝の世界は、夜の異常を証明してくれない。むしろ、何もなかったふりをする。私はその無関心さに、ひどく腹が立った。
ドアを開けた瞬間、冷えた朝の空気が流れ込んできた。外気の匂いだった。雨上がりのコンクリート、古い鉄柵、どこかの部屋から漏れてくる味噌汁の匂い。あまりにも生活の匂いだったので、私は思わず深く息を吸った。吸ってから、後悔した。肺の中に朝が入ってくると同時に、昨夜の空気が自分の内側に残っていることが分かったからだ。湿った髪の匂い、古い浴室の臭い、鉄に似た甘さ。それらは部屋を出ても、私の内側から消えていなかった。
「高村さん」
背後から声がした。
私は振り返った。笹倉芙美が玄関の内側に立っていた。朝の光を背に受けているせいで、顔の細部はよく見えない。ただ、その口元だけが妙にはっきりしていた。
「妹は、綺麗でしたか」
その問いの意味を、私はすぐには理解できなかった。遺影のことを言っているのだろうと思った。だが、違う気もした。昨夜見たあの顔のことを言っているようにも聞こえた。鏡の中に現れ、片目だけを大きく開き、口を裂くようにして叫んだ女。彼女を綺麗だったかと問われているのだとしたら、そんな言葉はあまりに異様だった。
「……まだ、分かりません」
私はそう答えた。
笹倉は目を伏せた。落胆したようにも見えたし、安心したようにも見えた。彼女はそれ以上何も言わなかった。私は廊下へ出て、背後で扉が閉まる音を聞いた。その音は普通の扉の音だった。だが、閉まる直前、内側から誰かが小さく息を吸ったような音がした。笹倉のものだったのか、それとも別の誰かのものだったのかは分からない。
階段を降りるあいだ、私は一度も上を見なかった。
踊り場の蛍光灯は消えていた。夜には死にかけた魚の目のように瞬いていた照明が、朝になるとただの古い器具に戻っている。壁の白い塗装も、手すりの錆も、滑り止めの剥がれた階段も、何ひとつ異常ではない。けれど、その普通さの中に昨夜の記憶が混じると、すべてが薄く汚れて見えた。四階から三階へ、三階から二階へ、一段降りるごとに身体は部屋から離れているはずなのに、意識の方は逆にあの浴室へ戻っていく。
私は昨夜の会話を思い返していた。
妹が死んでから、毎晩です。二時から夜明けまで。
笹倉はそう言った。あの時は被害者の訴えとして聞いていた。けれど今、階段を降りながら思い返すと、その言葉には別の響きがあった。毎晩、現れる。毎晩、続く。毎晩、来る。恐怖を語っているはずなのに、どこか手順を説明しているようでもあった。人は本当に怯えている時、あれほど正確に時刻を言えるものだろうか。二時から夜明けまで、と。まるでそれが長く続いた習慣であるかのように。
私は足を止めそうになった。
考えすぎだと思った。極限状態の人間の言葉遣いを細かく拾って疑うのは、あまりに冷淡ではないかと思った。だが私は写真修復師で、細部を見ることを仕事にしている。人が見過ごす傷、退色、折れ目、焼け焦げ、わずかな影。そういうものを見つけてしまうのが仕事だった。だからこそ、嫌でも気づく。笹倉芙美は、妹の名前を一度も呼ばなかった。
妹。あの子。妹。あの子。
昨夜、彼女はそう呼んだ。
死者を語る時、人は名前に縋る。私はそれを仕事の中で何度も見てきた。遺影の修復を依頼する者は、写真を差し出しながら名前を呼ぶ。母です、ではなく、千代子です。息子です、ではなく、翔太です。人は名前を呼ぶことで、死者を一度だけ現在へ戻そうとする。それなのに笹倉は、美澄という名前を呼ばなかった。妹という関係性の言葉に押し込めたまま、最後まで個人として呼ばなかった。
そのことが、妙に引っかかった。
一階まで降りた時、集合ポストの前で足が止まった。金属製の古いポストが壁一面に並んでいる。朝の光が鈍く反射し、いくつもの小さな歪んだ四角形の中に私の姿が映っていた。私は思わず視線を逸らそうとした。反射面が怖かった。昨夜、あらゆる反射する面に顔が貼りついていたことを思い出したからだ。だが視線を逸らす直前、四〇七号室のポストの投入口から、黒いものが垂れているのが見えた。
髪だった。
長い黒髪が一本、投入口の内側から垂れていた。床には届いていない。けれど風もないのに、ゆっくり揺れている。私は動けなかった。目を閉じ、深く息を吸い、もう一度見る。髪は消えていた。代わりに、ポストの金属面には細い引っ掻き傷がいくつも残っていた。それは偶然の傷にしては整いすぎていて、よく見ると文字の形をしていた。
ミタ。
それだけだった。
私は近づかなかった。触れなかった。確認するために顔を寄せることもしなかった。昨夜からずっと、私は見てしまうことの恐ろしさを思い知らされている。けれど、それでも目は文字を読んでいた。読んでしまったものは、もう読まなかったことにはできない。私はポストから目を離し、団地の外へ出た。
外は、あまりに普通だった。
濡れたアスファルトの上を自転車が通り、犬を連れた老人が信号待ちをし、コンビニの搬入トラックが低いエンジン音を立てている。世界は何事もなかったように朝を始めていた。私はその中に立ちながら、ひどく場違いなものになった気がした。夜の出来事を知っているのは私だけで、私以外の全員が正しく眠り、正しく目覚め、正しく一日を始めている。その正常さが、かえって私を孤立させた。
駐車場に停めていた車へ向かった。ドアを開ける前に、私は助手席を覗き込んだ。誰もいない。当たり前だ。だがその当たり前を確認しなければ、私は車に乗れなかった。運転席に座り、ドアを閉める。密閉された空間に入った瞬間、外の朝の音が一段遠くなり、代わりに自分の呼吸音だけが近くなった。私はしばらくエンジンをかけられなかった。ハンドルに置いた手が震えていた。
ようやくキーを回すと、車は何事もなかったように始動した。私は団地を出た。バックミラーには四階の窓が小さく映った。カーテンは閉まっている。誰もいない。何も見えない。けれど、その窓だけが周囲の部屋より少し暗く見えた。朝の光の中にあってなお、そこだけが夜を残しているようだった。
しばらく走っているうちに、私は自分がずっとバックミラーを気にしていることに気づいた。後部座席には誰もいない。何もない。それなのに、信号で停まるたびにミラーを見る。見ないでいる方が怖かった。やがて国道へ出た頃、後部座席のシートがわずかに沈んでいるように見えた。人ひとり分ではない。だが、誰かが軽く手をついた程度の沈み方だった。私は目を細めた。次の瞬間には元に戻っている。疲れているだけだ、と自分に言い聞かせた。言い聞かせなければ運転できなかった。
耳の奥で、昨夜の声が蘇る。
みて。
みるな。
その二つは矛盾しているようでいて、実際には同じ場所から出ているのかもしれないと思った。見てほしい。けれど見られたくない。助けてほしい。けれど暴かれたくない。死者の声だと考えれば矛盾している。しかし生きている人間の感情としては、むしろ自然だった。傷つけられた者は、自分に起きたことを誰かに知ってほしいと願う一方で、その出来事を見られること自体に耐えられない。私は遺影を預かった時、そのことをもっと早く考えるべきだったのかもしれない。
作業場へ戻ったのは七時を少し回った頃だった。
古い雑居ビルの二階にある私の作業場は、昼間でも薄暗い。窓には遮光カーテンを掛け、壁際には修復待ちの写真やアルバムを保管した箱が積んである。普段なら、そこは私にとって最も落ち着ける場所だった。薬品の匂い、紙の匂い、古い木製の机の匂い。時間の傷を扱うための場所。だがその朝、ドアを開けた瞬間に私は足を止めた。
湿っていた。
室内の空気が、かすかに湿っていた。作業場には水回りがない。暗室はあるが、換気と除湿には気を遣っている。写真を扱う場所に湿気は禁物だからだ。それなのに、部屋の奥から古い浴室のような匂いがした。鉄の匂い、濡れた髪の匂い、排水口の奥に長く溜まった水の匂い。私はしばらくドアを開けたまま立っていた。入るべきではない気がした。だが、遺影も機材も、昨夜撮ったデータも私の手元にある。ここで立ち止まるわけにはいかなかった。
机に鞄を置き、遺影を取り出した。
笹倉美澄。
写真の中の彼女は、昨夜の怪異とは別人のようだった。二十代前半。線の細い、白い肌の女性。目は大きいが、怯えた大きさではなく、もともとそういう造作なのだろう。控えめに笑っている。だが、その笑みには少し硬さがあった。写真修復師として、私はそういう硬さをよく知っている。撮影者の前で自然に笑えない人間の顔。怒らせてはいけない相手の前で、笑顔だけを整えた人間の顔。美澄の笑みには、その種類の遠慮があった。
私は拡大鏡を取った。
最初はいつもの確認作業のつもりだった。紙焼きの状態、退色、表面の微細な傷、埃の付着、補正すべき箇所。そうしたものを順に見るだけのはずだった。けれど黒目の中心に見える小さな反射を確認した時、私は昨夜とは違う種類の寒気を覚えた。そこに浴室の天井らしきものが映っていたからではない。髪に隠れた首筋の右側に、薄い影があったからだ。
最初は撮影時の影だと思った。髪の影。あるいは照明の具合。だが倍率を変えても、その影は消えなかった。むしろ肌の色そのものがわずかに変わっているように見えた。私は角度を変え、光を当て、さらに拡大した。写真修復師としての経験が、そこで勝手に働いた。これは表面の汚れではない。印画紙の傷でもない。撮影時にすでにそこにあった皮膚の変色だった。
指の跡に見えた。
そう思った瞬間、昨夜の笹倉芙美の声が蘇った。
妹が死んでから、毎晩です。
私は遺影から目を離した。
心臓の音が遅れて聞こえてくる。怪異を見た時の恐怖とは違う。もっと現実的で、もっと冷たい。人間が人間に対して抱く種類の寒気だった。もしこの痕が本当に指の跡だとしたら。もし笹倉美澄が、自ら命を絶ったのではなく、誰かに首を掴まれていたのだとしたら。もし昨夜、私が夜明けまで同じ部屋にいた女が、その場にいたのだとしたら。
その考えは、途中で止めようとしても止まらなかった。
私はまだ何も知らない。何も断定できない。だが一度浮かんだ疑念は、写真の傷と同じで、見えないふりをしてもそこに残る。怪異は夜明けとともに消えた。だが写真に残った影は消えない。むしろ朝の光の中で、よりはっきりと浮かび上がってくる。
その時、机の上の電話が鳴った。
音は唐突で、作業場の静けさを不自然に裂いた。私は受話器へ手を伸ばす前に、遺影を見た。美澄は笑っている。控えめに、硬く、こちらの様子をうかがうように。
登録されていない番号だった。
私は受話器を取った。
耳に当てた瞬間、声より先に水音が聞こえた。どこか遠い場所で蛇口が閉まりきらず、一定の間隔で水滴を落としているような音だったが、その水音は電話線の向こうから聞こえているというより、受話器の黒い樹脂の内側に湿った空洞があり、そこから直接こちらの耳へ滲み出してくるようだった。私はすぐに声を出さなかった。出せなかったと言った方が正しい。昨夜の浴室で聞いた水音、床下から滲んできた声、あの女の濡れた喉が擦れるような呼吸が、音の奥に重なって聞こえたせいで、電話という日常的な道具が、もう日常の側に属していないように思えたからだ。
「高村律さんですか」
やがて聞こえたのは、年配の男の声だった。低く、乾いていて、長い間煙草を吸っていた人間のように喉の奥が少し潰れている。だが、その声には奇妙な慎重さがあった。私の名前を確認する一言の中に、相手がすでにこちらの状況をある程度知っていること、そして知っているにもかかわらず、それを言葉にすることを避けていることが透けていた。私は返事をしながら、机の上の遺影から目を離せずにいた。笹倉美澄の笑顔は、先ほどまでと何も変わっていない。にもかかわらず、その瞳の奥の小さな反射だけが、受話器から漏れる水音に合わせて、わずかに濡れていくように見えた。
男は犬飼と名乗った。笹倉の住む団地の元管理担当だという。元、という言い方が気にかかった。現在の管理人ではない。にもかかわらず、彼は昨夜私が笹倉の部屋へ入り、遺影を持ち帰ったことを知っている。笹倉芙美が連絡したのかもしれない。だが、彼女がわざわざそんなことをするだろうか。昨夜の彼女は、私が遺影を持ち出すことを止めなかった。むしろ、そのことを待っていたようにさえ見えた。ならば犬飼は、誰から聞いたのか。私はその問いを口にする前に、受話器の向こうの水音が少し近くなったことに気づいた。
「笹倉さんから写真を預かりましたね」
「なぜ、それを」
そう問うた自分の声は平坦だったが、内側では別のものが動いていた。私はまだ写真を仕事として扱っているつもりでいた。遺影を預かり、修復し、依頼人へ返す。ただそれだけのことだ。だが犬飼の声は、私の手元にあるそれを、写真ではなく、何か危険物のように扱っていた。薬品でも、刃物でも、証拠品でもない。もっと古い、もっと触れてはいけないものとして。
「返してください」
犬飼は言った。
即答だった。頼みごとではなく、命令に近かった。私は受話器を握る手に力を入れた。電話の向こうの男が私を心配しているのか、笹倉家の秘密を隠そうとしているのか、それとも単に事故物件の評判を恐れているのか、その時点では判断がつかなかった。ただ、彼が写真を恐れていることだけは分かった。真相ではなく、写真そのものを恐れている。昨夜、部屋の中にあったあらゆる反射面が顔を持ったことを思い出すと、その恐れは決して迷信だけでは片づけられないようにも思えた。
「写真を、ですか」
「はい。あの家の写真は持ち出してはいけません。遺影も、鏡に写った画像も、部屋で撮ったものも、全部です」
全部、という言葉に、私はカメラを見た。鞄の中には昨夜撮影したデータが残っている。浴室、鏡、リビング、窓、ソファの背、テーブルの裏、そして私の黒目の中に映り込んだあの片目。犬飼が言っている「写真」には、それらも含まれるのだろう。彼は知っているのだ。あの部屋で撮ったものが、単なる画像として終わらないことを。
「理由は?」
私が訊くと、犬飼はすぐには答えなかった。その沈黙の奥で、水音だけが続いた。ぽた、ぽた、と、一定の間隔で落ちていく。その音を聞いているうちに、私は自分の作業場の床に視線を落としていた。水はない。濡れてもいない。けれど、電話の向こうから聞こえる水音は、まるでこの部屋のどこかで鳴っているように近かった。
「連れてくるからです」
犬飼はそう言った。
その一言には、説明を諦めた人間の響きがあった。根拠を示して説得しようとするのではなく、理解されないことを最初から知っている者の声だった。私はその言い方に苛立ちを覚えた。怪異に対する恐怖とは別の苛立ちだった。昨夜、私は確かに説明できないものを見た。けれど今、私の目の前にあるのは一枚の遺影であり、その首筋には人間の指の跡に見える変色が残っている。連れてくるから返せと言われて、はいそうですかと差し出せるほど、私はもう無垢ではいられなかった。
「犬飼さん。あなたは何を知っているんですか」
「知っているというほどではありません。ただ、あの部屋のものを外へ出すと、よくないことが起きる。私は何度も見ました。入居者が変わっても同じです。写真、鏡、髪、爪。そういうものを持ち出すと、二時に声が返ってくる」
完全に迷信の話し方だった。だが、迷信の話し方にしては具体的すぎた。写真、鏡、髪、爪。彼は「縁起が悪い」と言っているのではない。何を持ち出してはいけないかを、分類して記憶している。私は遺影のガラスに映る自分の顔を見た。青白く、目だけが冴えている。昨夜から一睡もしていない顔だった。その背後に、暗室の扉が黒い長方形として映っている。そこには誰もいない。それでも私は、背中の皮膚が粟立つのを感じた。
「美澄さんの死について聞きたい」
「やめた方がいい」
犬飼の返事は早かった。早すぎた。私はそこに、単なる怪異への恐怖とは違うものを聞いた。人間は本当に知らないことについては、まず戸惑う。だが彼は戸惑わなかった。やめた方がいい、と即座に言った。その反応は、美澄の死について何かを知っている者のものだった。
「自殺として処理されたそうですね」
「そう聞いています」
「本当に?」
犬飼は黙った。
沈黙が長かった。その長さだけで、私は答えの一部を受け取ってしまった気がした。人は嘘をつく時、言葉を選ぶ。だが本当に隠したいことに触れられた時は、言葉そのものが消える。私は写真修復の仕事の中で、それに似た沈黙を何度も経験してきた。依頼人が、写真の傷よりも、そこに写っている誰かの存在を隠したがる時。家族写真から一人だけ消してほしいと言う時。理由を尋ねると、たいてい同じ沈黙が来る。犬飼の沈黙は、それに似ていた。
「高村さん。あれはもう、人が触っていい話ではありません。警察も来た。調書も作った。結論も出た。終わった話です」
「終わっていないから、昨夜あれが出たんでしょう」
そう言った瞬間、私は自分の声が怒っていることに気づいた。恐怖より先に怒りが出ていた。理由は分かっていた。終わった話、という言葉が嫌だったのだ。死者が毎晩戻ってきているのに、遺影の首筋に指の跡が残っているのに、姉が妹の名前を一度も呼ばなかったのに、終わった話だと片づける。その言い方は、夜明けの世界が昨夜の異常を何もなかったことにしようとしているのと同じだった。
電話の向こうで犬飼が小さく息を吸った。
「……あなたも見たんですね」
「ええ」
「なら分かるはずです。あれは真相を暴いて鎮まるようなものじゃない。むしろ掘れば掘るほど出てくる。あの部屋に残っているのは、美澄さんだけではありません」
美澄さんだけではない。
その言葉の意味をすぐには理解したくなかった。私は昨夜見た顔を思い出した。前髪の奥から片目だけを覗かせた女。線の細い、色白の顔。あれは美澄だと思っていた。だが犬飼は、それだけではないと言う。では、あの部屋で聞いた複数の声は何だったのか。床下から滲んできた「みるな」と「みて」は、同じ喉から出た声ではなかったのか。私は受話器を持つ手の感覚が薄れていくのを感じた。
「昔から、あの家では“見ないで”という声がしていた」
犬飼は続けた。
「美澄さんが亡くなる前からです。浴室、台所、押し入れ、天井裏。子どもの声、女の声、老人の声。誰かが見ている、誰かに見られている、そう訴える声が何度もあった。だから写真を返してください。あなたのためです」
あなたのため、という言葉が妙に空虚に響いた。私はそれを信じられなかった。犬飼の言葉には確かに恐怖があった。だが同時に、何かを遠ざけようとする焦りもあった。彼は私を守りたいのか。写真を戻したいのか。あるいは、私が写真を通じて何かに気づくことを恐れているのか。受話器の奥ではまだ水音が続いている。ぽた、ぽた、と、まるで彼の言葉の隙間を埋めるように。
「あなたは、真実を隠したいだけでは?」
言葉は思ったより鋭く出た。
犬飼の声が硬くなる。
「私は、不動産屋の人間です。隠したいことなら山ほどあります。事故物件、告知義務、入居者からの苦情。ですが、これは違う。これは、持ち出してはいけないものなんです」
「では、なぜ笹倉美澄さんは死んだんですか」
「……知りません」
「本当に?」
また沈黙が落ちた。
その沈黙の間、私は机の上の遺影を見ていた。美澄の黒目の奥にある反射が、先ほどよりも濃くなっているように見える。浴室の天井。曇った鏡。白い指。だがそれだけではない。さらに奥に、もう一つ、影のようなものがある。顔ではない。手でもない。ただ、誰かが近くに立っていた気配だけが、黒目の奥に沈んでいる。
「高村さん。今日の夜までに返してください。笹倉さんの家へではなく、団地の管理室へ。私が受け取ります」
「笹倉さん本人には?」
「渡してはいけません」
「なぜ」
「彼女は、あれを手元に置きたがる」
その言葉を最後に、電話は切れた。
私はしばらく受話器を耳に当てたまま動かなかった。通話は終わっている。だが、数秒間、水音だけが残っているような気がした。ぽた、ぽた、と、もう回線の向こうには誰もいないはずなのに、音だけが私の耳の奥へ落ち続けている。私はゆっくり受話器を戻した。作業場は静かだった。けれど、その静けさは電話の前とは違っていた。何かを知ってしまったあとの静けさだった。
彼女は、あれを手元に置きたがる。
犬飼の言葉が頭の中で繰り返される。
あれ、とは何か。遺影か。写真か。妹か。怪異か。それとも、自分が妹の死に触れ続けるための何かなのか。私は椅子に座り直し、昨夜の笹倉芙美の顔を思い返した。頬の削げた女。爪のめくれた指。怯えているように見えた目。だが、あの怯えはすべて怪異に向けられていたのか。妹が戻ってくることを恐れていたのか。それとも、妹が戻ってこなくなることを恐れていたのか。
妹が死んでから、毎晩です。二時から夜明けまで。
その言葉を、私はもう一度反芻した。最初に聞いた時は、恐怖に耐える被害者の訴えだと思った。だが今は違って聞こえる。毎晩、来てくれる。毎晩、そこにいる。毎晩、確認できる。そういう響きが混じっているように思えてならなかった。人間は、失ったものを恐れると同時に、失ったものが完全に消えることをもっと恐れることがある。笹倉芙美にとって、あの怪異は本当に忌まわしいだけのものだったのか。私は答えを出せなかった。ただ、胃の奥がぬるく冷えていくのを感じた。
そのとき、作業場のインターホンが鳴った。
電話の直後だったせいで、音は必要以上に大きく聞こえた。私はすぐには立たなかった。モニターの画面へ目を向ける。そこには若い女が立っていた。黒いジャケットに、肩から大きめのバッグを提げている。年齢は二十代後半くらい。髪は後ろでまとめられ、化粧は薄い。目元に疲労の跡があるが、視線は鋭い。あの部屋から来た人間のような湿り気はなかった。むしろ、何かを追い続けて眠れなくなった人間の乾いた疲れ方だった。
「笹倉美澄さんの件で来ました」
モニター越しの声は、若いが落ち着いていた。感情を抑える訓練を受けた人間の声だった。
「警察の方ですか」
「元、です。今はフリーで事件記録を追っています」
「事件記録?」
「埋もれた変死案件です。笹倉美澄さんは、自殺ではありません」
扉の向こうの女は、ほとんど断言した。
私はその言葉を聞いて、胸の奥で何かが沈むのを感じた。驚きではなかった。恐れていた形が、他人の口から輪郭を与えられたことへの反応だった。私はロックを外した。女は朝比奈澪と名乗った。部屋に入るなり、彼女は机の上の遺影を見た。その表情は変わらなかったが、一瞬だけ喉が動いた。緊張か、怒りか、それとも別の感情かは分からない。
「やっぱり、持ち出されていたんですね」
「犬飼さんにも同じことを言われました」
「犬飼は返せと言ったでしょう」
「ええ」
「彼は怖がっているんです。真相じゃなくて、写真を」
朝比奈はバッグから茶封筒を取り出した。中にはコピーされた資料、古い新聞の切り抜き、団地の間取り図、そして死亡時の簡略な記録が入っていた。資料の角は何度も出し入れされたように傷んでいた。これは急に集めたものではない。彼女は以前からこの件を追っている。私はその事実だけで、笹倉美澄の死が、私が昨夜初めて触れた一夜限りの怪異ではなく、すでに誰かの中で長く腐り続けていた事件なのだと理解した。
「私は三年前、所轄にいました。美澄さんの件は担当ではありません。でも、引っかかっていた。浴室での自殺と処理されたのに、現場写真に不自然な点が多すぎたんです」
朝比奈は淡々と言った。その淡々さは犬飼のものとは違っていた。犬飼の淡々さが、恐怖を押し殺したものだとすれば、朝比奈のそれは怒りを形式の中に押し込めたものだった。彼女は資料を机に並べながら、ひとつひとつを指で押さえていく。首の圧迫痕、右手の爪の剥離、浴室の鏡の破損、現場検証前の交換、死亡推定時刻前後の管理室出入り記録の欠落。その単語が並ぶたび、昨夜の怪異が少しずつ現実の事件へと形を変えていくようだった。
「首の痕は、公式記録では転倒時についた可能性があるとされています。でも、位置が高すぎる。右手の爪も三本剥離していました。自分で命を絶つ過程では説明がつきにくい。抵抗した可能性があります」
私の足首に、昨夜掴まれた感触が蘇った。剥き出しの爪の裏。皮膚へ沈む指。あの感触は怪異のものだった。だがもし、あれが美澄の記憶に基づくものだとしたら。彼女が最後に何かを掴み、引っ掻き、爪を剥がしながら抵抗した記憶が、死後に形を変えて私へ触れていたのだとしたら。そう考えた瞬間、私は昨夜の恐怖を別の意味で受け取り直してしまった。
「それと、浴室の鏡です。割れていたんです。内側から押されたように」
「ただし、現場検証の前に交換されています」
朝比奈は続けた。
「姉の芙美さんが、危ないから片づけたと説明しました」
その声は静かだった。静かすぎて、かえって殺意の輪郭が浮かぶようだった。私は笹倉芙美の顔を思い出した。朝の玄関で、妹は綺麗でしたかと訊いた女。夜明けを確認した者のような顔。遺影を持ち出す私を止めなかった女。あの人は本当に妹を失った姉だったのか。それとも、妹の死の中心にいた誰かなのか。私はまだ断定できなかった。だがもう、単なる被害者として見ることはできなくなっていた。
「犬飼さんはそれを知っていた?」
「知っています。彼は管理側の人間ですから。ただ、彼はそれを事件として掘り返したくない。建物の評判もあるでしょう。でも、それだけじゃない」
「写真が怖いから」
「そうです」
朝比奈は遺影を見た。
「犬飼は昔から、あの部屋には写真を残してはいけないと言っていました。理由は説明しません。ただ、写真に写ったものが夜中に戻ってくる、と」
その言葉に、私は返事をしなかった。私の作業場には、すでにそれが戻ってきている。湿気、鉄の匂い、遺影の黒目の奥に沈んだ反射。朝比奈は信じていなかったと言った。今は、と問うと、彼女は少しだけ沈黙した。その沈黙の長さで、私は答えを察した。
「昨夜、あなたがあの部屋へ入った時刻のあと、私の端末に古い写真が一枚届きました」
彼女はスマートフォンを取り出し、画面をこちらに向けた。
浴室だった。
笹倉家の浴室。鏡の前に、若い美澄さんが立っている。背後には姉の芙美がいる。さらに鏡の端に、顔の見えない誰かの手が映っている。私は画面に顔を近づけた。添付ファイル名は“kaerigo_02”。送信時刻は二時二分。昨夜、私があの部屋の中で、顔を見ていた時間だ。
画面の中の美澄さんは泣いていなかった。ただこちらを見ていた。片目だけが前髪で隠れ、見えている目は異様に大きい。だが、私が見ていたのは目ではなかった。首に手がかかっている。細い指。女の手に見える。だがその手が本当に芙美のものなのかは、画面だけでは判断できなかった。
「高村さん。あなたは昨夜、殺人を犯した可能性のある人物と一緒にいました」
朝比奈の言葉は、静かに部屋の床へ落ちた。
私は何も言えなかった。昨夜、あの女と夜明けまで同じ部屋にいた。怯えていると思っていた。被害者だと思っていた。だが、もし笹倉芙美が美澄の死に関わっているのだとしたら、昨夜私が見ていたのは、怨霊に苦しめられる姉ではなく、殺人の現場に最も近い場所にいた人間だったことになる。しかも彼女は、妹が綺麗だったかと訊いた。妹が苦しんでいたかではなく、何を言ったかでもなく、綺麗だったかと。
作業場の奥で、暗室の扉が鳴った。
コン、と、一度。
それは強い音ではなかった。だが、今の部屋には大きすぎた。朝比奈がそちらを見る。私も見る。暗室の扉は閉まっている。だが、その下の隙間から、赤い光がわずかに漏れ始めていた。点けた覚えのないセーフライトだった。私は立ち上がろうとしたが、朝比奈が先に息を呑んだ。床へ、細い水の筋が伸びてきていた。暗室の中から、水が流れ出している。
流れ出た水の上に、一枚の写真が浮いていた。
私はそれを拾い上げた。濡れているのに、印画紙はふやけていない。そこには浴室が写っていた。鏡の前に美澄さん。背後に芙美さん。さらにその背後に犬飼。そして鏡の端に、もう一人。顔は見えない。ただ、腕だけが写っている。男の腕だった。美澄さんの首を押さえているのは芙美さんではなかった。だが芙美さんはそこにいた。見ていた。止めていなかった。犬飼もいた。隠した。なら、もう一人は誰なのか。
朝比奈が写真を覗き込んだ。
「この男……」
その瞬間、写真の中の美澄さんの片目が、ぎょろりとこちらを向いた。
私は息を止めた。朝比奈の喉が鳴る。写真の中で、美澄さんの口が開いた。昨夜のように歯茎が裂けるほどではない。ただ、生きていた頃の口元に近い、弱い開き方だった。だからこそ恐ろしかった。怪異の顔ではなく、人間だった頃の顔で、彼女は言った。
「おねえちゃんは、見てた」
声は小さかった。けれど、確かに聞こえた。写真の中からではなく、作業場の湿った空気そのものから響いたようだった。
「いぬかいさんは、かくした」
写真の水が、私の指の間から滴る。
「もうひとり、いた」
暗室の奥で、何かが動いた。濡れた髪を引きずる音。裸足で水を踏む音。そして、地の底から滲み出るような低い息。朝比奈が私の名を呼んだが、私は返事をするまでに数秒を要した。写真に写っている。確かに写っている。だが、これを誰が証拠として扱うのか。死者がこちらを向いた写真を。今、この瞬間に暗室から流れてきた写真を。
「証拠にはならない」
私は言った。
「でも、手がかりにはなる」
その時、私の携帯が震えた。
表示は、笹倉芙美。
朝比奈と目が合う。私は通話を押した。しばらく、何も聞こえなかった。ただ、濡れた呼吸だけがある。昨夜、扉の向こうで聞いたような、近くて遠い呼吸だった。やがて笹倉芙美の声がした。
「高村さん」
声は昨夜と同じだった。弱く、湿っていて、疲れている。けれど、その奥に、何か甘いものが混じっていた。期待に似たもの。待っていたものが近づいてくる時の、隠しきれない微かな熱。
「遺影、直りましたか」
「まだです」
「そうですか」
沈黙が落ちた。その奥で、別の声がした。みて。みないで。みて。みないで。二つの声は重なっていた。笹倉芙美は、ゆっくり笑ったような息を漏らした。
「あの子、綺麗に写っていましたか」
私は携帯を握る手に力を込めた。
その問いは、もう異常だった。妹の安否でも、死の真相でも、怪異の有無でもない。綺麗に写っていたか。それは見ていた者の言葉だった。記録を気にする者の言葉だった。妹を失った姉ではなく、妹がどのように残ったかを確認したがる人間の言葉だった。
「笹倉さん」
「はい」
「今夜、もう一度伺います」
朝比奈がこちらを見た。止める顔ではなかった。行くしかないと分かっている顔だった。電話の向こうで、笹倉芙美が小さく息を吸う。
「二時に?」
「ええ」
沈黙。
そして、彼女は言った。
「では、来ますね」
その言い方が、おかしかった。来てください、ではなかった。来ますね。まるで、自分ではない誰かがそこへ向かうことを、彼女だけが知っているようだった。通話が切れる。暗室の赤い光も同時に消えた。水音が止み、部屋には朝の白さが戻った。けれど、机の上の写真だけは濡れたままだった。
美澄さんの片目は、もうこちらを見ていない。
鏡の奥を見ていた。
その鏡の中に、まだ顔の見えない男が立っている。
私は写真を乾燥用のクリップに挟んだ。犬飼は写真を返せと言う。朝比奈は真実を掘れと言う。笹倉芙美は、妹が綺麗に写っていたかと訊く。そして美澄さんは、見て、と言い、見ないで、とも言う。どれが正しいのかは分からない。ただ一つだけ分かったことがある。あの夜、浴室にいたのは死者だけではない。犯人がいた。傍観者がいた。隠した者がいた。そして今も、誰かがそれを見続けている。
犬飼さんは、写真を返せと言いました。
朝比奈澪さんは、真実を掘り起こすべきだと言いました。
笹倉芙美さんは、妹が綺麗に写っていたかと訊きました。
この三つの言葉は、同じ死をまったく別の方向から照らしています。怪異として封じたい者。事件として暴きたい者。記憶として手元に置きたい者。その中心にいる笹倉美澄さんだけが、自分の死からも、自分の姿からも、いまだ逃げられずにいる。
私は写真修復師です。
だから本来なら、傷んだ写真を直し、欠けた部分を補い、失われかけた顔を元の形へ近づけることが仕事です。ですが、今回ばかりは違うのかもしれません。私は、写真を綺麗にしてはいけないのかもしれない。むしろ、汚れ、傷、圧迫痕、剥がれた爪、割れた鏡、消された記録、そのすべてを、消さずに見なければならないのかもしれない。
美澄さんは、「見て」と言いました。
同時に、「見ないで」とも言いました。
その矛盾が、今は少しだけ分かる気がします。
見られたくないことほど、誰かに分かってほしい。知られたくない傷ほど、なかったことにはされたくない。人はそういう矛盾を抱えたまま死ぬことがある。そして、死んだあともなお、その矛盾だけが残ることがある。
今夜、私はもう一度、笹倉さんの部屋へ戻ります。
二時に。
あの浴室にいたのは、死者だけではありませんでした。犯人がいた。傍観者がいた。隠した者がいた。そして、その誰かはまだ、見られることを恐れている。
もし次の記録が残せるなら、私はそこに書くつもりです。
笹倉美澄さんは、なぜ死んだのか。
そして笹倉芙美さんは、なぜ最後まで妹の名前を呼ばなかったのか。




