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第1話 見てしまった私の記録

 私は写真修復師の高村律です。

 焼けた紙、割れたガラス、色の抜けた黒目――“見たくないもの”ほど、私はピントを合わせて生きてきました。

 これから記すのは、二時にだけ起きる出来事の観測記録です。救いの話ではありません。

 私は助けられなかった。助けるべきだったものから、目を逸らした人間の一人にすぎません。

 それでも、見ることしか私にはできない。だから、書き残します。

 読まれる方へ。夜に読むなら、どうか二時を避けてください。声は返ってきます。


 連絡が来たのは二時を少し回った頃だった。

 湿気のある女の声が名乗り、関東郊外の古い団地で暮らす笹倉だと言った。

 亡くなった妹の遺影を直してほしい、今すぐに、と。


 私は写真修復師として、戦前の焼け跡写真や、事故現場で破れた家族写真を扱う。

 私は撮るより“観測する”側の人間だ。光を拾い、劣化した時間の粒を並べ直す。

 人が視線を逸らすものほど、私はピントを合わせてきた。

 だから、あの夜もためらわなかった。仕事の一件として受けた。ただ、それだけのはずだった。


「明け方でも構いませんよ」

 そう答えると、受話器の向こうでザリと床を爪で撫でる音がした。すぐに囁き声が続く。

「朝は、ダメなんです。夜じゃないと“来ない”から」

 “何が”と訊きかけて、やめた。声の温度で充分だった。


 小雨。首都高から住宅街へ、団地群は目の粗い暗闇の塊に見えた。

 エレベーターは沈黙し、私は四階まで階段を上がる。

 踊り場の蛍光灯は死にかけの魚の目みたいに瞬き、その度に白壁の上を糸の影が水平に滑った。

 足音がひとつ“遅れて”ついてくる。


 笹倉の部屋。チャイムは鳴らず、ノックへチェーン越しの隙間が開く。

 頬の削げた三十代半ばの女。玄関に黒い砂が溜まり、照明に反射して“切れた髪”だと分かった。

「遺影は後で。まず、見てほしいものがあって」

 キッチンの灯りは一度だけ強く、次にほとんど消えるほど弱くなってから“ぬるい白”へ落ち着いた。

 テーブルのスマートフォンには洗面台の鏡の写真。

 中央に黒い凝固があり、そこから女の顔が半分だけ覗く。

 前髪に隠れた片目。見えている片方の目だけが異様に大きく、黒目が湿って広い。

 猫の夜目が開き切った深さ。唇は少し割れ、皮が細くめくれている。

「今夜の二時ちょうどです。毎晩、二時にだけ増えます」

「合成では?」

 彼女は首を振る。テーブルの縁を掴む指の爪が半分めくれ、肉色が覗いた。痛みが来ない表情が、むしろ痛かった。


 そのとき、シンクの下からキリ、キリと木を引っ掻く音。

 止むと同時に、蛇口から茶色い水がぽた、ぽたと落ちた。さっきまで乾いていたはずだ。

「妹が死んでから、毎晩です。二時から夜明けまで」

「妹さんは?」

 空気を飲むような呼吸のあと、声。

「三か月前。浴室で。最後に、『見ないで』って」


 照明が一瞬落ち、戻った。戻った床に水の手形が二つ。小さな両手。

 水墨のように黒く、手首より先だけが貼り付いている。じわじわと輪郭が滲んで“ついたばかり”だと分かる。


 浴室。ユニットは薄暗く、鏡は曇り、浴槽には浅い水。呼吸のように水面が上下する。

 換気扇が逆回転を始め、湿った粒が雪のように落ちた。頬に触れたそれは生温かく、鉄の匂い。

 縁に落ちた髪束は互いに吸い寄せられて一本の芯になり、蛇みたいに先端をこちらへ向ける。

「誰かいますか」

 無意味だと知りながら声が出た。水面の呼吸は二拍、速くなる。

 私は癖でシャッターを切る。フラッシュの白。光が消えたあと、**鏡に“増えた顔”**があった。


 はっきり、見えた。

 線の細い色白の女。前髪の奥に片目だけを覗かせ、もう片方は髪に隠れている。

 覗いた片目だけが異様に大きく、黒が広い。猫目の縦が濡れて、私の中の暗い部分に焦点を合わせる。

 口がゆっくり、音を立てずに開く。笑っていない。皮膚が裂け、歯茎が盛り上がり、歯が歯茎に食い込む。

 開けば開くほど、歯茎が内側から引きちぎられていく。舌が鏡の内側を舐め、ビチュ、とこちら側の空気にだけ音が染みた。

「やめて」

 笹倉が言う。毎晩言い続けた整った抑揚のある言葉。

 顔は鏡の中で横へ滑り、端に届くと画鋲を外すみたいにふっと消えた。


 リビングの時計が二時を打つ。玄関のチェーンが「外から」外れる音。ジャリ。

 濡れた見えない足がマットを踏み、輪が一歩ずつ廊下へ押される。

 足跡はリビング手前で消え、代わりにソファの背が内側から丸く膨らんだ。額が押し付けられている。私は右から覗く。


 ——いない。

 見えないのに、いる。髪が私の指に絡み、引けば皮膚に吸い付く。剥がしたいのに、私の手の甲の皮が先に剥けそうになる。

 テーブルの下。天板の裏に、逆さの顔が密着していた。

 木口に歯を沈め、ショリ、ショリと砂糖を刺すような音。

 前髪の隙間の片目が私へ回り、黒い穴に吸い込まれる感覚が走る。

「誰」

 声が出た瞬間、顔は耳を圧する音で——


「アアアアアアアアアアアアアアア!!」


 窓ガラスが四隅から同時に割れ、カーテンが見えない手で引き裂かれた。外、四階の空に白い顔がいくつも浮く。

 輪郭はぼやけ、顎だけが動く。ガラスに歯が当たり、磨りガラスの白が広がる。合唱が遅れて言葉になる。

「み て る」

「やめろ! 今日はこの人は関係ない!」

 笹倉の叫びに顎は止まり、視線が彼女へ移った。私はストロボを構える。意味はない。だが光は観測だ。観測は干渉だ。

「目を閉じて!」

 シャッター。白が満ち——白が引くと、顔はすべて室内側にいた。


 反射する面という面に、顔が貼りつく。

 テレビ、ステンレスのポット、写真立て、窓の残骸。口だけが形を持ち、音を持たない叫びが空気を無音で裂く。

 テレビの黒が盛り上がり、唇と歯を持つ突起がガラスからこちら側へ“通過”してくる。

 破らない。通過する。境界が一瞬だけ連続する。

 喉が貼りつき、肺が勝手に震える。声が出ない。


「駄目か……逃げましょう……」

 笹倉が私の腕を引き、廊下へ。頭上の灯りは私たちの真上に来た瞬間だけ消える。暗さが追う。

 玄関ノブは内側から回しているのに逆回転して開かない。

 ドア下の隙間の暗がりに横向きの白目がひとつ、濡れて光った。

「このドア……夜明けまで、開きません……」

 報告の声。泣き声ではない。


 ——床下から声が滲む。

 木組みの下、配管の隙間、コンクリートの気泡、骨の裏から触れるような低さ。

「み る な……」

 遅れて別の位置から、

「み て……」

 相反する命令が場所を変え、何処にもない口から零れる。


 足首を掴まれた。

 五本。数は正しい。なのに、違う。触れたのは指の腹ではなく、剥き出しの爪の裏。

 強く引っ掻いたまま半分めくれ、薄い肉色が滲む爪。そこから漏れた生温い液が私の皮膚にぬるりと貼りつく。

 押し返すと、指は一本ずつ沈む。触っているのではない、押し入ってくる。皮膚の内側に、他人の指が増える。

「やっ、やめッ……いやああああああああ!!」

 裂けた自分の声が廊下に跳ね、半拍遅れで別の悲鳴が重なった。声が重なるたび床がわずかに膨らむ。


 影が壁際を四つん這いで走り、私たちを中心に円を描く。

 円は渦になり、渦は風になる。髪が浮き、目を閉じても前髪の湿りが頬に触れる。

 瞼の薄皮に冷たい唇が押し当てられ、薄皮越しに歯が触れる感覚が走る。あり得ないはずの感触が、ありありと。

「……見て。お願い」

 耳孔の内側で、骨の表面を舐める声。年齢のない女。語尾が水の中へほどける。


 目を開けた。数センチ先に顔。前髪の暗がりから片目だけ。黒い。

 猫の縦が濡れて大きく、私という暗闇に焦点を合わせる。白目の縁は充血して薄い赤。

 口は叫ぶために開かれ、歯茎が裂け、歯が歯茎に沈む。

「……来るなら、来い」

 意味はない。すでに“届いて”いた。


 空気が冷たい熱で圧される。耳の奥の骨に爪が触れる音がカチと鳴る。

 背中に冷たい膝。棘突起に硬い骨。私は床に顔をつけ、息だけで抵抗する。

 リビングでテレビが勝手に点いた。砂嵐。白黒の粒が走り、やがて濃い黒に集まって縦長の瞳孔になる。

 モニターの黒目が私と同じ速さで呼吸する。呼吸に合わせ、床下の声が低くひび割れて腹に落ちる。

「——み た な」


 私は転がるように廊下を滑った。玄関は怒った金属のように震え、ノブは私の手に対して逆へ回る。

 笹倉が後ろから抱え、剥がれかけの爪で私の袖を掴む。布に爪が引っかかる音が、骨に障る。

「彼女……助けられたんですか……?」

 残酷と知りつつ訊く。

「……助けませんでした。『見ないで』って言われたのに、見てしまった。

 見ている方が、楽だから。目をそらせば、救えたのに……」

 風呂場の扉が内側からコン、コン、コン。心臓より少し速い三拍子。私は開けた。


 鏡。曇りは消え、ぬめる光。私と笹倉。背後に、第三の顔……。

 前髪の隙間の片目が、鏡の中でだけ私の後頭部に焦点を合わせる。私の髪が鏡の中でだけふわりと持ち上がる。

 見えない手が掴む。現実の私は前に転ぶ。床に掌。剥がれない水。

 皮膚が水に掴まれ、剥がそうとすれば自分の皮が先に持っていかれる。背中に膝。耳の骨に、爪がもう一度カチ。


「ガア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ッ!!」


「やめろォォォ……!!」

 笹倉の叫び。彼女は暗闇へ両手を伸ばし、見えない何かを掴む真似をする。

 誰もいない空間に、爪の先が赤い筋を残した。


 ——時間がねじれた。

 朝の鳥声。遠く、しかし確かな音。空の薄さが一段硬くなり、輪郭が戻る手触り。

 床下の声が一斉に黙り、空気がひと息だけ吐く。


 顔は怒った。片目が私の全身を収縮させるように狭まり、口が歪んで叫ぶ。叫びは空気を通らず骨で鳴る。

 音というより衝撃の記録。

「——よ る に」

 言葉は骨の間から滲み、皮膚の内側に文字の形で残る。次に来る夜、あなたはもっと見たがる。

 そう読めた。

 彼女は引き、引くとき、現実から膜を一枚剥いでいった。部屋の空気が、ほんの少し軽くなる。


 五時。鳥。私と笹倉は玄関の前に座っていた。床は乾き、爪の痕跡は見えない。

 ドア下の隙間には暗がりだけ。鏡は私たちだけを映す。

「こうして、夜明けまで」

 寝息のない朝の声。私はうなずき、逃げるように仕事の言葉を出す。

「遺影を、直しましょう」

「お願いします」


 彼女が持ってきた額の中の妹は笑っていた。笑っているのに、黒目の中心がかすかに二重だ。

 遺影のガラスに私の顔が重なり、私は一瞬、二人になった。ガラスの私と外の私。

 どちらの黒目にも微小な反射があり、その中に浴室の天井の角。換気口。グリルの向こうに、逆さの影。

「……今も、いる」

 自分の声より、胸の中の拍動の方が近い。


 遺影のガラスの反射に、私の背後が映る。そこに立つ前髪の女。片目だけがこちらを見て、白目の縁は薄く赤い。

 私はゆっくり振り返る。現実には、いない。

 ガラスの中にだけ、いる。観測の層は朝にも剥がれ切らない。


「夜までに、仕上げます」

 自分の声を聞きながら、背中の皮膚が波立つ。二時。また来る。来させる。


 階段。踊り場の白壁に爪で削った字。粉が指につく。子どもの背丈の位置に二行。

 ——ミテ。

 ——タスケテ。

 私は反射的に撫で、指に絡んだ細い黒髪を強く引く。ほどけない……。

 髪は骨の方へ巻き込み、関節が一つ増えたみたいに、指の中で音がミシと鳴った。


 外。朝の空気は不自然に軽く、鳥の声は過剰に健康だ。

 新聞配達のバイク、洗濯物の音。世界は何事もなかったように始まる。

 私は胸の中で静かに数える。

 二時までの時間。目を閉じるたび増える髪の本数。黒目の中の反射の層。修復すべき傷の位置。傷と傷の間に潜む目の数。

 それらを、全部、見る。救いではない。記録だ。記録は救いにならない。

 だが、記録されなかったものは、もっと残酷に増殖する。


 夜は、必ず来る。

 二時は、必ず来る。

 そして彼女は、必ず——叫ぶ。


 その声は空気を通らず、床下から滲み出て、私の骨に貼りつく。

 私は、目を開ける。

 見る瞬間、こちら側の膜が一枚、また一枚と薄くなる。

 私の黒目の中心に極小の反射が灯り、そこに片目が——濡れた猫の目が——ゆっくり、ゆっくり、開く。


 ——ア ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ッ!!


 “見た瞬間に、見る側は見られる側へ倒れる”。

 職業柄、ずっと知っていた原理が、今夜は骨の内側で鳴りました。私は観測者をやめられない。

 フラッシュを焚き、レンズを開き、鏡を覗きこむたび、こちら側の膜は薄くなる。

 それでも、記録し続けます。記録されなかったものほど、酷く増殖するから。

 もし次に私がここへ書けるなら、それはまた二時を越えられた証です。

 越えられなかった場合は——ガラスの中の私が、代わりに続きを見ているでしょう。

 最後に、笹倉さんへ。あなたの「見ないで」を、私は理解してしまった。


 けれど私は、やはり見ます。それが私の罪であり、役目だから。


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