第7話 もう一人の日本人、鴇淵零雅
北へ。氷雨は針の礼儀で頬を刺し、道の脇の水溜まりは半拍遅れで私たちの姿を映す。水は境界、鏡は片思い。ズレは、だいたい良からぬ前兆だ。
川を渡る浅瀬で、濡れていない男が倒れていた。肩口までびしょ濡れの外套なのに、皮膚だけは乾いている。私は脈を取り、トキが胸に掌を置く。
トキ「呼吸は浅いけど整う。肺に水はない。不思議だね」
男はゆっくり目を開け、まっすぐ私を見る。
零雅「……君も、こっち側?」
夜菜「多分ね。あなたは?」
零雅「鴇淵 零雅。剣は抜けば、湿りを刈る」
彼が鞘走りの小さな音を立てた瞬間、私の髪の先の水滴が消えた。空気が一歩だけ乾く。
ハヤブサ「局所的湿度低下……剣が乾きを生成している」
ゲンボウ「霧が割れる。視界、確保」
川面が、口を持つ。泡立ちが笑いの形になり、下へ誘う。私は指輪を撫で、封印は閉じたまま、【蛇影冥衣】をひと刷毛。
夜菜「境界、見えた。渦は左岸に寄ってる。アジサシ、仮の渡しを」
アジサシ「了解、潮路を引く」
筒と索で作った即席の水路が橋のように伸び、私とエイリクは零雅を挟んで渡る。
カケス「反射角、調整……」
水鏡に矢を通し、笑い型の泡だけを穿つ。トキは転倒者の呼吸を整え、ハヤブサは流速を式に落とす。役割がすべるように噛み合う。
浅瀬の中央、零雅が短く告げた。
零雅「【乾刃】」
見えない刃が霧と水膜を断ち、川の口を閉じる。雨はまだ降っているのに、周囲だけ一瞬だけ晴れた。
エイリク「……君、強いね」
零雅「君もだろう。彼女を中心に、噛み合う動きだ」
エイリクは笑い、でも半歩だけ私の近くに立つ。わかりやすい。
夜菜「助かった。零雅、行く先は同じ。北へ。氷の神殿」
零雅「凍らせたい怒りが、君にあるようだ」
夜菜「ある。けど凍らせ方は、まだ習ってない」
彼は頷いた。氷雨の夜、私たちは一人減らずに渡り切った。水は未練深い。だからこそ、こちらの名も深く覚える。




