第60話 平和条文、半拍の余白を残して
夜風は石松香の樹脂を連れ、通りの灯は白く小さい。私は三冊の帳面――水・雷・火――を机に横並びに置き、各々の『危険の閾値』を撫でた。未払いを増やさない。平和は条文というより、手順書だ。
夜菜「第一条、笑いは税ではない。第二条、赦しは通貨に非ず。第三条、名の貸与は仮名のみ。第四条、繰り返し要求=自動課金。第五条、合図は三回、地を蹴る音」
エイリクが少し遅れて頷く。
エイリク「平和な日、君は編集者みたいだね」
夜菜「未払いを増やさない編集よ」
皆で合図を三回。石が短く応え、壁の濡字が一行だけ灯る。――返シタ。私はミズガルズ・リングの罅を確かめる。乾いた線、一本。増えていない。
その直後、通りの端で声。油紙の屋台が風に鳴り、灯りは豆粒、匂いは鉄と桂皮が薄く重なる。
男「私は鴫原煤太。半白に興味は?」
露店主は掌の上で銀の小片を転がす。縁には、例の癖字が彫られていた。――返シテ。
煤太「“半拍を買いませんか?” 前もって笑う権利、安くします」
銀片は指で受けると、冷たさが不自然に早く引く。表面にごく微かな樹脂の香り――導体街の祝灯に触れたときの手触りに似ている“気がする”。断定はしない。ただ、街のどこかの金属層と繋がっている感じ。
夜菜「半拍は売り物じゃない。編集権は私にあるわ」
煤太は笑い、銀片を一つ屋台の端に置いた。笑いは音にならず、鉄の匂いだけが濃くなる。
ハヤブサが低く呟く。
ハヤブサ「渦制御の呼び水だ。触れないのが正解」
零雅「刃は出さない。口も縫わない。監視だけだ」
私は雷帳の端に朱で囲い、保留印を重ねる――『受領:不明請求(累計九件目)/媒体:金属片(祝灯類似の手触り)/対応:観測継続・累積監視・購入拒否』。保留は罪ではない。返す予定の宣言だ。
エイリクが肩で笑う。
エイリク「予約制の冗談を一つ。“君が断れば、僕も遅れて断る”」
夜菜「採用ね」
灯がさらに二つ点り、地へ静かに沈む。私は最後に、平和条文の末尾へ小さな余白を残した。半拍の余白。そこにだけ、未読の便りと“返シテ”の請求書を挟む場所を作る。条文は成立した。
夜菜「従えず、従わせず――連れて行く」
合図は三回。踵で地を蹴る音が揃い、礼儀の火花が夜の端を一度だけ走った。━━“ぱち”。




