第59話 夕餉の卓、未遂の告白とレシピ
台所は樟脳とカラメル、柑橘白皮の湯気で満ち、鍋の縁が短く息を吐く。私は火帳に冗句で線を引く――『今夜の返済:空腹』。返すべきものが軽い夜ほど、編集は慎重でいい。
ゲンボウ・デーメルが窓を一寸開け、風を“静か”へ寄せる。
ゲンボウ「湯気、右へ」
私は【熔環綴】で鍋縁の温度段差に丸い橋脚を置き、粥の粘りが焦りと喧嘩しないよう間を増やす。━━“ことり”。
火が一度だけ納得する音。ハヤブサは塩の融け方を式の解で確かめ、零雅は椀の縁を鞘口で撫でて湿り核を落とす。カケス・フェローは包丁の背でまな板を軽くたたき、配膳のテンポを整えた。
エイリク・モルグストランドは椅子を引き、少し遅れて腰を下ろす。
エイリク「……その、僕は」
夜菜「予約制」
エイリクは笑って座り直す。未遂という名の安全弁が音もなく作動し、卓に小さな余白が生まれた。余白は、壊さない約束と同義。私は匙の弧で粥の面を一度だけ撫で、温度の波形をそろえる。
カイト・ウルフスパークが匙を持って目を丸くする。
カイト「うまい。どの本で学んだの?」
夜菜「本は湯気。温度は脚注よ」
食卓に手が伸びる音が重なる。箸の当たる小さな打音が、揃っていく。拍頭は観測点、拍裏は退避域――昼間の広場で決めた呼吸の位置を、台所にも運用する。
ふと、卓の奥で窓ガラスが曇った。白い面に、指でなぞったような線がゆっくり集まる。読み慣れた癖字――返シテ。私は、曇りへ小さく一葉だけ添えた。
『受領:保留中』
完了ではない、受け取りだけ。返済は帳面で管理する。私は雷帳に淡く横連記――『受領:不明請求(累計八件目)/媒体:結露/対応:監視続行』。記録を閉じ、湯気の脚注を一つ増やす。
梟雪は熱で曇った眼鏡を外し、息で拭う。
雪「“帰ってきたら灯りを点けます”、ちゃんと書けたよ」
夜菜「読者はきっと、足を拭いて入ってくるわ」
誰かの笑いが、豆粒ほどの光を呼ぶ。地面に染み込むような灯りで、波紋は作らない。私は水帳に横連記――『返シタ:空腹/処理:粥・短文手順・湯気の脚注』
片付けの時、ミズガルズ・リングが湯面を涼め、乾いた線が一瞬だけ軋む。非常口は灰、軽さだけ残る。
エイリクが台拭きをたたみ、視線を宙に置く。
エイリク「“君が断れば、僕も遅れて断る”――今夜はこの予約で」
夜菜「採用するわ」
窓の曇りは静かに薄れ、文字は痕跡だけを残して消えた。私は胸の空洞に句点を置き、未遂の告白を温度で冷蔵する。明日の夜は条文の仕上げ。合図は三回、地を蹴る音――手順書としての平和を、もう一行だけ前へ進めるために。




