第57話 井戸の再誓約、名は軽くしない
村外れの井戸は、昼の熱を石に溜めていた。縁に手を置くと鉄の匂いと苔の湿りが指を舐め、鏡面の水は半拍だけ先に笑って、遅れてこちらに揃う。氷の遅延は時間、雷は電位だった。ここで扱うのは――名。名は乾燥に弱い。
夜菜「ここで名は**“仮名”だけ**」
零雅「本名は刃より折れやすい」
子どもたちは小石に仮名を書き、井戸の縁へそっと置く。梟雪は“雪”の字を角のない線で撫で、石はほんのり温もりを返した。
雪「暗くない井戸、好き」
夜菜「暗くないように設計したかから」
私は雷帳の冒頭にある通行プロトコルを開く。かつて定めた手順――『名の貸与は仮名のみ/返却は門外の地絡で』。これを水域用に置換し、石裏に細い朱で注記する。井戸の縁へ指で仕様変更を転写すると、ゲンボウが井戸の上に“静か”の風を置き、アジサシは滑落対策の索を短く組んだ。
ハヤブサ「徴収対象は仮名の電荷のみ。本名は不可視だ」
カケスは石の角を丸め、零雅は湿り核だけを剥いでいく。トキ・ノクトウィンが私の手首で脈を測る。
トキ「呼吸、良いな。名の乾燥を起こさない温度だ」
私は小石一つずつに『返シタ(仮名の貸与)』の印を軽く置き、井戸の外側へ返す。落とさない。貸与の終点は、水の外に設定する。
その時――水面の端に、紙片と同じ癖字の影がふっと滲んだ。返シテ。今度は音でも紙でもない。水だ。
エイリク「見なかったことに……は、しないよね」
夜菜「しない。保留。返さないのではなく、返す予定」
雷帳の端を朱で囲み、水帳にも横連記する――『受領:不明請求(累計六件目)/媒体:紙→窓→札→便箋→結び目→水面/対応:観測継続・繰り返し=自動課金・名関連への干渉なし』
零雅「口だけ縫い止める矢、今はやめる」
夜菜「名に触れる前に、句読点を増やすだけでいいわ」
私は【霙綴】で呼吸の句点を増やし、水面の“半拍”に短い間を置く。井戸の鏡はため息のように曇り、すぐ澄んだ。━━“ぱち”。
礼儀の火花が石の縁を一度だけは知って、消える。
梟雪が袖を引く。
雪「医師に刺繍してもいい?」
夜菜「糸でも橋脚は立つ。明日は裁縫で続きね」
子らがうなずく。私はミズガルズ・リングの罅に触れて確かめる。乾いた線、一本。非常口は灰、軽さだけが残った。
最後に、井戸の内壁へ指で一語――返シタ(仮名の手続き)。水面へは何も書かない。名は軽くしない。
帰り道、夕風が鉄の匂いを運ぶ。中庭では索の結び目が小さく揺れ、保留の札が静かに並び続けている。明日は布と針――雷環と熔環を手習いに変える。そこでも観測点は固定だ。拍の裏で息を合わせ、次の“返シテ”に備える。




