第54話 診療所ボランティア、匂いで泣きを返す
診療所は白い粉薬と晒の匂い。午睡明けの空気は薄く熱を持ち、廊下の影は短い。待合の長椅子で、若い母親が乳児を抱いて揺れている。目は乾いて、喉ぼとけの上下だけが忙しい。泣けないのは、私の昔と似ている。
トキ・ノクトウィンが脈を測り、私にうなずく。
トキ「四拍で寄り添える」
私は鼻腔で配合を組む。樟脳二、カラメル一、柑橘白皮〇・五。胸の空洞で合図を三回、掌へ落として——「【匂涙換算】。涙を匂いで作る術。今ここに転用する。」
夜菜「深呼吸は吐くの長め」
母親の肩甲骨の間へ、掌を一瞬置く。言葉は短く、間を置く。━━"ぱち"。
礼儀の火花が皮膚に触れ、嗅覚の一滴が涙の代わりに喉へ落ちる。
母「……あ、出た」
眼の縁が静かに潤み、抱き方の力が少しだけ抜ける。乳児の呼吸が温度を一度下げ、額の汗は仕事になった。私は水帳の『預かり』に小さく記す——『乳児の汗=預かり/返却期:熱が下がった夜』。
ハヤブサ・アステリオンは窓辺の古い掲示を見つける。
隼「“長話は課電”。撤去対象だ」
夜菜「浴場でも外した。推奨は残すけれど、罰は置かない」
私は紙片を剥がし、下に新しく『推奨:短く、間を多く(電位差の整流)』と貼る。命令形は使わない。条件文で暮らす。
治療室の奥からエイリク・モルグストランドが顔を出す。
エイリク「僕は椅子の脚のぐらつきを直してくる」
夜菜「ありがとう」
夕刻、受付の木箱に匿名の便箋が差し込まれていた。表には癖字で一語——返シテ。保留は逃避ではない。まだ未払いではない。私は胸の空洞に句点を一つ置き、匂いの領収書を並べ直す。
零雅が廊下の突き当りで立ち止まり、小声で言う。
零雅「刃は出さない。だが“口”だけ縫い止める矢も、今は危ない」
夜菜「うん。繰り返し要求は課金対象の準備だけ、雷帳に」
ページの余白へ『繰り返し=自動課金/累積監視』と細注。ハヤブサは頷き、ゲンボウは窓を一寸開けて風を“静か”へ。
母親が会釈して帰る。乳児は眠り、額は冷えている。私は壁の濡れ字に指で一語——返シタ。短く、薄く。
外へ出ると、夕陽の鉄の匂い。アジサシが中庭を指差す。
アジサシ「物干し、今夜のうちに張ろう。結び目は明日の練習にもなる」
夜菜「了解。雷帳に冗句を——『物干し=避雷線の練習台』」
合図は三回。地を軽く蹴る音が揃い、通りの白い祝灯が一つ、二つと灯る。平穏は、やることが多いからこそ平穏。索と洗濯と、小さな張力の授業が待っている。明日は中庭——日常の張力で、もうひとつ返す。




