第45話 無味の夜、匂いだけで煮る
味が落ちた。音が遠のくみたいに、世界から一つの層が抜ける。残るのは匂いと温度と舌触り。匂いの棚で私は作業を始める。樟脳二、焦げ砂糖一、柑橘の白皮〇・五。そこへ石松香を微量。
ゲンボウ「風を細く通す。焦げ匂いだけ先に拾え」
アジサシが竈の上に索を渡し、鍋の位置を微調整する。
アジサシ「火加減は吊って決める。手元の錯覚が混じるから」
零雅は鍋蓋の縁を鞘口で撫で、見えない湿り核だけを削いだ。
零雅「【乾刃】。水筋を整える」
私は米と水を合わせ、指の腹で温度だけを読む。塩は結晶の融け具合で測る。味はない。けれど、湯気は嘘をつかない。
エイリク「味がなくても、温度は嘘をつかない」
夜菜「君の台詞を盗むなら、いま」
エイリクは金輪を灯さず笑う。半拍遅れの笑いは、今夜だけは無音の灯台だ。
孤児宿の小部屋で、最初の椀を梟雪に渡す。
梟雪「……あったかい」
夜菜「温度は言語。受け取れたなら、それが“意味”」
私は火帳の『返シタ』に朱を引く。『孤児の寒さ』。濡字が小さく——返シタ。
やがて竈の火が気まぐれを起こし、鍋底の影が不穏に揺れる。溶断妃が置いていった|助熔の名残だ。甘く丸めるための溶剤は、時に鍋を底から奪う。
ハヤブサ「偏り検出。ΔTが片寄っている」
トキ「呼吸四拍、吐く長め。焦りは温度を上げすぎる」
私は【熔環綴】で鍋縁の温度段差に橋を掛け、逃がし路を三つ作る。アジサシの索がそれと噛み合い、ゲンボウの風が火舌を平坦にする。
━━"ことり"。
鍋の音が一度だけ落ち着く。
台所の外へ出ると、街の灯が少し白くなっている。赦しの通貨は撤回され、笑いは祝灯に戻った。既出ルール適用で、感情は資産計上を降り、手順の材料に戻る。
私はミズガルズの罅を撫でる。一本のまま、乾いた線。非常口の記録が灰になったぶん、ここが軽い。
夜菜「無味の夜は、ここまで」
エイリク「味が戻っても、今の配分を忘れないでいよう」
零雅「次は“赦し”を通電してくるだろう。膜を切る準備はできている」
私は火帳に小さく書く。『繰り返し要求=自動課金/累積監視』。次の扉の向こう、妃はきっと“保存”と呼んで支配を提案する。保存は便利で、支配は楽だ。けれど、楽の後ろに未払いが溜まる。未払いは呪いになる。
合図は三回。踵で地を軽く叩く。匂いは|桂皮が一匙、|鉄が一匙、そこへ新しい湯気が少し。味が戻る前に、私たちは歩き出す。従えず、従わせず、連れて行く。熔環綴の橋脚を携えて。




