第35話 非常口は一度きり、凍った時へ投函する
分体が消えた直後、通路の奥から本体が顔を出した。銅線の束がゆっくりと撚られ、光は優しく、要求は致命。
断線皇「返セ。返セバ、救ウ。返シタなら——食べさセロ」
返済の履歴を餌にする。私は雷帳を閉じ、ミズガルズの罅を撫でる。一本のまま、しかし疲れている。皆の視線が私に集まる。非常口は、ある。けれど——。
夜菜(ここで使う。ここだけで使う)
私は掌を上げ、白の影へ視線を投げた。
夜菜「スワン、従属条——一度だけ。氷で“時”を固定」
スワンは翼を打つ。白呼気が広間の呼吸を一拍だけ凍結させ、音も影も薄氷の下に眠らせた。
夜菜「——これが“一度きり”の非常口。以後は条件文だけで縫う」
その旨を、私は床の氷へ脚注として刻む。自分に向けた禁止の文。
止まった一拍の中で、ハヤブサが式を畳み、ゲンボウは風を止めず、アジサシは索を緊張一歩手前に保つ。
ハヤブサ「過去に傾いた放電だけ切れ」
零雅「【乾刃】」
見えない刃が、過去へ流れた分だけを薄く断つ。未来へ向かう電位は残し、断線皇の“食欲回路”の根を乾かす。
カケスは矢を一射、鏡面で二度折り、皇の口だけを“開けたまま”固定する。喰らい付けず、閉じられもせず。
エイリクは金輪を灯し、すぐ消す。合図は三回、地面を蹴る音。
トキ「心拍、良。呼吸維持」
凍った一拍が解ける。断線皇のやさしい声が、今度は黙る。沈黙は撤退の印。私は壁に短く書く。——返シタ(非常口行使)。
スワンは翼をたたみ、視線だけで告げる。
スワン「約した通り。一度。美しい緊急」
夜菜(ありがとう。次はもう使わない)
胸の空洞に冷たい句点が一つ増え、私はそれを封緘する。非常口を使った事実こそ、次の章で腐らせないよう最初に返すべき未払いだ。私はミズガルズに触れ、罅が一本のまま増えていないことを確かめ、踵で三度。退く。本体はやさしさの仮面を畳み、暗がりへ沈んだ。




