第3話 森の魔女、営業妨害
村は、緑に埋もれた陶器の破片みたいに、樹海の縁に散らばっていた。水車小屋、共同井戸、乾いた草屋根。昼は静か、夜は——さらに静か。
昼の間に挨拶を済ませる。視線はすべる。私の髪色と瞳は、噂を作るには理想の燃料らしい。
夜——灯が、順番に死んだ。最初は外灯。次は家の窓。最後に、水車小屋の隙間の灯が、ふっと消える。
空気の味が変わる。金属が舌にのる。湿度が急に若返ったみたいに、肌に貼りつく。
夜菜「今日は、笑わない日?」
誰も答えない。答えないのではなく、答えられないのに気づくまで、五秒。
エイリク「……喉、押さえてる人が多い」
夜菜「声が、水に盗まれてる」
噂は足が速い。森の奥で静かに暮らす女は、夜ごと湖面から蛇を呼ぶ。“森の魔女”と口が勝手に名付け、恐れを外注する。その外注先が、今夜は水だ。
私は指輪に指を添える。封印は、緩めない。けれど、光を一滴借りる。【蛇影冥衣】。闇が、濃いヴェールに質を変える。蛇状の淡光が背から伸び、地面に薄い環を描く。村の輪郭が、水脈の地図みたいに見える。
村の中心に、異常。井戸と水車小屋、その間の土が、夜だけ湿り過ぎている。そこだけが、呼吸を繰り返す肺のように膨らみ、しぼむ。
夜菜「水は記憶する。ここは、なにを覚えてるの?」
エイリク「君のそういう言い方、嫌いじゃない」
夜菜「褒めてるのか牽制なのか、どっち」
エイリク「両方」
水車は止まっていた。なのに、止まっているはずの羽根が、夜だけ逆回転する痕跡がある。苔の向き、滴の跳ね方、木の繊維の毛羽立ち。昼と夜で、ねじれが生じている。
井戸の縁に手を置く。冷たい。冷たいのに、内側に体温があるように思える。耳を近づける。
——笑い声。いや、笑いの形をした水音。
夜菜「……“落星疫”って知ってる?」
エイリク「古戦の残りかすが、人を病みの形に変えるってやつ。ここに?」
夜菜「匂いは近い。けど違う。これは、祈りの匂いがする」
祈りは湿度に乗る。乾いていない願いは、水の方へ落ちていく。過飽和——容器があふれるとき、あふれた祈りは呪いの面をかぶる。
私は井戸の内側に掌を向け、【環廻の龍脈】を細く通す。感情を脈に混ぜないこと。怒りは燃料で、同時に火薬。
視界の隅に、文字が一行。誰も刻んでいないのに、湿り気で浮いた濡字。
——返シテ。
夜菜「なにを?」
水は答えない。代わりに、喉の形をして、冷気が昇ってくる。
背後で、誰かが倒れた。エイリクが駆け、肩を支える。
エイリク「助けよう。君は見捨てられない顔をしてる」
夜菜「見捨てられない顔ってどんな顔?」
エイリク「泣く準備をしてるのに、泣く練習をしてない顔」
私は笑う。少しだけ。笑いは封印の隙間を塞ぐ薬だ。
夜菜「私たちは医者じゃない。でも、水路は直せる」
エイリク「水路?」
夜菜「祈りの流れ。どこかで逆流してる。誰かが、あるいはなにかが」
私は地面に指で円を描く。薄い光が浮く。蛇の尾が咥える環。世界の継ぎ目は、たいてい円で記号化される。
夜菜「原因は明日、見に行く。水車小屋の奥。昼のうちに、準備をする。夜は、水が強い」
エイリク「了解。僕は村の外灯をまとめて点検する。……それと、火の番。独りでやるなよ」
夜菜「独りは嫌いじゃない」
エイリク「知ってる。けど、二人で最強っていう流行語、試してみたくならない?」
私は頷く。頷き方に、まだ不慣れな筋肉がある。
村の夜は、灯が戻っても、完全には明るくならない。明るさは、明るいだけでは機能しない。安心とセットで初めて仕事をする。
井戸の縁から離れるとき、指輪が、小さく、ひとつ脈打つ。
封印はオフにしない。でも、明日は牙を見せる。牙は噛むためだけにあるわけじゃない。噛み合うためにもある。
ミズガルズ・リングに触れる。冷たい。冷たいのに、心は少し温かくなる。
夜菜「祈り、返してもらう」
言葉は誓いの骨。私はそれを、明日のために組み上げる。
風が吹いた。湖面が遠くで、一度だけ深く呼吸する音がした。ここから先は、原因の話になる。私の役割は、原因と、結果の中間に橋を架けることだ。