第29話 断線皇、やさしい停電の誘い
神殿核へ降りる螺旋は、銅と玄武岩の層が交互に巻かれていて、足裏の感触が二歩ごとに変わる。乾いた石紙の音、次に鈍い導体の息。壁の溝には微小な火花が時折走り、━━"ぱち"と礼儀正しい距離感でこちらを牽制する。私は踵を三度だけ鳴らす。合図は合図として、十分。
途中、通路の幅が急に広がり、空気の匂いがやさしくなった。柑橘の白皮の甘さが増す。私は瞬きの回数をわざと一度増やし、胸の空洞の温度を半度だけ上下させる。やさしさの匂いに身を寄せる前に、句点をひとつ増やす訓練。
断線皇「返セ。半拍。返セバ、救ウ」
声は親切。内容は致命。壁の銅線がやわらかく笑い、足元の石紙が私の名を覚えようとする。私は雷帳の“名の在庫”ページを閉じ、【霙綴】で返答を短文化する。
夜菜「未読。返答は保留」
エイリク・モルグストランドは半歩、私の死角へ寄る。金輪は点けない。零雅は鞘口で空気の湿り核をさらい、刃は出さない。
零雅「やさしい停電は、致命より危険だ。灯りのほうから寄ってくる」
ハヤブサ・アステリオンは床に式を描き、渦ではなく“線”のモデルを置く。
ハヤブサ「断輪は振幅を壊す。だが断線は“接続点の孤立化”。回路図からノードを黙って消す攻撃だ」
ゲンボウ・デーメルが風向を換え、やさしい匂いだけを脇へ流す。
ゲンボウ「匂いは右。正面は無臭にした」
壁の濡字が増える。——返セ。返セ。返セ。私の皮膚は、その繰り返しの多さを“やさしさ”の別名と学習している。繰り返すほど、相手は親切に見える。繰り返しは催眠の別名だ。
夜菜「仕様変更。繰り返しへの課金」
私は雷帳の余白に小さく書く。
『繰り返し要求=課金対象』
それを壁に触れて写す。壁文字が一拍だけ渋い顔をした——ように私には見えた。
カケス・フェローは矢を伏せたまま、矢羽根で自分の喉元を軽く撫でる。
カケス「僕、喋らない。矢も今は打たない。繰り返しに“返す”を乗せるのは危ないから」
トキ・ノクトウィンは私の手首で脈を数え、呼吸四拍を確認する。
トキ「心拍、良好。涙腺の抑制は継続中。胸の圧は句読点で逃がせている」
断線皇「返セ。やさシク、返セ」
夜菜「仕様を読み替える。返すのは“危険の電位差”。半拍は返さない」
私は【氷継の環】で通路の継ぎ目を“渡す足場”へ転用し、やさしい停電が“孤立”を作る前に逃がし路を作る。アジサシ・グラスフェザーが上段に架索を増設し、過剰な静電を地絡に落とす。
アジサシ「崩れたら、ここを走れ」
断線皇の声が一瞬だけ低くなり、銅線の端が“水蛇の首”みたいに捩れた。優しさの仮面の縫い目が、ほんの少しだけ見える。
エイリク「夜菜。君が“返さないもの”を決めた顔、好き」
夜菜「返さない。半拍は私の編集権」
壁の濡字が薄れ、空気の柑橘が退く。私は指で短く『返シタ』と壁に書く。返したのは“やさしさの催眠”の請求書。半拍は返していない。
零雅「撤収。ここは勝ちではなく、見切り」
ハヤブサ「同意。過制御は禁物だ」
私は胸の空洞に句点をひとつ置く。返していないものを抱えるのは、罪悪ではない。それは“編集の予定”だ。次の間で、鏡が待つ。鏡は時間ではなく電位を遅らせる。似て見えて、噛み合う歯車が違う——その一文を、私は心の見出しに立てた。




