第2話 湖の縁で出会う、緑の笑顔
樹海の中央に、湖が一枚置かれている。風がない日は、鏡。風がある日は、思い出の紙をめくる音。私は倒木の上に小さな炉をこしらえ、鍋の水を煮沸する。文明とは、火と清潔の持ち運びだ。
水面の近くは涼しい。舌に金属が薄く触れる。水が誰かの“最終呼気”を、まだ離していない味。私は鍋に乾いた草を一つ。香りで、匂いの境界線を引き直す。
夜菜「一人は、嫌いじゃない」
口に出すと、嘘になる。嫌いじゃないと、好きの間にあるのは、慣れだ。私は慣れている。慣れは強さで、弱さでもある。
???「やあ!」
声は唐突。私は鍋を持ち上げる。反射は、たいてい命を延ばす。
現れたのは少年。深い緑と碧の髪。虹彩は草原に薬草を溶かした色。瞳の周りに、金の光輪がふっと浮いて、すぐ収まる。
エイリク・モルグストランド。旅人。独りが嫌いそうな笑顔。
エイリク「ひゃっ、森の魔女! ……って言うと怒られる?」
夜菜「最初に怒られるのは、自己紹介を省いた無礼だよ」
エイリク「エイリクだ。旅の途中。腹も心も減りがちさ」
夜菜「夜菜。ここで立ってると、噂が生える」
彼は私の鍋をのぞき込む。水面に二人映る。けれど、湖の中の彼は、半拍遅れて笑う。私は視線だけで確認し、視線だけで忘れたふりをする。
エイリク「手際いいね。君、ここで暮らしてるの?」
夜菜「今は。地図はまだ私を採用してないけど」
彼は笑う。笑うと、背中の空気が柔らかくなる。私は気づく。彼の首元に、細い模様。鼬の爪痕みたいなものが、淡く走ったり消えたりする。
エイリク「その指輪、ただ者じゃない。……見たことはないけど、嫌な予感だけはできる」
夜菜「予感は大事。予言は、もっと厄介」
指輪は黙っている。けれど、薄い脈を打つ。封印具。力を抑える蓋。外せば、私は世界の燃料になるのかもしれない。
エイリク「森の外れに村がある。水車と井戸のある、静かなとこ。……静かすぎるって噂が、最近」
夜菜「静けさは、音の不在じゃない。音の抑圧」
エイリク「難しいこと言う。けど、行ってみない?」
私は鍋を火から下ろし、彼と視線を合わせる。独りは嫌いじゃないけれど、二人でというのは、まだ試したことがない。
夜菜「道案内は?」
エイリク「任せて。独りは嫌いだから、人のいる道は覚えてる」
湖を離れると、背後で水が一回、深く呼吸した。振り返らない。覚えている水に、覚えられすぎると、帰り道が狭くなる。